烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

未完のレーニン-2

2007-06-17 14:34:34 | 本:哲学
 『未完のレーニン』の第三部は『国家と革命』についての分析である。支配階級(資本家)(C1)と被支配階級(プロレタリアート)(C2)との和解不可能な階級対立から国家が発生するという図式から両者ならびに国家間に作用する力のヴェクトルが図式的に説明される。本来C1とC2間の対立・抗争が実際上には表面化することなく、抑圧されていること、そしてC1からC2への権力支配の力は、国家という装置によって代替され、国家権力が公的暴力を行使することによって、C2を支配する構図になっているのが近代資本主義国家の特徴となっていることが説明される。そして何よりもC1のC2に対する支配は人格的な人間関係に基く支配ではなく、それが労働力の売買という物の関係による支配になっており、物である資本はC1の欲望とは無関係に増殖していくということがポイントである。国家という装置も法秩序を張り巡らせるということで成員(C1とC2)に普遍的に妥当するものとして現れるため、ここでも支配関係は、脱人格化されている。国家が揮う権力はC1から備給されるが、それはC2を搾取することによって成り立っているからおのずと限界がある。こうした特殊な「力」学によってこの構図は成り立っていることになる。C2がブルジョア国家を打倒する革命における「力」は、この力関係を反転させることによって達成されるわけだが、この力の源泉は何か別の力ではなく、C2から由来する国家の「特殊な力」を国家を暴力的に解体することで「普遍的な力」にするという質の転換を図れば済むことだというわけである。その力とはどこか他の場所からやってきたり、遠い未来からやってくるものではない。今ここにある力であるという意味でリアルなものである。
 自らを抑圧していると思っている対象の中に自己を見出し、同一化するというわけだが、その際にある暴力的な切断がほどこされざるを得ない。末尾のところで著者は木村敏の『時間と自己』を引用しつつ、レーニンの革命の祝祭性と狂気について触れているが、幻想を突き抜けてリアルなものと一体化するとき人は狂気に陥らざるを得ないのである。