烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

神は妄想である

2007-06-05 22:33:36 | 本:自然科学

 『神は妄想である』(リチャード・ドーキンス著、垂水雄一郎訳、早川書房刊)を読む。著者があの『利己的な遺伝子』のドーキンスであり、進化論の話がでてくるので、分類は一応自然科学のカテゴリーに入れたが、今までの著者と比べると、非常に政治的・社会的色彩が強く、サイエンスものとは言いがたい。
 自然科学者からみて、宗教は人類にとってもはや不要であると引導を渡す宣言的著作であり、世界中の無心論者よ堂々と自分の主張を通せ、あと一歩の努力だと奮起を促しているように思える。それほどドーキンスは宗教を排撃する。あたかも宗教戦争のように。
 特定の宗教を信仰していない私、宗教色の薄いこの国に育った私としては、これほどまでに欧米の自然科学環境に身をおくドーキンスが躍起になって宗教の害毒を非難するのは少し意外だったが、それほどまでに欧米の宗教原理主義者は過激で厄介な存在であるということだ。アメリカが先進欧米諸国の中でも突出した宗教国であるというのは周知の事実であるが、ドーキンスの話を読むとこれは困ったことである。実際読んでいると暗澹たる気持ちになり、いつもの自然科学書を読んでいる時の高揚感がないのである。
 読んでいて面白かったのは、第5章の宗教の起源を進化論的に考察したところで、著者によれば宗教は、進化の過程で生じた副産物である。蛾は月の光を利用して飛行するよう進化してきたが、電灯という人工物の登場であたかもその火に飛び込んで自殺するように傍から見える行動をとる。これは副産物的行動である。これと同様に宗教のために死に、人を殺すのはこの蛾の行動と同じである。「私たちの祖先の時代に自然淘汰によって選ばれた性向は、宗教そのものではなかった」のである。では宗教は何の副産物だったのか。この問いにドーキンスはこう答える。

私のもっている仮説とは、端的に言えば、子供に関するものである。人間はほかのどんな動物よりも、先行する世代の蓄積された経験によって生延びる強い傾向をもっているのであり、その経験は、子供たちの保護と幸福のために、子供に伝えられる必要がある。(中略)どんなに控え目に言っても、「大人が言うことは、疑問をもつことなく信じよ。親に従え。部族の長老に従え、とくに厳粛で威圧的な口調で言うときには」という経験則をもっている子供の脳に淘汰上の利益があるはずだ。年上の人間の言うことは疑問をもたずに信じよというのは、子供にとって一般的に有益なルールである。しかし、ガの場合と同じように、うまくいかないこともある。

 著者も使っている比喩であるが、宗教はコンピュータソフトに感染するウイルスのようなものなのだ。無防備な(ワクチンをうっていない免疫のない)幼い脳というハードディスクに感染をして、誤作動を起こさせるのだ。
 ヒトという哺乳類は、特に相手を模倣することに長けており、相手の意図を積極的に推察して自分の行動を変更することができる。あらゆるものに意図を読み取ることのできる才能があることから、ありもしないものに意図を読み取るということが非常に起こりやすい。またヒトは自分の見たいものを意識的に見るという傾向があることから、「事実よりは願望にもとづいて考える」という宗教の基本的考え方が由来しているのだろうと推察している。さらに著者は、宗教的言説の中で特定の言説が自然淘汰的に生き残り広まることがあるだろうと考えている。多くの宗教で共通している重要な特徴というものは、おそらくそうした「ミーム」なのだろう。
 しかし宗教は人を道徳的に行為させると主張されるかもしれない。これに対して著者は、ハーヴァード大学の生物学者マーク・ハウザーの研究結果を引用し、無神論者と宗教を信じている人との間で、道徳的判断において統計的有意差はないと述べている。宗教を信じていない私でも十分人並みに道徳的でありうるわけだ。これには安心した。道徳の自然的基盤についてはこれはこれで複雑な問題があるが、ヒトが自然淘汰の結果獲得したものの感じかた、考え方と密接に関連していることはまず間違いない。
 ヒトがなぜ宗教というものを必要とするのか、そして人類の歴史において宗教的思考が社会や哲学、経済、芸術にどのように影響してきたかという観点からのみ私は宗教に興味がある。しかし日本神話にしろキリスト教にしろ、不合理なところが多々ある代物を信じろといわれてもそれは無理である。
 現代社会では、信仰の自由とは、声高に他人に宗教教義を主張する自由ではなく、他人に迷惑をかけないかぎりで、鰯の頭でもなんでも信じることを許す自由なのである。