『増補ケインズとハイエク <自由>の変容』(間宮陽介著、ちくま学芸文庫)を読む。
ハイエクとケインズを対比させながら自由という問題を考えさせる一冊である。両者の違いを際だたせることではなく、「ケインズとハイエクという二人の人物に何とか折り合いをつけてみよう」というのが本書の意図とされているが、どちらかというとハイエクに重心がかかっている。
第3章までは概説的なことがかかれ、第4章からが本論という感じだが、第3章の慣習や伝統の中に生きている知識論にふれたところは、ウィトゲンシュタインにも言及されており社会の中での法・制度を考える上で興味深い点である。ハイエクはルールについてはあくまでも原則を立てるにとどめることを主張し、規則は「すべし」ではなく「すべきでないこと」を定めることが自由にとって大切であることを説く。
ルールに体現された原則は細々とした行動の細則を与えるのではなく、たんに為してはならないことを定めるだけである。まさにそのために、原則の遵守は人びとの自由を拡大するのだと力説した。原則を無視して状況依存の便宜の策を採れば、短期的な利益を得ることはあっても、長い目で見れば自由を台無しにしてしまう。ハイエクの主張は正当である。どこにも瑕疵は見あたらない。だから彼が、ケインズの広く人口に膾炙された名文句、「長期的に見ると、われわれはみな死んでしまう。嵐の最中にあって、経済学者に言えることが、ただ、嵐が遠く過ぎ去れば波はまた静まるであろう、ということだけならば、彼らの仕事は他愛なく無用である」(『貨幣改革論』)という文句に対して次のように応酬したとき、真理の天秤は彼のほうに傾いたはずだ。「自由主義者や個人主義者の政策は本来的に長期の政策でなければならない。短期の結果に目の色を変え、このことを「長期的に見ると、われわれはみな死んでしまう」という論法で正当化しようとするのが昨今の風潮であるが、そうなれば必ず、典型的な状況について定められたルールの代わりに、その時その時の御都合に合わせて作られる規則に頼るはめに陥ってしまうだろう」(「真の個人主義と偽りの個人主義」)。
利己主義と自由主義の境界線をどこに見いだすのか。著者は補論で投げかけている。極めて困難なこの問いに著者は公と私の間の中間領域を認めるかどうかに、自由主義と新自由主義の違いを求め、国家と市場の二分法からくるバランスの悪さの緩衝をとろうとする。現在のインターネットによる社会を考えてみると、このシステムは個人間の関係の希薄化の危険と同時に新たな「中間領域」を形成する潜在力を持っているだろう。ぶつ切りにされた個人がひきこもることなく、社会の紐帯を維持していくことができるかどうかは真の自由を維持していくことができるかどうかにとって大きな問題であると思う。