衝撃的な広島、長崎の原爆地上起爆と北朝鮮における日本チッソの原爆開発:アトランタ紙の記事より
http://rakusen.exblog.jp/26284880/
☆ 理研 京大・湯川秀樹と一体の 「チッソ」
◎ 水俣病のチッソと 北朝鮮の関係
二、日本窒素肥料株式会社(8)【朝鮮興南工場】(2)
興南工場こそ、チッソの戦前における主力工場であった。
数千をかぞえる水の電気分解槽の列、アンモニア合成工場、硫安肥料工場。年間二〇〇万トンの荷役処理能力をもつ興南港湾施設。
山一つ隔てて、苛性ソーダ、石灰窒素を製造する本宮工場、その近くに火薬工場もある。
これら三つの工場群と従業員社宅をあわせた敷地の広さは、約五百数十万坪というから、地方都市ほどの面積があったことになる。
従業員の数は、日本人二万人をふくめ、四万五、〇〇〇人ほどに達した。
水俣工場とは較べようもないほど大規模である。
「事業大観」が出版された時点以降も、日本窒素肥料は虚川江、鴨緑江本流に次々と電源開始を押し進めている。
鴨緑江下流に造られた水豊ダムの名はよく知られている。
この電源開発総体の規模は、アメリカのTVAに匹敵する。
発電所が建設されるたびに、鉱業所や工場が満州との国境ぞいに開かれ、カーバイト、合成ゴムを製造し、軍部に協力して人造石油やロケット燃料も製造している。
四二(昭和一七)年には、日本窒素肥料は、製造会社としての使用総資本で、三菱重工業、日本製鉄に次ぐ、第三位の規模にまで達している。
三井、三菱や住友、安田など旧財閥系でもない野口遵が、ここまで事業を発展させるには、よほどの資金的基盤を必要とする。
日本窒素肥料を設立して以降、朝鮮半島における赴戦江の電源開発のころまでは、三菱による支援をうけていたことは間違いない。
二番目にとりかかった長津江の開発では、水利権を握っていた三菱と衝突して、縁を切り、朝鮮総督宇垣一成の支援を取りつけて水利権を獲取し、金融を、三菱から朝鮮銀行、日本興業銀行などに切り換えていった、と一般には言われている。
しかし、三菱との縁が切れたわけではないらしい。
大塩武の「日窒コンツェルンの研究」九三頁以下によると、長津江水利権獲得をめぐって日本窒素と三菱とが決定的対立に至ったことは事実であるが、
その理由は、三菱が、不況の時に開発はすべきではない、時節を待つべきだとするのに対して、野口は電気さえ増えれば不況の時でも勘定は合うからやるんだ、という開発時期をめぐっての衝突であった。
その後も三菱との金融関係は依然として継続しているし、三菱側の役員も総退陣したわけでもなかった。
しかし、その後は、朝鮮銀行、日本興業銀行と次第につながりを深めていったのも事実である。日本興業銀行との、戦後一貫して続いた深い関係が、この時期に始まっている。
三菱の反対に抗して、結局野口は、長津江電源開発をやり抜くことになる。
このエピソードは、野口の人生をよく物語っている。
北部朝鮮は、日露戦争以降、ロシアとの宿命的な不安をかかえる地雷原のような地域である。
この地に、渾身の力をふるって電源開発に賭ける野口にとっては、個人の命運は企業の命運に重なり、国家の命運とも重なり合っていた。
典型的な明治の人であった。
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