シンクロニシティ & etc.

日々訪れるシンクロニシティの意味の探求と、「青天井」な人間力向上の追究、その他いろいろなことについて。

人の多様性について

2005-12-20 02:55:41 | 気づき

 最近とても思うのは、ほんとに当たり前のことなんですが、人間には、多様性があるということです。

 世の中には、とてもいい人もいるし、悪い人もいる。性格も、人の数だけあるわけです。 

 また、同じ人の中に、ものすごく良い性質と、ものすごい悪い性質が同居していることもしばしばあります。

 でも、結構人って、「世の中皆いい人だ。」とか、「世の中悪い人ばっかりだ。」のような、一般化を行いがちです。調子がいいときは前者になりがちだし、調子が悪いときは後者になりがちなわけです。前者のときは、世の中には実際にはあまた悪い人たちがいるのにそう考えるのは非常に危うい状態であるということができるし、後者のときは、とても素晴らしい人が世の中にわんさかいるのにそれを見ないわけですから、ものすごいもったいないわけです。

 また、「あの人は完全に悪い人だ。」とか、「あの人は神様のようにいい人だ。」とか結構簡単に思ったりします。悪いところしかない人間なんてほとんどいないし、逆に、いいところしかない完璧な人間なんてめったにないのに。

 このような、多様性にあふれる人の海の中で、私は、心の目をきちんと開いて、素晴らしい人をどんどん見つけて行きたいし、個々の人の中の素敵な部分をどんどん見出して行きたいと思っています。そして、個々の人の中の悪い部分については、実害がない限り目をつぶっていきたいと思います。

 P.S. こういう話って、男女間の話でもぴったりあてはまりますよね。「男って皆~だ。」とか「女なんてしょせん~だ。」とかいう議論ほど不毛なものはないし、100点満点の男も女も、0点の男も女もほとんどいないわけです。 


場所をめぐるシンクロニシティ~恵比寿①~

2005-12-18 22:50:32 | 場所についてのシンクロニシティ

 恵比寿も結構、シンクロニシティが起きてるところです。こんなにいろいろ集中する駅も珍しいです。ちなみに私は明日恵比寿である方と食事します。以下、列挙します。

1.子供時代に、うちの父の上司のアメリカ人の家があり、ときどき遊びに行った。

2.父が使ってる税理士事務所があり、私も何回かお邪魔した。

3.同期の弁護士のMさんが1年ほど前に結婚して引っ越してきた。

4.生徒さんの一人のOさんの職場がある。

5.付き合っていた人が住んでいた。

6.前に勤めていた会社の同僚のFさんが1年ほど前に会社を作り、本社を置いた。

7.生徒さんの一人のKさんがオフィスを持っている。

8.こばじゅんさんの金色の自転車に、こばじゅんさんに出会う前に出会ったのは恵比寿の駅前だった(http://blog.goo.ne.jp/imagingstar/e/666940d310b497d1e73558a7cc8e8534)。

9.8ヶ月くらい前に、恵比寿の駅前でダンスの練習をしている女性を見て、ダンサーのSさんに似ているような気がしたので、Sさんに電話をかけたら、彼女が、「今電車に乗っていて、恵比寿にちょうど着くところなんです。」と言ったのでビックリした。

10.1年くらい前に、恵比寿のガーデンプレイス側から駅の改札に向かうとき、2つの道が合流するところで、一緒にいた人に、「さっきガーデンプレイスで見た、知り合いの○○さんがここでいきなり目の前にいたら恐いよね。」と言って進んだら、本当に○○さんがもう1つの道から出てきて度肝を抜かした。

 こんなところでしょうか。なんとなく、これからも恵比寿についてはいろいろなことがまだまだ起きそうな予感がする、imagingstarでありました。 


シンクロニシティが出した私の宿題2

2005-12-18 12:45:11 | シンクロニシティが出した宿題

 前に、シンクロニシティから示された私の宿題(http://blog.goo.ne.jp/imagingstar/e/94f1e36dc1a7a452d77df6b169872d11)について、ちゃんとやったかどうかなどについて追跡調査しました。

 1.
NANA
を観にいくこと→実現しました。

 2.
上海
に行くこと。
 →今月28日から大連→北京→上海と行き、1月7日に戻ってきます。
 これに関しては、すでにピンポイントのシンクロニシティが2件起きまし
 た。ここらへんの流れが活性化しそうな予感がします。もう少ししたらご報
 告します。


 3.
漫画喫茶
を体験すること。
 →忘れてました。4.の企画が優先になってペンディング。

 4.自分の
特許
をできるだけ早く出すこと。
 →これは現在進行形ですが、恐らく今月中に実現できそうです。これについては、関連するような話が私のところに
  なぜかどんどん集まってきているという現象が起きてます。

 5.本を書くための、アンケートを完成させること。→そのために本に関係ある人と話し合いをする。
 →これは、4.の特許を素にした本の企画(別企画)を優先させるためペン
 ディングに。

 6.良さそうな企画はどんどん
実行すること。
 →これは実行できてます。

 以上のような経過をたどってます、今のところ。

 全般的には、シンクロニシティは増えている状況ですね、最近は。ブログでも大分書いてますが、他にも細かいものが沢山起きてます。


2005-12-16 19:36:45 | 気づき

  嘘って、考える対象として興味深いです。

 必要悪じゃないけど、必要嘘ってのもある。だから、嘘であれば全部が全部いけないことというわけでもないと思います。

 しかし、後ろめたい嘘には、とても悪い作用があります。もちろん、そういう嘘は倫理的にも問題があるのですが、ここではそういう倫理的なことについては触れず、このような嘘をつくことで確実に自分にかえってくる害について考えてみます。

 そういう嘘をつくと、自分の心を外に対して開けなくなります。嘘がばれたら困りますから。嘘をつくたびに、自分の心が閉じていくわけです。

 そうすると、外からは、嘘をついた人の心の中は見えにくくなります。  それだけでも、外から見て、なんとなく「この人は見えない人だ。」という印象を与えることになりやすいです。そうすると、世界に対して心を開いた人が寄ってきにくくなってくると思われます。世界に向かって心を開いている人は、閉じている人を見ると違和感を感じるようです。

 そして、嘘をついたがゆえに閉じてしまった心の持ち主に対して、違和感を感じない人というのは、同じく嘘をつくことによって自分の心を閉ざしてしまった人で、結局そういう人が周りに集まってきやすくなってくるに違いありません。まさに、「類は友を呼ぶ」という現象が起きるわけです。これもかなり悪い作用といえるでしょう。

 「嘘つきの周りには嘘つきが集まってくる」というのは、かなり恐ろしいですね。でもよくよく観察していると結構ありがちなことです。

  しかし、自分の心を開けなくなることによって生じる、もっと悪い作用は、中からも外の世界が見えにくくなることだと思います。  自分が閉じてしまっていますから、外界に起きる全ての事象について、直接的にその存在を感じることが難しくなってくるのです。 したがって、物事に感動しにくくなってしまいます。

 退屈な時間の始まりです。よほど強い刺激でもないと、その退屈からは逃れられません。しかも、退屈を忘れられるのはその刺激がある間だけです。そして、さらに強い刺激が必要になる・・・ 

 感動ができなくなり、快楽を追い求めるようになるわけです。

 以上から考えるに、周りに嘘つきばかり集まらないようにしつつ、かつビビッドな感性を維持して毎日楽しく過ごそうと思うなら、そういう後ろめたい嘘をできるだけ減らしていく努力が必要だと思うんです。

 これに対して、相手への思いやりから来る嘘、迷惑がかからないかわいい嘘など、ちゃんとした正当化のできる嘘の場合は、そういう害はないと思われます。なぜなら、そういう場合は、ばれても大したことはありませんから、心を閉ざして自分を隠す必要が生じないからです。

  今日は築地のバングラディシュ料理店「ジャラル」から書いてみました。

   少し難しいテーマで、私なりの答えが書き出しのときには見えていなかったので、何回も書き直してしまいました・・・


準備をしようっ!

2005-12-15 23:44:15 | 気づき

 最近、深田恭子ちゃが出ているテレビCMのコピーに、「幸せになる覚悟はできている」というのがあります。覚悟という言葉は、大辞林によると、「危険な状態好ましくない結果を予想し、それに対応できるよう心構えをすること。」とあります。

 幸せというのは、普通に考えると、危険でも、好ましくもない状態でもないですから、このコピーにはひとひねりあるわけで、そこが面白いわけです。幸せの中には、楽しいことだけではなく、辛いことや、苦しいことさえも全部含まれているんだ、というような、ある種の哲学観さえ感じます。

 この言葉に端を発してちょっと連想を膨らませてみました。

 「覚悟」というのは、ある意味、「心の準備」です。

 ありとあらゆることには、準備が必要です。それは、心だけに限らない。

 幸せになるには、幸せになるための準備が必要。仕事で良い結果を出すためには、仕事の十分な準備が必要。良い人に会うためには、自分が良い人になるという準備が必要。

 そして、私がたまに陥るのが、「準備をしても、その機会が来るのはめったにないから、準備はさぼっても大丈夫。」という思いです。

 でも、そういうスタンスではチャンスが来てもきっちりものにできません。本当のチャンスは、100回に1回かもしれません。それをものにできるのは、十分な準備をした人だけです。

 だから、何をやるにしても、できる限りの準備をした方が良いという結論になります。

 また、準備をちゃんとやってると、なぜか、チャンスが寄ってきやすいように思います。これがどうしてなのかはわからないけど、準備がしっかりできると、チャンスが必ず訪れるように思います。だから、チャンスが全然来ないとしたら、それは準備がきちんとできていないと思ったほうが良いかもしれません。

 その点からも、やっぱり準備はできうるかぎりきっちりした方が良いですね。

 さ、明日の準備をしっかりとやって、寝ることにいたしましょう。


ケーキの味は買った後でないとわからない~選択とは?~

2005-12-14 22:40:41 | 気づき

 中学生くらいの頃から、ケーキ屋に行くと思うようになったのは、沢山ケーキがあってその中から自分が食べるケーキを選ぶとき、はじめた行ったケーキ屋の場合、どれが本当に美味しいかは、買った後でないと分からない、ということ。

 要は、選択の正しさは、選択の前には分かりようがないということ。試食があれば別ですが、そうでない場合は、だいたい、パッと見て、直感で何となく選ぶわけです。

 そういうことって、人生においてもとっても多いと思うんです。

 学校の選択なんか、その代表例。入ってみて初めて、本当のその学校の姿が分かる。でも、わかったときには既に選択の機会は終了しているわけです。

 もう一度、選択しなおせることであれば、やり直せばいいのだから、問題ないのですが、そう簡単に選択しなおせない事柄については、選択を間違えた場合、かなり大変ですね。

 ボタンを最初に掛け違えたまま、人生がどんどんと進んでいってしまうわけです。

 こういう場合に、どうすればいいか、については一概に答えは出せません。

 じゃあ、どうすればいいか。一番いいのは、選択自体を一番適当に行うことですよね。そのためには、選択をするときに気をつけることがいくつかあるのではないでしょうか。私なりに考えた結果を書きますね。全ての選択にあてはまることばかりでもないですが、そこのところはご容赦ください。

 1.お試しバージョンを試す(→試食、ですね)。
 2.今までに自分がした、似たような選択の結果のデータを思い出す。過去に20回類似の選択をした場合、成功は何回で、失敗は何回だったか。
 3.既に類似のことについて選択した経験を持つ人で、自分と価値観が最も近いと思われる人物に、その選択の是非についてあらかじめ相談する。
 4.選択の対象を、五感プラス第六感をフル動員して、よくよく分析する。 
 5.選択の対象についての情報をできるだけ集める。

 みなさんは、どんな風に毎日の選択をしていますか?人間は、朝何時に起きるか、から始まって、夜何時に寝るか、まで、毎日恐ろしく沢山の選択をしており、その選択の1つ1つの積み重ねこそが私たちの未来を決定していくのです。

 「選択によって未来が決まる」わけですから、最も適切な選択をするための方法論については、いくら検討してもし足りないのではないでしょうか。

 あと、ここまで書いて思ったのは、選択が正しいか、どうかについては、実は、その選択をするときにどのようなプロセスを取ったかがかなり影響するということ。

 つまり、いろいろとちゃんとしたプロセスを取って行った選択は、そういう手続きをきちんと踏んで行ったが故に正しい、ということができるわけです。

 こういう考え方自体は、法律の世界では、「正しい手続きを取ったが故にその結論は正しい。」という論理として、当然のように思われていることです。

 これを一般にあてはめてもとっても有用だな、と思いました。

 上に挙げた1~5のような手続きをきちんと踏んでおけば、たとえどんな結果が出た場合でも、そのときの判断としてはベストだったのだから、納得がいく、というわけです。

 全然手続きを踏まずに、エイヤっと決めていたのでは、成功した場合は偶然で再現性がなく、失敗した場合も後悔至極、ということになりかねません。

 もちろん、1~5のようなことが全く不可能である場合は、エイヤで決める他ありませんが(笑)。


温かい光

2005-12-14 00:04:31 | ちょっとした話題&日々の出来事

 今日は、M社長(※注)主催の忘年会でした。

 年の終わりくらい抑え気味にして、今日はみなさんのお話を聞かせていただこうと思っていたのですが、長崎のIさんに飲まされてしまい、想定外のご乱心。(→私の責任じゃない、というニュアンスです(笑))

 でも、ほんとに皆さん私に温かく接してくれました。このときの感覚はたとえるなら、ぽかぽかと温かい太陽の日差しが作る陽だまりにいるような感じ。

 あーー、本当に、自分が変わると世界が変わるんですね。

 去年の今頃はこんな素晴らしい年末じゃなかった・・・

 若林の駅を降りて、寒空の下を家に向かいながら、飲み会にいらしたみなさん全員からいただいたぬくもりをかみしめ、感動するimagingstarでありました。

 みなさん、ありがとうございました。

 (※注;M社長→このブログにしょっちゅう登場のM社長ですhttp://blog.goo.ne.jp/imagingstar/d/20051013


ある種の不安定

2005-12-13 09:51:31 | 気づき

 さっき気がついたこと。

 それは、自分が、前より良い状態に移行できるかどうか、未確定なときは、移行できる可能性が全く見えないときよりも精神的に良くない場合がままある、ということ。

 本来なら、Aしかないときより、Aに加えてBも加わる可能性があるときの方が断然良い状態のはずで、精神もそれに応じて良い状態になってしかるべきなのに、そうならない場合がしばしばあるわけです。

 恐らく、心の中で、Bが加わる可能性が生じたときに、ハードルを勝手にBのところまで上げてしまうんでしょうね。

 で、Aしかない今に欲求不満状態になってしまい、Bが実現するかしないかが決定するまで不安定な状態になってしまう・・・

 不思議なもんですね。

 問題はハードルの位置なんですが、なんだか自動的に上がってしまうみたいです。

 Bが実現しないって決まるとハードルがこれまた自動的に下がってホッとしたりします。

 「不安定最高!」とでも思い込みましょうか・・・
 あるいは、
 「ギアチェンジのときは、必ずニュートラルに入れなければならない。そのとき不安定なのは当たり前。」とビジュアライズするのも手ですね。

 不安はイヤだから安心しようと思って、Aに安住するようになったら、もう成長は止まりですね。 


本物のポジティブと、半端なポジティブの違い

2005-12-11 23:00:21 | 気づき

 今日テレビを見ていて思ったのが、本物のポジティブシンキングと、半端なポジティブシンキングの間には、ものすごい大きな違いがあるということです。

 その重要な違いが、「自分の過ちを認めるかどうか。」です。  中途半端なポジティブシンキングの人は、自分が失敗してもそれを認めようとせず、「ポジティブ、ポジティブ。人生楽しくなきゃ。」などと言って、放置します。

 こういう半端なポジティブシンキングは、それをしている本人が成長しないということはもちろんのこと、周りの人にとっても大変な迷惑と危険を及ぼします。危険性を伴う業務をしている人が、このタイプのポジティブシンキングをやってる場合にどういうことになるか、を想像すると非常にわかりやすいでしょう。

 これに対して、本物のポジティブシンキングの人は、間違いを直視しようとします。そして、失敗を認め、それを改善するのです。

 この行動の違いはどこから来るのでしょうか。

 私は、これは、本当の意味で、ありのままの自分を肯定できているかどうか、の違いだと思います。

 半端ポジティブの人は、本当は自分に自信がない。それを誤魔化すために、「ポジティブ、ポジティブ」と言っているだけなわけです。だから、失敗を認めることで自分の立つ瀬がなくなってしまいます。

 これに対して、本当にポジティブな人は、ありのままの自分を受け入れ、それを誇りに思っています。だから、失敗を認めることで、自分の立つ瀬がなくなることはありません。それどころか、失敗こそが成長の素だ、くらいに思っています。

 だから、自分のことを好きになり、誇りを持ち、本当の意味でポジティブな人間になることがとても大切なんだと思います。

 半端なポジティブになるくらいだったら、いわゆる悲観的な人のままでいてくれた方が、迷惑を及ぼす程度が少ないだけましなように思うのですが、いかがでしょうか。


UPSアカデミー卒業公演「兆し」

2005-12-10 21:40:55 | ちょっとした話題&日々の出来事
 今日は午後から、演劇を勉強する塾のような、「UPSアカデミー」というところの卒業公演にご招待いただき、シアターV赤坂に観にいってきました。

 私、観劇なんてもの自体本当にひさしぶりで、はじまる前は私の方が緊張したくらいでしたが、始まってみると、香りのする煙を演出で使うなど、創意と工夫に満ちた演出がなされ、また、アカデミーの生徒さん達が全員真剣な演技をしていたせいもあって、なかなか楽しめました。  

 演技って、本当に奥深いものがあるんですね。何だか、3時間の間に頭が妙に活性化してしまいました。

 皆さんには卒業後も活躍していただきたいものです。  「兆し」という題名自体が、ある意味このブログの内容とシンクロしていて、それも興味深いと思いました。

 最近、何が起きても、何かしらのつながりがあるように思えてきました。  全てのことは、全て意味があって起きているような・・・