普段から、運命は変えられるものだと話しています。
でも、矛盾するようですが、変えられない運命というものもあると思うときがあります。
星の動きが人によって変えられないのと同じく、変えることのできない運命(●)というものがあると思うわけです。
そして、変えられない運命の中でも、外部環境的には変えられる(○)のに、本人の思い込みによって変えられない(●)運命というのがあります。今日はここに着目してみたいと思います。
こういうのは、客観的には変えることが可能に見える(○)わけですから、すごくもったいないですよね。私は、そういうときは、残念に思いながらもあきらめることにしています。
言っても無駄なことが多いし、その人が、その結果(●)を心の底で望んでいるのだから、それを尊重して、その結果を体験させてあげた方が良いというわけです。
全ては運命であって何も変えられない、という運命論者(≒決定論者)は、ここで述べたケースにあてはまりますね。変えられないと思ってるから変えられないわけで、変えられないのは本人のせいなわけですが、本人は自分のせいだとは決して思ってなくて、何か大いなる力だとか、そういう類の存在のせいだと思っているのが興味深いところです。
でも、やっぱり、そのせいで悲惨な結末が避けられない場合は見ていて悲しくなるときもありますよね。そんなことでつまづくなんて、本人が望んでるとしか思えないから、悲しむ必要なんてないのかもしれないけど。
運命論者に言わせれば、変えられると思う立場にいること自体、遥か昔に決定していたって言うことになるのでしょうが、私はそうは思っていません。天然の場合もあるけど、もちろん、本人の主体的努力の成果の場合もあるに違いありません。
運命論者というのは実に不思議だと思うときがあります。未来も全部決まっているなら、今を生きる意味はどう見出しているのでしょうか。何かを選択するとき、運命論者の頭の中ではどのような判断がされているのでしょうか?
私は、未来は決定していると信じている人にとっては未来は決定しているが、決定していないと信じている人には、未来を変えることのできる可能性が出てくるのではないかと思っています。
やはりこういう論点においても、世界は見る者によって違って見える(ブログ既出http://blog.goo.ne.jp/imagingstar/e/acb6d1501362114c35a894dc3f749ad7)ということができるのではないでしょうか。