スパシーバ  プーチン

魅力あるプーチン
偽ユダヤによって捏造されたプーチン像と歴史をくずす

「闇の正体は偽ユダヤ」海外記事の移行。 

罪と罰/ロシア革命・日露戦争

2015-10-06 22:54:52 | 罪と罰  戦争  テロ  災害
 
罪と罰  ロシアの視点

① 8.13 ベトナムとその他における米国の犯罪は国際法廷に付されるべき

国際問題委員会のアンドレイ・クリモフ副議長は、米国が第二次世界大戦後から現在までに外国で計画した大規模かつ意図的な殺人に関する国際法廷の設置を提案した。きっかけとなったのは、今年初めに行われたクリモフ議員のベトナム訪問だった。

「今年はベトナムの完全解放から40年だ。私は反米主義者ではなく、米国民を非難しているのではなく、米国人に対するテロを呼びかけてもいない。言っているのは、米国の役人の犯罪的な陰謀だ。

第二次世界大戦時、ナチスは強制収容所の炉で人々を焼いた。米国人はベトナム人をナパームとリンで焼いた。そこに何の違いがあるのだろうか?ナチスの犯罪はニュルンベルク裁判で人道に対する罪に時効はないと判断されたが、米国の戦争犯罪は国際的な法的非難を受けていない」。

「私はこれを良心の法廷と呼ぶ。クアラルンプールで開かれるASEAN議員会議とOSCE議員会議に関する同僚との会合で提起する。米軍兵士の犠牲となった国々が加盟しているからだ。ベトナムの友人たちの援助なしにこれを行うのは難しい。ベトナムの書類が何よりも重要になるからだ」。


☆ スムーズにいかない可能性とは、ベトナムの政治やのなかに、米ユダヤの同胞がいる場合。


② 8.14 ロシア、食料禁輸措置をさらに5カ国に拡大適用

制裁に対する対抗措置として導入した食料禁輸措置を、さらにアルバニア、モンテネグロ、アイスランド、リヒテンシュタイン、ウクライナに拡大適用した。ウクライナについては、キエフがEUとの連合協定の経済部門を適用した場合に限り発動する、とした。メドヴェージェフ首相が木曜の閣議で発表した。

「制裁への加入は、ロシアからの対抗措置をも受け入れるという、意図的な決断である。それがまさに行われたのだ」。


③ 8.13 米国務省、ロシアや中国役人のメールは読んでいないの?の問いにノーアンサー

ケリー米国務長官はテレビ局からのインタビューで、ロシアや中国のハッカーらが自身の電子メールを読んでいる「疑いが濃い」との見解を表していた。

トナー報道官は、米国も同様なことをロシアや中国に対して行なっていないかとの記者からの問いに「悪い試みではない」と回答するのみに留まった。


④ 8.13 オランダ、ウクライナ東部撃墜マレー機情報、開示を拒否

マスコミは政府の開示性についての法律に照らしてオランダ安全法務省に対し、情報の提供を文書で要請したところ、蘭安全法務相は、社会にとって情報が重要性の高いものであるにもかかわらず、「機密保持をより重要」と捉えていると回答した。


☆ 地球には、罪と罰という根本の、普通の倫理が、まるで通じない、亜種、がいるのです。 知っていますか? その正体を。 珍獣。



■■■第2章:「ロシア革命」は「ユダヤ革命」だった

■■日露戦争を画策したハザール系ユダヤの狙い

1904年、日露戦争が勃発した。日露戦争はユダヤ人の画策により、隣同士の2つの国が衝突することになった戦争である。

当時、イギリスのユダヤ人が挑発的な行動に出て、日本もロシアも知らないうちに戦争に巻き込まれていった、というのが実際のところである。日本とロシアの歴史的な関係は、決してよい関係とはいえないかもしれない。が、そこにユダヤ人の画策があったことを考慮に入れなければならない。そう主張するロシア人は少なくない。たとえば、ロシアで出ている『日露戦争におけるユダヤの役割』という本なども、そうしたユダヤ人の動きを論じたものだ。


日露戦争当時、ユダヤ人たちは「ロシア政府の敗北」というスローガンを掲げて革命運動を展開した。このスローガンによって、ユダヤ人の革命家たちは、ロシア政府の敗北を望む日本やアメリカから革命資金を導入することを容易にもしたのである。

日本の資金力はそれほど大きなものではなかったため、主にアメリカの資本が投入された。アメリカの大資本家であり、アシュケナジー・ユダヤ人であるヤコブ・シフが、ロシアのアシュケナジー・ユダヤ人の革命家たちに多額の援助を与えたことは知られている。

こうして第一次ロシア革命の嵐がロシア全土を襲ったが、1906年5月、ロシア政府はストルイピンを首相とする新政府を構成した。

このストルイピンという人物は、民族主義者・国家主義者であったため、強固な反ユダヤ的な政策をとって革命運動を鎮圧していった(そのためレーニンもジュネーブに亡命している)。ストルイピンは「強いロシアをつくろう」というスローガンを掲げて、今日のロシアの「改革」とはまったく異なる、ロシア人によるロシア人のための政治・経済改革を進めていった。

しかし残念なことに、1911年9月、ストルイピン首相は暗殺されてしまった。ストルイピンがキエフに行った際に、ニコライ2世とともに劇場でオペラを見ていたときのことである。彼の席の近くにボグロフというユダヤ人がいた。彼は反体制派、社会革命党の党員で政府の警察のエージェントでもあった。彼はストルイピンの席近くへやって来るや、ニコライ2世の面前で、ピストルを2発、ストルイピンめがけて撃ったのである。

ストルイピンが亡くなったことによって、ロシア人によるロシア人のための改革も終わってしまった。

その頃、ロシアの資本主義経済はかなり強くなっていた。すでに、世界の資本主義諸国の中でも、決して引けをとることのない資本主義国家になっていた。当時のロシアの経済成長率は11~15%で人々の生活水準も高かった。それは10月革命以前のことである。