烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

輸入学問の功罪

2007-06-25 23:22:56 | 本:社会

『輸入学問の功罪』(鈴木直著、ちくま新書)を読む。副題に「この翻訳わかりますか?」とあるので、西洋の学問を導入する際の翻訳の問題を取り扱った本だろうと思って手にした。最初に取り上げられるのは、マルクスの『資本論』である。著者は、この著作が、「経済学、社会学、歴史学、政治学、思想史、哲学等々の専門家がそれぞれの分野で一度は読むべき古典とみなし、著名な作家や文芸批評家が影響を受け、同時にまたアカデミズムの外部で、しかもその批判者として活動する市民や学生や労働者が広範に受容した書物となると『資本論』以外にはほとんど思い当たらない」ということで取り上げている。主に対比されるのが、高畠素之訳(改造社刊)と、河上肇・宮川実訳(岩波刊)である。前者は訳文がこなれており、後者は生硬な訳なのであるが、訳文のみをあれこれ論うだけであれば、他に数多ある翻訳論の本と変わりはないのだが、本書では、高畠訳の後に出版されたにもかかわらず訳文としては見劣りせざるをえない河上訳のほうが普及してしまったのかという問題に、日本のアカデミズムの構造的問題、というより精神病理的問題が奥にあることを指摘する。この問題は著者も指摘しているが、「意外に奥が深」く、この点を掘り下げたところが類書と一線を画している。

 文体の中にこめられた禁欲、パラノイア的な固執、類型化への衝動、辞書の訳語へのフェティシズム的信仰。そこには著者や訳者の学問的誠意を越えて、この国のエリート養成制度にしみこんだ抑圧が、そして近代化の歪みが反映している。そこにはまた、日本の近代化モデルとなったドイツという国、ドイツ語という言語、そこで醸成された教養主義という理念が、直接間接に影を落としている。

 明治の近代化のうねりの中に、著者は「内からの近代化」(徳川時代の知識層によって進んだ内発的過程)、「外からの近代化」(西洋からの翻訳を介しての思想の受容過程)、「上からの近代化」(政府主導の官僚制に基づく近代化仮定)、「下からの近代化」(身分制度からの解放を求める民衆による社会改革過程)の四つの運動をみる。著者の診断によると、「外からの近代化」は「上からの近代化」へ取り込まれてしまった結果、翻訳文化の内的成熟、対話的成長の契機が失われた。この「上からの近代化」はあまりにも目覚しく、また成果が上がったため、「内からの近代化」、「下からの近代化」が過小評価されることとなったという。
 著者はわが国独特の翻訳文化の受容風土として、

(1)第一は、「外からの近代化」の媒体であった翻訳文化と、その基盤となる外国語教育が、国家エリート選抜のための高等教育に囲い込まれることによって、経済社会や一般庶民の自己学習過程から切り離されていったことだ。(以下略)
(2)第二は、支配層の市民社会からの遊離に呼応して、本来「内なる近代化」の担い手たちであった経済主体たちの非政治化が進んだことだ。(以下略)
(3)第三は、明治維新によって一瞬の希望を与えられた「下からの近代化」が抑圧され、その失望と怨恨がマグマのように民衆の意識下に蓄えられたことだ。(以下略)

という三点を特に指摘している。
 「上からの近代化」は市場での淘汰を受けず、現実から隔離されてしまったため、冒頭のような奇妙な翻訳が堂々と生き残ることになる。これは生物に限らず、市場でも淘汰圧がないと生きた化石になるといういい見本であろう。通常はそういう代物は淘汰されて消えるのであるが、アカデミズムの翻訳というのは一定の受容があるため、悪文の訳でも生き残ることになる。
 後半ではその代表として、カントとヘーゲルが取り上げられる。昔から何度挑戦しても挫折を味あわされた哲学の両巨頭である。このあたりの各翻訳の比較対照は面白かった。逐語訳のセンスのなさを批判して、返す刀でわかりやすさを重視したあまり原文の意図が見えなくなってしまうことについても批判している。ここでも著者は、訳文のあら捜しにとどまらず、さらに深い病巣にメスを入れている。

 ・・・あの常軌を逸する逐語訳への偏執をもう一度思い出してみよう。そこにはなにか共通性がないだろうか。言語表現の複雑性や多様性に対する近代エリートたちの不安のようなものが感じられないだろうか。表現の快楽を抑制する倫理的リゴリズム、具体的内容よりも抽象的操作を、意味よりシンタックスを、文脈よりも文法を重視する翻訳態度。原著への跪拝と読者への無関心。そこに欠落しているのは、訳者が同時に読者の目で訳文をたえず修正していく重層的で対話的な態度だ。
 立ち止まって考えてみれば、あの翻訳文体は、市場が生み出す消費文化から、あるいは世界共同体に組み込まれた国際関係の現実から目を背け、空疎なレトリックで自我の煩悶を表明してきた若きエリートたちの孤独感と傷ついた社会化過程の表現だったのではないだろうか。

 西洋からの輸入思想による近代化を翻訳の文体から分析するという試みはたいへん面白いが、その問題の深さと射程の広さに比較すると、例文としてあげている翻訳の種類が限られておりやや物足りない印象は否めない。本書は翻訳による近代化「序説」として、さらなる発展を待ちたい。