『神国日本』(佐藤弘夫著、ちくま新書)を読む。日本が神の国であるという思想がいつ頃から起こり、どのように変遷したのかを教えてくれる。本書を読むと古代と中世の間に大きな断絶があることがわかる。「神国」は、古代においては、仏教という外来の要素を排除するための観念であったのに対して、中世(院政期)になると、神の国と仏の国を共存させるための「神国」という考え方になる。
古代の神国が天照大神以下の神々によって守護された、天皇の君臨する単一語の空間であったのに対し、中世では神国は、個々の神の支配する神領の集合体として把握されることになったのである。(中略)
古代では神々に守護されるべき「国家」を鎮護することは、イコール天皇を守ることだった。ところが中世になると、かつて一体のものと捉えられていた「国家」と天皇が分離するという現象が、広範に見られるようになる。
中世に神道と仏教を折衷させるために生まれた本地垂迹説では、仏が末法辺土である日本に神の姿をとって顕れたとする。仏が神の姿をとるためには、日本はどうしても末法の辺境の地である必要があったのである。神国の日本を中心として唱えられたものではなく、あくまでも彼岸世界という現世を超越した普遍世界を前提として成立するものであったという。
神から選ばれたというある意味選民思想であり、その背後には仏という現世を超越した普遍世界が前提されていたにもかかわらず、この思想はユダヤ・キリスト教のような普遍性は持ち得なかった。
中世後期に起こったコスモロジーの変動は、当然のことながらその上に組み上げられたさまざまな思想に決定的な転換をもたらした。その影響は本地垂迹思想にも及んだ。近世においても、日本の神を仏の垂迹とみなすこの論理の骨格は相変わらず人々に受容され続けていた。しかしその一方で、彼岸世界の衰弱は、垂迹の神に対して特権的な地位を占めていた本地仏の観念の縮小を招いた。その結果、近世の本地垂迹思想は他界の仏と現世の神を結びつける論理ではなく、この世界の内部にある均質な存在としての仏と神をつなぐ論理と化してしまうのである。
普遍性を主張する思想は、支配する権力者の立場からすると厄介なものであろう。日本ではついに普遍的思想が育たなかったのはどうしてだろうか。普遍的思想を欠いた神国思想は、結局独善的なものとなり、明治維新によって膨張したナショナリズムと結びついて偏狭なものになってしまう。