烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

未完のレーニン

2007-06-16 13:12:33 | 本:哲学

 『未完のレーニン』(白井聡著、講談社選書メチエ)を読む。
 なぜ今レーニンか?という思いでこの本を手にした。冒頭では偶像としてのレーニンが廃棄された現在、亡霊としてのレーニンではなく「リアル」なレーニンを召喚することで、純粋資本主義の姿をリアルに映し出すことの必要性が述べられる。
 本書ではレーニンの著作で両極端の評価を受ける『何をなすべきか?』と『国家と革命』をとりあげ、読み込んでいく。前者は否定的な評価を受けているが、革命というものが世界の「外部」からもたらさなければならないことを述べた極めてラディカルな言説であること、後者は肯定的に評価されるが、ユートピア主義の書ではなく、むしろユートピア主義の無力さを批判した書物であることを指摘する。
 読んで面白かったのは、『何をなすべきか?』を分析した第二部だ。ここではフロイトの言説を参照しながら革命の外部性について述べている。マルクスの言説と精神分析との類似点にはラカンも指摘しているが、著者は革命という事件を精神分析的に解析している。「階級圧意識の外部注入論」のポイントは、社会主義理論の労働者階級に対する絶対的な「外部性」ということである。この「外部性」がフロイトのいう無意識と対比させられる。真の社会主義的イデオロギーは、プロレタリア階級の内発的意識においては「抑圧」されている。この抑圧によりさまざまな症候が現れるのであるが、この原因となっているのが、「労働力の商品化」というトラウマである。マルクスこそ症候の発見者である(ラカン)というわけである。労働力という特殊な商品があたかも公正な等価交換という形をとりながら交換(搾取)され、剰余価値を生み出し、資本家に資本が蓄積していく。マルクスは搾取のない社会すなわち症候のない普遍的社会が可能だと主張したわけで、レーニンはそれを「外部」からもたらす(革命)ことにより現実化しようと試みたことになる。階級意識が注入されないと労働者は、この現実に気づかず自然状態に拝跪しているわけで、これは「モーセと一神教」でフロイトが述べているような偶像崇拝の状態である。フロイトのいう”エジプト人”モーセという外部の他者は、偶像崇拝から一神教をもたらす。資本主義内部での偶像崇拝は、貨幣という偶像に跪くことで、私たちは貨幣という物神により普遍的価値が実現されているように振舞っていることになる。神経症の患者がその症候を訴えながらも症候がなくなることを拒むように、私たちは貨幣という症候を楽しんでいるということだろう。レーニンは、この忘却され無意識に抑圧されたトラウマを革命により治療することを目指すわけであるが、これは世界の内部における回復というものではなく、世界の外部への超出を目指すことによってなされる。