嘘って、考える対象として興味深いです。
必要悪じゃないけど、必要嘘ってのもある。だから、嘘であれば全部が全部いけないことというわけでもないと思います。
しかし、後ろめたい嘘には、とても悪い作用があります。もちろん、そういう嘘は倫理的にも問題があるのですが、ここではそういう倫理的なことについては触れず、このような嘘をつくことで確実に自分にかえってくる害について考えてみます。
そういう嘘をつくと、自分の心を外に対して開けなくなります。嘘がばれたら困りますから。嘘をつくたびに、自分の心が閉じていくわけです。
そうすると、外からは、嘘をついた人の心の中は見えにくくなります。 それだけでも、外から見て、なんとなく「この人は見えない人だ。」という印象を与えることになりやすいです。そうすると、世界に対して心を開いた人が寄ってきにくくなってくると思われます。世界に向かって心を開いている人は、閉じている人を見ると違和感を感じるようです。
そして、嘘をついたがゆえに閉じてしまった心の持ち主に対して、違和感を感じない人というのは、同じく嘘をつくことによって自分の心を閉ざしてしまった人で、結局そういう人が周りに集まってきやすくなってくるに違いありません。まさに、「類は友を呼ぶ」という現象が起きるわけです。これもかなり悪い作用といえるでしょう。
「嘘つきの周りには嘘つきが集まってくる」というのは、かなり恐ろしいですね。でもよくよく観察していると結構ありがちなことです。
しかし、自分の心を開けなくなることによって生じる、もっと悪い作用は、中からも外の世界が見えにくくなることだと思います。 自分が閉じてしまっていますから、外界に起きる全ての事象について、直接的にその存在を感じることが難しくなってくるのです。 したがって、物事に感動しにくくなってしまいます。
退屈な時間の始まりです。よほど強い刺激でもないと、その退屈からは逃れられません。しかも、退屈を忘れられるのはその刺激がある間だけです。そして、さらに強い刺激が必要になる・・・
感動ができなくなり、快楽を追い求めるようになるわけです。
以上から考えるに、周りに嘘つきばかり集まらないようにしつつ、かつビビッドな感性を維持して毎日楽しく過ごそうと思うなら、そういう後ろめたい嘘をできるだけ減らしていく努力が必要だと思うんです。
これに対して、相手への思いやりから来る嘘、迷惑がかからないかわいい嘘など、ちゃんとした正当化のできる嘘の場合は、そういう害はないと思われます。なぜなら、そういう場合は、ばれても大したことはありませんから、心を閉ざして自分を隠す必要が生じないからです。
今日は築地のバングラディシュ料理店「ジャラル」から書いてみました。
少し難しいテーマで、私なりの答えが書き出しのときには見えていなかったので、何回も書き直してしまいました・・・