烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

ハイエクと現代リベラリズム2

2006-10-22 17:27:39 | 本:経済

 『ハイエクと現代リベラリズム』(渡辺幹雄著、春秋社刊)の続きを読む。第五章はバーリンとハイエクを比較し、それぞれのいう自由がどう異なるかを説明している。ハイエクは社会の分析に自然と理性という啓蒙主義の二分法は退け、「自然physis」、「生成nomos」、「作為thesis」の三分法を用いる。ノモス、すなわち私たちの行為の結果生み出されたものであるが、ある目的の下に設計された結果ではないものを重視する。啓蒙主義はこの視点が脱落していると指摘する。こういうところはハイエクが工学的視点ではなく、生物学的視点に立っていることがうかがえる。
 革命については、ハイエクもバーリンも啓蒙主義とロマン主義の奇妙な結合の産物であると診断する。バーリンはこう診断しロマン主義と啓蒙主義を遠ざける。

人類を二つのグループ-本当の人間と、他の劣った等級の存在、劣等な人種、劣等な文化、似非人間的動物、歴史に断罪された民族や階級-に分かつことは、人間の歴史では最近のことである。それは共通の人間性-先行するすべての、宗教的、世俗的ヒューマニズムが立脚していた前提-の否定である。この新しい態度によって、人間は無数の同胞を完全に人間なのではないと見なし、良心の呵責なく、彼らを救おうとしたり、彼らに警告を発したりする必要なく、彼らを殺戮できるようになる。

バーリンが自由を積極的自由と消極的自由に分けたことは周知のことだが、ハイエクはかれの三分法による方法論から自由をあくまで一つの統一的価値、恣意的強制の欠如としてとらえ、「制度的には恣意的強制の及ばない領域の保護」とみる。そのためバーリンのように「政治的自由」の呼称は使わない。ハイエクは「~からの自由」をより狭義に解釈する。それは広義に解釈することにより権力を意味する自由に結びつき、全体主義へと結びつく回路を開く恐れがあるからである。この危険性を鋭く洞察できるのは、「ノモス」の眼をハイエクが持っているからに他ならない。自己決定の自由を無制限に拡大していくことが逆説的に社会による個人の抑圧へとつながる危険がある。この指摘は重要だと思う。抽象的な仮説的理論に基づくのではなく、個人の具体的な生、社会の歴史的経験を踏まえて進むこと、それは私たちから遊離した超越的な理性に全幅の信頼を置くことに対する危険性を弁えていることなのである。

精神は文化的進化のガイドではなくその産物である。それは洞察や理性よりもむしろ模倣に基づく。(中略)我々の理性は、我々の道徳と同程度に進化論的な選択過程の結果なのである。

(ハイエク「The Fatal Conceit: The Errors of Socialism」)