烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

戦争の記憶

2007-06-03 19:20:56 | 本:歴史

 『戦争の記憶』(イアン・ブルマ著、石井信平訳、ちくま学芸文庫)を読む。第二次世界大戦の敗戦国であるドイツと日本のそれぞれの戦争体験の取材にもとづいて、この戦争が二つの国民にとって何だったのかを問う著書である。ドイツではアウシュビッツに対して、日本ではヒロシマ、南京がこの戦争の記憶を刻印する場所として取り上げられる。そして戦犯裁判、教科書の戦争記述、戦争を記録する展示について両国が対比される。
 戦争について正面から向き合ってきたドイツに対して、後世の歴史家の判断にまかせるという「奥ゆかしさ」を示してきたのが日本の政治家たちではなかったのかという思いが本書を読むと強く感じらる。確かにホロコーストを行ったナチスと日本軍を直接比較することはできない。しかしそれにしても戦争の責任に対して、

日本が言い逃れをしているのを見ていると、ききわけのない子が「なにも悪いことはしていない、みんながやっているじゃないか」とわめいて足をバタつかせている様子を連想させられる。皆と同じだ、という主張はとりわけ奇妙に思える。日本人が、自分たちは文化、民族、政治、歴史のすべての面で独特だ、と言うのを私たちはいつも聞かされているからだ。
 このような幼児性は、日本だけとはいわないまでも、日本に顕著な文化的特性なのではないか、とつい考えたくなる。

 と著者は感想を述べている。あるときは日本という国の特殊性を言い立て責任をのがれ、あるときは普遍性を主張し責任を転嫁するという言い逃れは、こどものいい訳である。それは弁明ではない。
 戦争責任の問題について、本書に映画監督の伊丹万作のエッセイが引用されていて印象に残った。少し長いが引用する。

 だまずものだけでは戦争は起こらない。だますものとだまされるものがそろわなければ戦争は起こらないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかないのである。そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほどに批判力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己のいっさいをゆだねるようになってしまっていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかった事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった事実とまったく本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無自覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

 罪を贖うという重さに耐えられない精神は、現実を見るに耐えないと感じたときは、それに目を閉じる。見たくない現実をこうであってほしかったことへとすり替える。そして遂にはこうであってほしかったことは、現実とは違うと指摘する人を弱虫と罵るのである。