烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

ハイエクと現代リベラリズム

2006-10-18 20:28:54 | 本:経済

 『ハイエクと現代リベラリズム』(渡辺幹雄著、春秋社刊)を読んでいる。『省察』と『新デカルト的省察』の両睨みの読書がなかなか捗らないので、他の本に手を出している。本書は600頁弱の大著であるが、なぜか『省察』よりも進む。
 ハイエクの思想を中心に、リベラリズムについて論じた著者の処女作『ハイエクと現代自由主義』の増補・改訂版とのことである。前著は読んでいないし、ハイエクは自分にとってはほとんど馴染みのない思想家なので、まったく読みには自信がないが第四章まで読んで実に面白いというのが第一の感想だ。
 序論では、著者のリベラリズム観が端的に述べられているが、これも正鵠を射ていると思う。

 リベラリズムは本来「反自然的」なのである。それがhuman natureの開花であろうはずがない。前期ロールズに受け継がれた啓蒙主義のリベラリズムは、その実human natureの神話に立脚した詭弁なのである。

 リベラリズムに人間の幸福を問うのはお門違いである。リベラリズムは幸福のためのガイドラインではなく、破滅を避けるための政治的知恵である。

 こう啖呵を切って始まる第一章は、ハイエクの思想の全体見取り図が述べられる。キーワードは反構成主義であり、進化論的に生成される秩序-自生的秩序である。狭い合理主義的観点からは記述不可能と捨てられてしまう世界にある超越的な秩序を見ることの重要性が強調される。そこに秩序を見ることができるかどうかが、パスカルのいう「繊細の精神」を持っているかどうかの試金石なのである。だから「構成主義者には『美的判断力』がない」と著者は断ずる。
 続いて第二章からは、ハイエクを取り巻く重要思想家を対比させながらハイエクの思想を浮き彫りにしていく。外堀を埋めながら次第に本丸に迫っていく感じで読んでいて間然するところがない。第二章はポパーの批判的合理主義を取り上げ、ハイエクとの差異を明確にする。第三章はオークショットの思想が取り上げられる。この部分はもともと詳しくないから完全に理解したとはいえないが、経済のポリス=オイコス図式とエコノミー=カタラクシー図式の二つの見方を比較して論じ、後者でなければ市場秩序の基本原理を理解することができないとするところはなるほどと思った。
 第四章では、マイケル・ポラーニの暗黙知が主題となる。前章のオークショットの知識観-知識を「技術的知識」と「伝統的知識」の二つに分ける見方にも関連するが、知識を命題として定式化することが可能な「命題知」または「明示的知識」と、実際の行為を通して初めて学ばれる「方法知」または「暗黙知」に分けるポラーニの知識観が、ハイエクの知識観(「科学的知識」と「現場の人間の知識」)との相似形であることが示される。この議論を通じて、自生的秩序内での伝統の重要性を論じた部分は非常に重要である。
 第四章の終わり近くになって、アンチ合理主義としてのデカルトとして著作からの引用が出てくる。著者はデカルトのエピゴーネンとデカルトを一線を画するものとして取り上げており(注22も参照)、偶然虚心坦懐にデカルトを読んでいた矢先のことであり大いに共鳴したのであった。