濱崎六三師範の祭壇前に集合した志木市躰道の子供たち
躰道の良き仲間である濱崎六三師範が70歳で亡くなりました。通夜式に参列しました。
大学時代の躰道部の仲間や躰道関係者が多数参列しておりました。
いつも躰道着を着用して動き回るのが好きな人であり、志木市躰道協会(山田重幸師範会長)では指導を率先して実施しており子供たちからはとても慕われていました。
「若かりし頃から汗を流して、やがて躰道の師範として志木市の子供達の指導を任されておりました。一人一人と真剣に向き合い、未来ある子供たちが成長していく姿を見るのが何よりも嬉しかったようです」(奥様の濱崎麗子さんのコメント)
この日は埼玉県立武道館で「全国少年少女躰道優勝大会」が開催されており、志木市の会員も選手として出場し各種目でメダルを獲得して、総合成績では第2位という素晴らしい結果を得ました。大会終了後、少年少女会員たちとその父母たちは通夜会場へ直行して、濱崎六三師範とのお別れをしました。躰道着を着用したまま首には多数のメダルをかけて大会結果を報告できました。人の死について初めて体験をする子供たちもいて、尊敬する優しい躰道の師範とのお別れに涙が溢れておりました。
このような優しい心を持った子供たちから慕われている濱崎六三師範は、肉体は死んでも、その精神は子供たちによっていつまでも繋がれていくことでしょう。
(8月5日記)
土井慈功氏
土井慈功氏は建設省在勤中に躰道の「命の法形」を修練しておりました。勇退後は住職となり仏門に入っております。躰道壮年倶楽部においても講演を担当してくれました。躰道と祝嶺正献最高師範について寄稿して頂きましたので公表します。(3回シリーズ)
********************************************
土井慈功「躰道はベンチャースポーツだった」(3)
3 躰道の命名の意義
宇宙に存在する数かぎりない森羅万象に名前のついていないものはない。新しい物質や現象が現れると必ず命名する。命名の規程はないが、そのものの形態や性質が表現される名がつけられている場合が多い。躰道は日本で生まれた武道なので、古来から武道や芸事には剣道、弓道、柔道、茶道、華道など実践道徳が基本になっているので道がつけられている。道は礼仁義の儒教の思想と結びついている。我が国では武士道が重んじられ、武士の基本道徳になっている。欧米のスポーツは競争、遊戯、激しい肉体活動や訓練であり、あまり精神面を重視していない。強ければよいという観念である。米国の四大スポーツ、アメリカンフットボール、バスケットボール、アイスホッケー、野球は商業主義が導入され、スポーツが企業になり、優秀な選手は生涯に数百億も稼ぐことが出来る。ベンチャー企業のGAFAは金総どり合戦を行ない巨大な企業になっている。ベンチャースポーツとして躰道は青少年に肉体と精神の強化をはかり人間として身心の充実を本音としている。スポーツの商業化はどうしても純粋なスポーツ精神がゆがめられてしまう。新渡戸稲造は英文で武士道を著し世界にこの言葉を広めた。彼は明治の終わりに野球害毒論を主張した。野球という遊戯は悪くいえば巾着切り遊戯、相手をペテンにかけようとする球技であると非難した。要するに武士道の徳に反する競技である。この論議は反害毒派の圧勝に終わったが、最近の日本の社会では偽装、虚言、忖度が蔓延しているので武士道が重視されなければならない。武道を忘れた日本人はこれからのグローバル時代に対応できなくなるのではないのか。最近のスポーツでカーリングはいじわるスポーツ、いじの悪い方が勝利する。さらに仮想ゲームが℮スポーツになり科学戦争時代になったらその戦士を育成しているのではないのかと老人の私にはなかなか理解できない。昭和40年(1965年)に祝嶺先生が躰道を創立した。1960年から1970年代にかけて社会経済状況が急激に変化した。終戦20年後に戦争の疲弊からどうにか脱出してきた。沖縄の復帰、東京オリンピックの開催、沖縄海洋博覧会の開催など巨大プロジェクトが実行されていた。祝嶺先生はこういう状況の中で躰道を創立した。体制の転換期で新しい考え方や行動がとられ新しい機運が世界的に風が吹いていた。先生は躰道の開設にあたり種々の困難をのりこえてきた。先生の資質と社会の背景によるものであろう。躰道の命名にも熟慮に熟慮をかさねた名前である。〇道の二字でわかりやすい字を考えたのであろう。躰道は中国の拳法から沖縄で空手に変貌した。拳と徒手の武道である。護身法での武道で拳や手を含めて身体全体を使う多次元の護身法を組み立てたので身体という字を当てるのが当然であり、體、躰、体のからだの字を当てることにしたのであろう。からだの原語は體であり体は體の旧字体、躰は體の異体字(漢字の成り立ちから判断して原形に近いもの以外のもの)であり身体を合成した形で躰となるが、この字形がなんとなく躰道の技形を想定される。體は23画数なので難しい字なので、体道となるとあまりにも平凡であり多次元の武道を想定できないので躰を選んだと思う。先生が生存の時に躰道を誕生させた経緯、命名の理由を聞きたかった。躰道の運動をして昔のことを思い出してこの拙文を書いていると先生の偉大さをふつふつと実感している。躰道は心技体の武道を具現していると思っている。躰道の継承者は多次元の躰道をさらに発展させていただきたい。思うままに勝手に躰道について書いてしまい失礼な点、多々あると思っている。(完)
(7月23日記)
躰道創始者・祝嶺正献最高師範
土井慈功氏は建設省在勤中に躰道の「命の法形」を修練しておりました。勇退後は住職となり仏門に入っております。躰道壮年倶楽部においても講演を担当してくれました。躰道と祝嶺正献最高師範について寄稿して頂きましたので公表します。(3回シリーズ)
********************************************
土井慈功「躰道はベンチャースポーツだった」(2)
2 躰道の誕生に思うこと
祝嶺先生は玄制流空手から新しい運動を昭和40年に旗揚げして躰道を創立した。
現在外国まで躰道が広まっていること感無量である。戦後わが国で新しい運動が創立されたのは躰道のみである。私が指導を受けた40年前この事を知らなかった。今日この事実を知り祝嶺先生の偉大さを再認識している。先生は大正15年(1926年)に沖縄の名護に生まれ、幼少の頃から空手を習い始めた。英才教育を受けていて生涯にわたって空手と躰道の研鑽にささげた。先生は何故に躰道を生み出したのか、先生の資質と当時の社会経済の背景によるものと思われる。護身術の空手は一次元の平面的な動きであったが、これでは多数の相手と戦うには行動が限定され、もっと躍動的でなければならない。そのために平面的から空間面を対称にしてもっと多角的な運動でなければならないと想像した。行動範囲を広くすることにして多次元運動でなければならない。法形の一つ一つは連続体をもたせるように考えたのではないのか。すなわち既存の拳法、空手の一次元の動作でなく三次元的な動作にする。空手の一流派でなく新しい運動の創立となった。
先生の発言はときどき仏教哲学の思考による発言があった。大宇宙から生まれた人間を小宇宙であると思っていたに違いない。だから多次元の運動が行われる。万物が五要素から成り立っていると解釈した五行説や陰陽説にも造詣が深い。最近の物理学では万物がすべて素粒子によって形成され、ミクロの世界をあつかう量子論、今まで粒子と考えていたモデルからひも状なっているというひも理論とアインシュタインの時間と空間と重力を扱う一般性相対理論を総合すると宇宙は4次元(縦、長、高、時間)でなく10次元の時空になっている。それぞれ次元の性質は分からないが、心象という現象も一つの次元になっているかもしれない。戦う場合の心象形成は大切な要素である。躰道は多次元の運動でなければならないと考えていた。これが今までの武道と違うところである。従って新しい武道である。躰道が誕生した終戦20年後の1960年から1970年代にかけて経済活動が活発になった。、1960年池田首相となり高度経済政策、所得倍増、1964年東京オリンピック、名神高速道路、新幹線開通、1970年日本万国博覧会開催、岡本太郎が太陽の塔を建立して国民の心情をあらわした希望の灯になった。 1972年沖縄返還、日中国交正常化、1975年沖縄海洋博覧会開催、次から次へと巨大プロジェクトが完成した。中国が1966年文化大革命、紅衛兵旋風から、知識階級の自己批判が行われて多数の人民が殺戮された。儒教の孔子の末裔75代孔健が国を追われて日本へ現在も在住している。一方1970年代ベンチャー企業が促進されGAFAが巨大な企業となっている。これらのオーナーはすべて移民の血が流れている。祝嶺先生も沖縄復帰前に本土に移民した。グローバル時代になると移民の人達が開発精神にもえて企業を創立、日本でもソフトバンク、エチ・アイ・エス、パソナのオーナーも移民の血が流れている。こういう社会経済の動きで事業や運動が生まれやすい状況であった。ベンチャー企業は金の総取りをおこなっているが、ベンチャースポーツである躰道は金を目当てにした運動でなく人間育生のためのスポーツであり、欧米で生まれたスポーツは商業主義化され巨大なスポーツ企業になっているが、躰道は純粋なスポーツであり、武士道そのものの運動である。祝嶺先生はウチナンチュウで復帰前にヤマトンチュウの本土に移民してきた躰道はベンチャースポーツなのだ。(続く)
(7月22日記)
土井慈功氏
土井慈功氏は建設省在勤中に躰道の「命の法形」を修練しておりました。勇退後は住職となり仏門に入っております。躰道壮年倶楽部においても講演を担当してくれました。躰道と祝嶺正献最高師範について寄稿して頂きましたので公表します。(3回シリーズ)
********************************************
土井慈功「躰道はベンチャースポーツだった」(1)
1 私の運動の履歴
私は今年傘寿80才になり運動することがだんだん困難になっている。誰でも運動は遊びから始まる。私の運動の履歴は遊び、柔道、躰道、ジョッキングであった。遊びは誰の指導を受けることなく自然に遊び憶え好き勝手な行動となり悪戯すぎると大人から叱られ遊び仲間を作っていた。遊びは子供の自己啓発の行動であった。最近では子供達が屋外で遊んでいる姿が見られなくなった。時々、公園の砂場で幼児が遊んでいる。その行動は単純であって、それが結構楽しんでいる。戦後食糧難、荒廃した時代に育っていた我々と違い遊具も多種多量となり室内ゲームに囚われて友達をつくる機会も少なくなっている。そして運動の塾も出来て金がないと遊びもままならぬ時代になり、遊びの本質を体験できなくなっている。
昭和32年に大学に入学して柔道部に入る。毎日、汗をかき若いエネルギーを発散していた。強くなるためには体重70㎏を80kgにしようと努力をしたが、食料事情も悪く寮生活でありたくさん食べることが出来なかった。80才になり80kgになってしまい肥りすぎなので減量しようと思っても出来ない。人生思うようにならないのがこの世なのだ。当時、筑波大に全日本の選手・猪熊功がいた。母校には坂口正晃4段がいて指導を受けていた。彼らと私の格が違い凄い人がいるものと唖然としていた。60年安保の時代であり世の中騒然としていた。私は安保の意義を知らぬままに先輩に扇動されデモに参加。官憲に追いまわされ散々な目にあい省線で帰寮した若さの至りであった。昭和36年に建設省に入省して転々と転勤して昭和47年に沖縄総合事務局に2年間在職、沖縄は長い間薩摩藩の圧制を受け終戦後には米軍に統制されていた。沖縄人は多大な戦禍を受けてさらに扚引されている状況であった。沖縄で生まれた祝嶺先生の心情はいかばかりの苦痛であったのか。昭和45年に沖縄は復帰して解放されたが基地問題を抱えて今日に至っている。昭和49年に本省監察官室に転勤して躰道を習うことになった。指導者は中村、葛西さんで勢命の法形を教えられた。屋上での練習なので雨の日は省内の階段を登降、指導者が不在のときは皇居の周囲をジョギングしていた。躰道が構築された意味、法形が精神の開放を具現しようとする形など理解することなく修練をしていた。祝嶺先生から2~3回指導を受けた。躰道の深淵なる精神の根源を少しでも理解していたなら先生に種々質問できたのであろう。40年後の今日になってつくづく残念な気持である。
柔道、躰道の時代に良き指導者にめぐまれていたのでどうにか修練を続けられたが、良き師に会うことが人生の大きな要であった。その後ジョギングだけは続けていた。日光砂防事務所に転勤してジョギングをしていた、長野県善光寺石塚慈侊貫主になった師から指導を受け、日光には大千度の行道があるのでそこを走ることになった。二荒山神社、東照宮、輪王寺の周囲3kmの行道を走った。その事もあり平成10年に善光寺で石塚慈侊貫主のもとで得度して坊主になった。64才になりネパールの標高2000mのツキチエ村で数か所の寺院を参拝する山行をおこなう。急崚で土砂道なので走ることが出来ないのでゆっくりと歩くことにした。帰国してからジョギングしていたら老女からどちらへ散歩ですかと言われて愕然とした。その後、寺内の掃除、室内で柔軟体操と座ったり立ったりして礼拝する五体投地を行っている。この礼拝が出来なくなったら人生の終止符となる。生命の灯が消える。勢命の法形とは生命の灯なのだと気ずいている。(続く)
(7月21日記)
山下 巖先生
◎山下 巖先生(医療法人社団法山会 山下診療所理事長)は、山下一郎先生の長男であります。山下一郎先生は東京医科歯科大学在学中に祝嶺正献最高師範から玄制流空手道の指導を直接受けておりました。日本躰道協会設立後、祝嶺正献会長の下、副会長として躰道の発展に尽力してくださった方です。世界躰道連盟の理事長として活躍されていました。山下一郎先生が逝去後は、息子である山下 巖先生が躰道の発展に貢献してくれました。1996年、アメリカのアトランタで開催された世界躰道親善大会の時には、日本選手団とともに医師の立場で同行をされました。その山下 巖先生に「祝嶺正献先生の憶い」を綴って頂きました。3回シリーズで掲載します。
********************************************
山下 巌「祝嶺正献先生の憶い」(その3)
躰道は「創造進化の武道」です。演武の種目や型・技やルールなどを進化させていかれる様は創成期ならではのダイナミズムを感じました。限角など、競技として発展途上であることを前提にした、オリジナリティのあるルールも生み出されました。世の武道が格闘技と混在化したり、競技として単純化・先鋭化していく方向と違う道を歩んできたように見えます。勝ちさえすればよいのではなく、技を競い、心を磨き、人間として成長し、もって世界平和に貢献するという、本来武道に備わるべき魂を大事に育ててこられたのではないかと思います。躰道ファミリーという発想がありますが、祝嶺先生の大きな愛情が、躰道の魂を育み、躰道に縁のある人を求心的に集めてきたように思います。
躰道は国際化が進んでいきました。世界に飛び出した躰道関係者の努力や、日本で躰道に触発された各国の指導者たちの熱意によるところが大きいものと思います。山下はその分野での貢献を期待され、世界躰道連盟の初代理事長に指名されました。国際躰道連盟でなく世界躰道連盟という名前になったのは、Internationalという語に内在する、国と国のはざまを繋いでいくという次元に留まるのではなく、世界国家をイメージした躰道一家であるというメッセージが込められています。各国の協会がそれぞれのエゴを持ちながら、妥協して運営していく20世紀型の国際組織ではなく、躰道のもとに世界が協和していく、あるべき21世紀の姿を目指している組織ということもできます。世界躰道連盟が創立された時代はソ連でペレストロイカが始まり、ベルリンの壁が壊される前夜でもありました。
冷戦はひと段落しましたが、世界国家への道程は全く道半ばです。世界がまとまることはたやすいことではありません。躰道の世界においても厳密に躰道の教義を守り抜くのか、それぞれの地域の精神にあった形で普及を図るのか、各々が真剣であるだけに白黒はなかなかつかず正解はありません。変わらないことと、変わることを上手く組み合わせていくことが必要なのだと思います。日本でも世界でも沢山の人が躰道の技を学びたいと考えています。祝嶺先生が躰道一筋でうたわれた、「真技の姿」とは何か、若い世代が伝統を引き継ぎつつ、自らの思索で創造進化を加えていくことこそが躰道そのものでもあると思います。(完 令和元年6月記)
(7月15日記)
祝嶺正献最高師範
◎山下 巖先生(医療法人社団法山会 山下診療所理事長)は、山下一郎先生の長男であります。山下一郎先生は東京医科歯科大学在学中に祝嶺正献最高師範から玄制流空手道の指導を直接受けておりました。日本躰道協会設立後、祝嶺正献会長の下、副会長として躰道の発展に尽力してくださった方です。世界躰道連盟の理事長として活躍されていました。山下一郎先生が逝去後は、息子である山下 巖先生が躰道の発展に貢献してくれました。1996年、アメリカのアトランタで開催された世界躰道親善大会の時には、日本選手団とともに医師の立場で同行をされました。その山下 巖先生に「祝嶺正献先生の憶い」を綴って頂きました。3回シリーズで掲載します。
*********************************************************************
山下 巌「祝嶺正献先生の憶い」(その2)
祝嶺先生は躰道の創造にあたり、単なる技術の集積ではなく、背景となる思想を求めておられました。先生はニーチェをはじめとした西洋哲学にも造詣が深く、様々な古典を紐解いては折に触れて語られていました。山下は禅と武士道をこよなく愛しており、「それ仏法遥かにあらず、心中にして則ち近し」ということで、祝嶺先生の中に流れる東洋・日本・沖縄の魂の中に宝があるということをよく語っておりました。こうした、ディスカッションは二人の間で折に触れて長時間にわたってされていたようです。
祝嶺先生が躰道を編み出した背景には人間魚雷による特攻隊の一撃必殺の探求があったと言われています。また二代目宗家を務められた奥様もひめゆり部隊として国のために一命を捧げる覚悟で奮闘されていたと伺ったことがあります。終戦を迎え、必殺の武力を平和に貢献する武道にしたいという思いはまさに日本の時代精神でもありました。そうした思いの中で先生は、大学や自衛隊・会社の部活動を通して若い世代の指導に精力的に取り組まれたのだろうと思います。
空手と袂を別って躰道が創設された1960年代は戦後の学生運動が盛んな時代です。若者は様々な世界思想の渦の中で必死に理想の未来を議論する時代だったと思われます。未来を担う若者に渾身の思索で体系化を進め、新しい武道を創造することで世界を導き照らすことを目指したことは想像に難くありません。躰道本体の発展にとどまらず、躰道に接した人がそれぞれの分野で活躍し、社会貢献することを望まれていたことでしょう。躰道の創造には形而上学的な思想や時代の背景が大いにかかわっていたと想像されます。(続く)
(7月14日記)
山下 巖先生
◎山下 巖先生(医療法人社団法山会 山下診療所理事長)は、山下一郎先生の長男であります。山下一郎先生は東京医科歯科大学在学中に祝嶺正献最高師範から玄制流空手道の指導を直接受けておりました。日本躰道協会設立後、祝嶺正献会長の下、副会長として躰道の発展に尽力してくださった方です。世界躰道連盟の理事長として活躍されていました。山下一郎先生が逝去後は、息子である山下 巖先生が躰道の発展に貢献してくれました。1996年、アメリカのアトランタで開催された世界躰道親善大会の時には、日本選手団とともに医師の立場で同行をされました。その山下 巖先生に「祝嶺正献先生の憶い」を綴って頂きました。3回シリーズで掲載します。
********************************************
山下 巌「祝嶺正献先生の憶い」(その1)
私が祝嶺先生と初めてお会いしたのは、千駄ヶ谷の東京体育館で全日本躰道選手権大会が開かれていた時に遡ります。中学で空手部に入り、父からチケットをもらい、友人を連れて観戦に伺いました。その折に、沢山の観衆の中で笑顔をたたえた祝嶺先生が現れ、大きな手と握手した感覚は、40年経った今でもはっきりと覚えています。祝嶺先生について語るにあたり、私の直接の体験のみならず、私の父である山下一郎から伝え聞いたことを、私なりの解釈を加えてお伝えしたいと思います。祝嶺先生がご逝去されて18年、山下一郎が急逝してから24年経ちました。「若いみんなの時代が来たら、伝えておくれ真技の姿」という祝嶺先生のメッセージをかみしめたいと思います。
山下一郎は祝嶺先生とは長く深い縁で結ばれていたようです。山下が東京医科歯科大学の学生だった1950年代に、空手部の師範と部員という関係から始まりました。その後山下は東京大学に籍を移し、舌がんをはじめとした口腔外科分野で外科手術を道として究めつつ、医学の中での口腔外科学のあり方を思索し、理念の体系化等に取り組んでいました。おりしも祝嶺先生は空手の達人・指導者という域にとどまらず、ご自身が抱かれた武道の極意を理念として体系化され、思想的にも昇華し、ひるがえって現世に躰道として世に問い始めたころでもあります。全く分野は異なりますが、医学の中で口腔外科という一分野が理念を創る道程は、躰道創造の理念と感応道交して創り上げられていったものということもできます。(続く)
(7月13日記)
石井 徹先生と懇談
躰道の横浜道場を見学した後、指導に来ていた石井 徹先生と久し振りに懇談のひとときを過ごしました。横浜市営地下鉄の岸根公園の近くにあるハワイアンレストラン「Merengue」に入りいろいろと情報交換をしました。石井 徹先生は躰道を指導するとともに居合道の稽古にも精進しております。世界躰道選手権大会では「躰道と剣」の演武を披露したこともありました。
躰道創始者の祝嶺正献最高師範からも直接指導を受けていたこともあり、躰道の理念をとても熟知しており、祝嶺正献最高師範の教えをしっかりと習得している指導者です。いつも躰道の発展について提言をしております。祝嶺正献最高師範が亡くなって18年となるので今躰道の稽古をしている会員は写真でしか創始者のことを知りません。祝嶺正献最高師範から教わった正統な理念と実技を伝承している指導者が石井 徹先生です。
(6月16日記)
横浜道場の会員たち(神奈川県立武道館)
横浜市の岸根公園内にある神奈川県立武道館で稽古をしている躰道横浜道場を見学に行ってきました。横浜道場は20年ほど前には指導を担当しておりました。神奈川県では東海大学躰道部の監督に就任しており学生たちに指導をしておりました。組織では神奈川県躰道協会の理事長として普及活動を推進させていました。その後、横浜市在住の湯浅俊一先生が横浜道場を担当しておりましたが、病気で逝去されてからは千葉健志先生、根岸立幸先生、石井 徹先生たちが熱心に会員たちを指導しております。
この日は子供会員たち主体の稽古日となっており、小学生たちが一生懸命に各先生から指導を受けておりました。前半は躰道の運足操法や法形の鍛錬をして、後半はマットを使用しての転技の練習でした。少年会員はとても楽しそうに練習をしていました。そして挨拶もしっかりとできる礼儀正しい子供達でした。近いうちに昇級審査を受ける会員もいて熱心さが伝わってきました。
(6月15日記)
土井慈功さん
土井慈功さんが池袋に来られましたので食事をしながら歓談のひとときを過ごしました。土井慈功は建設省に勤務していた時に躰道を修練していました。それから交流が続いております。躰道壮年倶楽部で講演を担当してもらったこともあります。今回「躰道創始者・祝嶺正献最高師範」についての想い出と躰道についての説明を記載した資料を受け取りました。とても内容のある文章であり参考になりよい記録として残せます。
※現在、躰道を修練している人たちへ躰道創始者・祝嶺正献最高師範についてのエピソードなどを伝えていくための資料を集めております。祝嶺正献最高師範に直接指導を受けた方へ依頼します。祝嶺先生の想い出やエピソードがお寄せください。問合せは池内和彦宛、宜しくお願いいたします。
(4月10日記)
三浦照雄さん
三浦照雄さんが我が家に来られました。三浦照雄さんは躰道師範の資格を持っています。50年前に仙台の会社に赴任した時に毎週土曜日に石巻へ行って躰道を指導していた時からの交流です。第10回全日本躰道選手権大会には、宮城県代表として一緒に出場して上位の成績を残しております。三浦照雄さんは現在、稲城市で整体治療院「無象観」を経営しております。太極拳法も修行して指導を担当しています。気を体の中に取り入れることの重要性を語っていました。現在「躰道創始者・祝嶺正献最高師範」の想い出やエピソードを纏めているところでいろいろな貴重な写真を提供いただき、祝嶺先生との想い出を語ってもらいました。
(4月9日記)
谷鉄太郎先生(高倉町珈琲)
谷鉄太郎先生と食事をした後は、高倉町珈琲狭山店へ行き、美味しいコーヒーとチーズケーキを食べながら談話のひとときを過ごしました。高倉町珈琲は関東を中心に21店舗チェーン展開している会社です。横川オーナーはテレビ番組「カンブリア宮殿」にも出演をしており、また日本経済新聞の「私の履歴書」も執筆した話題の人です。お店の造りも洋風のお城の雰囲気があり、店内も天井が高くゆったりとしています。女性客が多くてランチ時には食事を楽しむグループがおります。
谷鉄太郎先生は「健康体操」の指導をした後には、よくこの高倉町珈琲店に来て美味しいコーヒーを飲むことが楽しみであるとのこと。健康体操の指導のために人間の身体の仕組みをかなり勉強をしたようです。大相撲の横綱白鵬が千秋楽の鶴竜との取り組みで右腕を負傷したことについて解説をしておりました。躰道の稽古においても背中や肩の筋肉をいかに活用するかで上達の仕方が違ってくるとのこと。今年80歳となる谷鉄太郎先生の身体はとても柔軟で元気はつらつとしています。話しながらの笑顔がとても素敵な方です。
(3月27日記)
谷鉄太郎先生(越後屋本店)
(3月26日記)
水上美知男さんと山西義彦さん
大阪の新世界でてっちり鍋を囲みながら、水上美知男さんと山西義彦さんの3人で懇談のひとときを過ごしました。水上美知男さんは二松学舎大学躰道部出身で躰道5段教士の資格を持っている指導者であります。日本躰道協会の関西事務局では率先して指導と運営に尽力されていました。美原町躰道協会で指導を担当しておりました。
今回「祝嶺正献最高師範との想い出」と記されたファイルを頂きました。躰道創始者である祝嶺正献最高師範との想い出がたくさん綴られております。
(関西事務局で祝嶺正献最高師範に料理を作って召し上がったいただいた時のこと)
最高師範「美味しいネ」 水上「ありがとうございます」 最高師範「水上君、キミはいい笑顔をするねぇ」 水上「・・・・・・・」
親にも褒められた事がなかったのに、最高のほめ言葉をいただき、感激したことを鮮明に覚えております。「日常の何気ない会話のなかで、人を引き付け、感動させるなんてすごいなぁ。一生、最高師範についていこう」と改めておもいました。
※躰道関係者の皆さんへ 「躰道創始者・祝嶺正献最高師範との想い出」を募っております。宜しくお願いいたします。(問合せ先⇒池内和彦)
(2月15日記)
山西義彦師範
躰道の山西義彦師範と大阪難波でお会いして懇談のひとときを過ごしました。
主な話の内容は「躰道創始者の祝嶺正献最高師範」についてです。山西義彦師範は和歌山県及び関西地区の躰道の普及発展させた先駆者です。小西美智子先生を指導された方です。私が日本躰道協会関西事務局を担当していた時に躰道の指導と運営についてたくさんの協力をしてくれた功労者です。
祝嶺正献最高師範の想い出の写真を沢山披露してくれました。そしてその人柄についてのエピソードをお話しして頂きました。祝嶺正献最高師範から直接指導を受けた方からの想い出をまとめて現在活動をしている若き会員たちに繋いでいくことを目標にしてまいります。
現在の躰道では中野哲爾師範が一般の人を対象として体つくりや健康面を主題に活動をしていることをとても評価しております。やはり「躰道」を多くの人に知ってもらう方策を考慮する努力が必要であるとコメントをしておりました。
(2月13日記)