烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

信頼と自由

2006-11-20 20:50:59 | 本:経済
 『信頼と自由』(荒井一博著、勁草書房刊)を読む。信頼とはどういうことかをゲーム理論も用いながら説明し、個人の自由のみを無制限に追求することを至上とする新古典派経済学の考え方を批判していく書物である。信頼ということを期待の一種であるととらえ、それを信頼する主体の主観的確率として定義する。ここで著者は信頼度が多数の要因に影響されて決まると考えている。この点は現実に即しており、信頼に値する行動はその個人が選択できる範囲の中から何ものにも影響されず自発的に選択されなければならないという論理をとらない。内面の意図と、外面の能力、外的条件としての社会的諸条件が信頼行動を決定している。カントのように主意主義では、信頼するということは分析できないという指摘はうなづける。
 一般均衡理論での前提(情報の完全性や取引費用ゼロの仮定)に問題があることを指摘し、現実の取引には情報の非対称性があることから、そこに信頼が最も重要な効率達成手段であることを説いている。続けて、市場と組織(信頼しあうよう努力する特定の個人同士が継続して取引し、また信頼を強化する制度的工夫を行って、取引費用を含む生産費用の最小化を図る存在)は異質のものであり、信頼によって成り立っている組織に市場原理を持ち込むと、信頼性が低下して組織がうまくいかなくなること、逆に相互監視や信頼性を醸成する風土を作ると組織の効率性が増加することがゲーム理論を援用して説明されている。もともと合理的であり何事にも瞬時にして判断を独力で下せる個人という前提には無理があるのだから、当然のことであろう。新古典派経済学はそうした自由で独立した、そしておそらくは倫理的にも高い個人というものを前提としているが、自由で独立したという部分だけがいいように解釈されてしまったことが歪みをもたらしているのではなかろうか。著者にすればそう解釈されるような理論は、すでに間違った理論なのであろう。でも教育や医療といった分野が明らかに市場の論理とは相容れないものであるという主張は、正しいと思う。少なくとも学校は、成果主義で改革できるようなところではない。
 前半の理論的な論の進め方から転調して、第九章以降は、著者のアンチ新古典派経済学による組織論に熱が入っている。このあたりは読んでいて著者の熱意が伝わってくる。市場や組織、一般社会で働く私たちがどのように生きればいいのかという問いに、著者は自己利益のみ追求する生き方は誤りであり、「自己の存在を表現する」ように生きるべきであると説く。ここはなんだか著者がソクラテスのようだ。