烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

国家神道

2007-06-22 22:54:06 | 本:歴史

 『国家神道』(村上重良著、岩波新書)を読む。近代天皇制がつくり出した国家神道という宗教がどのように成立したかを原始神道から辿りその来歴を説明した本である。民族宗教(ネーションとしての民族ではなく、エトノスとしての民族)は、特定の創始者をもつ創唱宗教とは異なり、自然成立的性格をもっている。体系性は乏しく儀礼中心の原始宗教であるが、これを基盤にしてキリスト教や仏教などの創唱宗教が成立している。 日本にもそうした創唱宗教が渡来しているが、それに包摂されることなく神道は生き残っている。通常は創唱宗教の進出、定着によって多くの民族宗教は独自性を失い、それぞれの地域で宗教の単一化が実現するということだが、その点日本は例外的な地域であるという。これは一つには日本が地理的に孤立しており古代社会ですでに単一化した社会が成立しており、宗教が社会の統合のために積極的役割を持たなかったことがあると著者は指摘している。仏教をはじめとして、儒教、道教、キリスト教などが渡来しながら、さまざまな習合をしつつも民族宗教としての神道が維持されてきたのは確かに不思議な感じはする。また国家神道が成立するまでは海外へと伝播するような展開もみせずに孤立して、日本民族にしか通用しなかったというのも単に地理的な孤立性だけからは説明しがたいような気がする。
 創唱宗教のような強固な精神性、拡張性をもたなかったことで、その宗教的儀礼の形式的な外面性のみが残った。この外面的な儀礼性というものは、まさにその儀礼のかたちから宗教としての性格をもつが、精神性に乏しい故の形式性から宗教性が薄いともいえる。神社に参拝することが、宗教心でそうしているのか、単に儀礼的にそうしているのかが区別が非常につきづらいのだ。神道のこういう割り切れなさがたとえば政治家の靖国参拝をどう解釈するのかややこしくしている一因といえるだろう。ほとんどの日本人は神社に参拝したことがあるだろうが、それが宗教心からそうしたかと問われて自信を持ってそうだといえる日本人はどれくらいいるのだろう。 
 国家神道は天皇を中心に配置して、帝国日本を統合する権力として作用したのも事実である。この中心にいた天皇というのは神として崇められていたわけであるが、国民(臣民)のこの信仰心というのは一体何だったのだろうか。

 本書は岩波新書の青版で最近復刊されたものらしい。最近の軽い新書とは違ってきっちりと書き込まれた重みのある新書だった。新書という同じ体裁でもずいぶん変わるものだ。