『顔は口ほどに嘘をつく』(ポール・エクマン著、菅靖彦訳、河出書房新社刊)を読む。著者はカリフォルニア大学サンフランシスコ医学校の心理学教授で、顔と表情に関しては世界的権威とのこと。FBIやCIAなどで感情表現アドバイザーを務めているのだそうだ。
著者の長年の研究によると顔による感情表現は当初文化的なものであるという予想とは違い、普遍的なものであるという。表情の判定は主観的なものに頼ることなく
facial action coding system (FACS)という顔の筋肉の動きを測定する測定系を開発して定量的に研究している。感情とその表出との関係や感情を故意に隠そうとするときの不自然な表情の動きを究明しているそうで、50分の1秒という瞬間的な表情の変化を捉え評価するという。これにより嘘を見抜けるらしく、FBIやCIAからもお呼びがかかるわけである。
肝心なことはヒトの顔に現れる感情が、文化的に規定されたものではなく普遍的なものであるということ、進化的に獲得されたものであるというメッセージである。感情についての研究から、著者は、(1)感情は私たちの安全にとってきわめて重要だと思われる物事への反応であること、(2)感情はしばしばあまりに素早く始まるので、それを引き起こす心の中のプロセスに私たちが気づかないことは広く認められていることであることをまず述べる。そしてこれが自然選択によってもたらされたものであることを示唆する。ここでは古くダーウィンも認めている蛇に対する恐怖反応が普遍的な現象であることが例として挙げられている。瞬時にして外界の対象に反応して情動反応によって行動をひきおこすシステムを著者は「自動評価機構」という暫定的な名称を与え、これが常に環境を探査して、「情動換気データベース」と合致するものがないかどうかを警戒している。そのデータベースの一部が自然選択によって作られたデータベースであり、一部が経験的に獲得されたデータベースである。蛇に対する恐怖というのは前者に属するのではないかというわけだ。この自動評価機構以外に、内省的な評価、過去の感情的な体験の想起、イマジネーション、共感、過去の感情的体験を語ること、他者から規範に伴う感情を教え込まれることが感情を生み出す要因として挙げられるが、著者は顔面の筋肉を動かすことで感情が生まれる、すなわちある感情を表出するときの表情を作ることで、当該の感情が生まれるということを指摘している。笑う表情を作れば楽しくなり、泣く表情を作れば悲しくなるのだ。
こうした要因があることを踏まえて人が自分の感情の動きに敏感になれば、逆にそれを抑制することが可能になると指摘する。このとき感情を生み出す体験が人生早期に体験されたり、強い経験だったりすると抑制することが困難である。また自然淘汰によって獲得されたものであればそれだけ抑制するのが難しいと指摘している。
後半は怒りや悲しみ、驚き、恐怖、嫌悪などの感情が生まれる際の表情について分析が加えられる。これは表情を「作る」演劇をする人には参考になるだろう。
さて重要なことはどうして表情というものを持つことが自然淘汰上有利であったかという問題である。顔面の筋肉は哺乳とう行為を行うようになって特に発達する。猫や犬でも表情らしいものを認めることができるが、哺乳することのない蛇や蛙では表情はない。類人猿では表情が特に豊かだから集団で生活する上で表情を持つことが特に有利だったと考えられる。例えば窮地に陥ったときに悲しみや困惑の表情を出すことにより周囲から助けを得やすくなるなら生存に有利であっただろうし、喜びを表出することでより自分の魅力を出せる個体はそうでない個体よりも配偶者を獲得する上で有利であっただろう。でも表情があるかないかという二分法ではなく、その表情の表出の程度と繁殖率に相関があるのかが問題だ。
それに感情の表出を抑制する場合や感情とは反対の表情を偽る場合も考慮しなければならないだろう。窮地に陥ったときに容易に悲しみの表情を出してしまう男性は弱いと見なされ、配偶者を獲得する機会を失ってしまう可能性がある。この場合は逆に感情をうまく抑制するか、逆の表情を作れる個体の方が有利である。
感情を表情に表せることは社会生活を営む個体に有利なことだろうが、どのような文脈でそれを発揮することが有利なのかはさまざまな要因が絡んでくる。自分の気持ちを素直に表現できる(表情で嘘をつけない)雄は雌に好まれるだろうが、浮気はすぐにばれるだろう。これはなるべく多くの雌を番って遺伝子を残そうとする雄にとっては不利なことかもしれない。一般的に女性は表情から隠れた感情を直観する能力に優れているが、これも配偶者獲得に絡む自然淘汰によって備わった能力なのだろうか。
冒頭には著者の娘のさまざまな表情の写真が掲載されており、それから感情を推測するテストがついている。本書を読んで自分の表情を研究すれば、嘘のつけない素直な男性諸氏も顔で嘘をつけるようになるかもしれない。
「退化」の進化学を読む。
発生学や比較解剖学の立場からヒトの人体構造に隠されている祖先の名残が紹介されている。耳小骨の起源を辿るとサメの顎に求めることができるというのは、知っている人は知っているという比較解剖学的知識で、本書でも図解されている。この部分だけでなく本書では適宜図で説明されているが、ここの顎、耳のところや口蓋の解剖は複雑なところなので平面的な図では理解が難しいのではないかと気になる。実際の解剖がある程度わかった人が見ると、理解できる図解でも全く耳の構造や口蓋の構造がわからない人には三次元的な配置を頭の中で構成するのは難しい。一般向けの解説書なので、図にもう少し工夫が欲しい。
ヒトの尻尾や「第三の眼」、副乳など退化してしまったものから眺めるとヒトは、神様が創造したような立派な代物ではなく、リフォームを繰り返しつつ建てかえていった建築物であることがよくわかる。
興味深かったのは、霊長類で認められる発情期の外見的変化(発情期の雌の尻が赤くなるなど)が、ヒトでは消失したという点だ。ヒトでは排卵期に基礎体温がわずかに上昇するだけだから雄は雌の発情を視覚情報から確認する手段がない。
発情期の消失はふだんの社会行動をさまたげる性的な熱狂の期間がないため、人類進化に最高に重要な発展だとされる。発情期がないことで子育て期間が延長でき、性的環境がおだやかになって雌雄関係がわりと永続的になったのである。
と書いてあるが、これはどちらが先のことなのだろうか。安定した雌雄関係を築くことができるようになったから発情期が消失していったのか、それともその逆なのか。採餌との関係も指摘されている。
食と性は関連しているので、家畜化は繁殖の周期性に変化をきたすことが多い。野生生物の多くはとらわれるとまったく交尾をしなくなる。ところが餌(食事)の心配をしなくてすむようになった家畜は事実上いつでも発情する。ヒトは自己家畜化動物だとよくいわれるが、食事の心配がなくなったのは農業がはじまった完新世(現世)以降で、人類進化でもわりと最近のことである。狩猟採集にあけくれる部族ではいまでも春にしか出産しないという。
もしそうならば発情するというのはかなり環境により可変的なシステムであるということになる。発情していることが目でみてわからなくなったことで、より細やかな表情などを読み取る能力は発達したであろうし、言葉によるコミュニケーションは欠かせなくなっただろう。そして確実なことは、表情や言葉により発情しているのにそうでないように、あるいは逆を装うような騙しの能力も数段進歩したであろうということである。
個体の行動も進化により形成されるのかという疑問に対して、然りという答えをダーウィニズムは出しつつある。こうしたことに対して実証的な研究により地道に証拠が積み上げられつつあるということはいいことだ。
興味深かったのは、第一章で取り上げられている一夫一妻制と一夫多妻制の違いを引き起こす遺伝子についてである。前者をとるプレーリーハタネズミ(以下プレーリー)と後者をとるサンガクハタネズミ(以下サンガク)の行動の違いは、神経内分泌ホルモンであるオキシトシンとバソプレッシンが関係している。一夫一妻のプレーリーではオキシトシンの放出により雌が交尾をした雄といっしょにいることを好むことを促進し、バソプレッシンは雄が同様に交尾した雌といっしょにいることを好むことを促進したり、子供の世話をすることを促進する。しかしサンガクでは、バソプレッシンにより雄はグルーミングが促進される。両者でホルモン自体の構造は同一なのであるが、これらの受容体の脳内分布が異なっている。したがってこの違いが行動の差を導き出しているのであろう。
と今までならばここまでしか結論づけられなかったところであるが、面白いのはここからである。Youngらのグループが2004年にNatureに発表した研究では、乱婚制であるハタネズミの雄の腹側淡蒼球(脳の部位の名称)にウイルスベクターを使って、バソプレッシン受容体遺伝子を導入した結果を報告している。すなわち分子生物学的手法を使って、脳のバソプレッシン受容体の分布だけをプレーリー型に変えてしまったのである。するとその雄はペアの雌と身を寄せ合う時間が増加し、さらにその雄は子供の世話をするようになった。
さらに面白いのは、この受容体の脳内分布を決定付けているのは、その遺伝子の上流にある調節領域にある。プレーリーのバソプレッシン受容体遺伝子の上流には、マイクロサテライトDNAという繰り返し配列が挿入されている。この部位は突然変異率が高いことがしられている。したがって番を形成するという「自然の愛の発露」と思える現象も、まったく偶然によって起こる遺伝子のごく限られた部位の突然変異によって誘発されることがありうるということをこの研究は示しているのである。
その他血縁淘汰を取り上げた第二章も非常に面白い。利他行動がどうして生物にみられるのか。この問題はダーウィンさえも自分の説への致命的反証ではないかと頭を悩ませた生物の行動である。血縁淘汰はそれを説明する理論であるが、ヒトのように明らかに血縁がないにもかかわらず利他的行動をとることがある。ここに人間の崇高さを認める立場もあるが、進化論が面白いのはそうした現象もいくつかの条件によって形成されうる行動であることを示してくれることである。ここで使われる互恵性モデル(あるとき利他行動をした個体が別の機会にはそれを受ける側になりうるとするモデル)、相利性モデル(利他的行動をした個体が同時に利他行動の受益者になれるとするモデル)では、相互作用する個体どうしが「協力」あるいは「非協力」のカードをどう使うかという囚人のジレンマゲームを繰り広げることになる。
しかしヒトのような集団では、相互作用が一回きりという場合も多々ある。こうした場合には過去に相手がとった行動を前提にはできない。この場合はその相手に付随する情報に基づいて行動を決める。すなわちその相手が「いい」個体なのか「悪い」個体なのかという情報である。個々の相互作用でその個体がどのような行動をとったかということは「集団の全体に見られて」(情報の透明性)おり、そのことは全個体が記憶として共有されているという前提がまず必要なのであるが、その前提があるとして、「いい」個体には協力し、「悪い」個体には協力しないという戦略をとることが進化的に安定した戦略とされる。これは誰が考えても当たり前のことであるが、重要なことは、その例外規則である。すなわち協力しないという行動を相手にとった場合でも、その相手が「悪い」個体であるとみなされている場合には、協力しない行動をとった当の個体は、「いい」個体であると周りから認められることである。
ヒトの利他性を説明する一つの仮説であると考えられるが、気になるのは本書では敢えて説明されていない「いい」「悪い」の実質的内容である。これはその集団がどういうことを「いい」とみなすかどうかにかかっている。利他行動というと他者に対して利益となるような行動を思い浮かべてしまうが、上のモデルでいくと例えばある特定の個体を迫害することを「いい」ことだとその集団で認知されている場合には、その個体を迫害することが集団の構成員にとっては「いい」ことだとされ、それに従わない個体は「悪い」とされてしまうことである。したがって上のモデルは、利他行動の説明モデルというには不正確であると思う。宗教的な迫害や学級内でのいじめなど、一定の閉鎖的集団の中で、その外部からは「悪い」こととしか思えないことが広まってしまう現象をこのモデルは説明していると考えたほうがより妥当であろう。
学校でのいじめ問題が大きく取り上げられているが、もし上のモデルがある程度正しいとすれば、学級や学校という集団を閉じた状態にしたままで、いじめをした生徒を出席停止にしたり、懲罰を加えたりしてもいじめがなくなることはないだろう。そのいじめはなくなってもまた別のいじめが発生するに違いない。
進化的にみてヒトがある集団で迫害行動をとるような性向が備わっているとするならば、私たちはそれを認めた上で、どのようにすれば効果的に回避できるか生物学的な観点も考慮にいれて対策を講じていくのが合理的であろう。声高に規律や懲罰を厳格にして、愛国心を叩き込めばいいのだとすることは、一つの野蛮である。
『シリーズ進化学5 ヒトの進化』(斎藤成也、諏訪元、颯田葉子、山森哲雄、長谷川眞理子、岡ノ谷一夫著、岩波書店刊)を読む。
昨年からシリーズで刊行されていたのは知っていたがどうだろうかと思いながらも買っていなかった本を購入した。科学的仮説としての「進化論」という地位に甘んずることなく、さらに厳然たる事実としての「進化学」と銘打ってのシリーズであるが、この巻の「ヒトの進化」となると仮説も多くなるのはいたしかたない。しかしながらたいへん面白く読める。早く読めばよかった。
第一章の「化石からみた人類の進化」では、最近次々と発掘されたヒトの祖先の化石についてまとめてある。興味をひいたのは、コラム3の初期人類の「種」を考えるとういところで、その記述によると、
野外調査の進展に伴い、高等霊長類では、自然状態で近縁種間に雑種が形成されることが明らかにされてきた。高等霊長類においては、通常は種ごとの生殖生理に強い特色もなく、一般に生殖行動も柔軟であるため、交雑が頻繁に起こるのであろう。
とさらりと書かれてあるが、これにはいささか驚いた。その後にすぐゲラダヒヒとアヌビスヒヒは別属であり、形態特徴でも行動生態でもはっきりと区別されるにもかかわらず、自然状況下では交雑するばかりか、一見適応度の低下を伴わない子孫を残すと記載されている。
第四章「人間の本性の進化を探る」では、自然選択の下に生き残ってきたヒトの本性は当然その影響を受けているとし、その背景も考慮にいれつつ検討していかねばならないと客観的に述べてある。現在のヒトが持っている「人間の本性」の中には進化の各段階において獲得された形質があるはずであり、
哺乳類の系統が爬虫類の系統と分かれたあとに獲得した形質(A)、霊長類の系統が哺乳類の中で分岐したあとで獲得した形質(B)、霊長類の中で類人猿が分岐したあとで獲得した性質(C)、そしてヒトの系統になってから獲得した形質(D)がある。
たとえば、雌が妊娠、出産、授乳することに伴う諸形質は、Aの適応である。色覚をもつことなどはBの適応である。脳が大きく認知能力が高いことは、Cの適応である。おそらく言語はDの適応である。
と述べる。人間のもつ倫理や道徳といったこともこれらの系統的進化の各段階で獲得されてきた自然的性質が基盤になっているものもあるに違いなかろう。その点からも興味深いのは、第5節「殺人をめぐる進化心理学」と第6節「ヒトの協力行動」である。
殺人は、ヒトのどの段階の歴史、どの地域にも見られる反社会的行動である。この行動は雌雄で比較すると圧倒的に雄に多く見られる行動であり、かつ若い固体に多い。このことから雌を巡って争うという雄の生殖戦略が関係していると考えられる。
男性の発達の過程において、性成熟とともに将来繁殖価が上昇し、加齢とともに繁殖価は下がる。そこで性成熟直前から成熟期にかけての男性間の競争がもっとも激しく、その後は加齢とともに競争が減少していくと考えられる。葛藤状況において、男性が他者に勝ちたい、他者よりも優位に立ちたいと感じる心理は、将来繁殖価と同様の年齢曲線を描くはずである。(中略)
進化生物学は、殺人という行為そのものが男性の適応戦略だと主張しているのではない。そうではなくて、競争的な葛藤を強く感じ、その競争において負けたくないと感じる感情が適応なのである。葛藤状況において、そのような感情を持つ男性と持たない男性とでは、過去の進化において、持つ男性のほうが適応的であったということだ。
この後半の部分の記述が重要だ。さらに面白いのは日本において男性の年齢別殺人率の統計が掲げてあることで、これをみると確かに若い年齢(20代)は多いのであるが、年代が進むにつれてその高い年齢層においても殺人率は顕著に減少しているのである。つまり社会全体が豊かになり教育レベルがあがるという社会環境により殺人の発生は減るのである。最近若者の凶悪事件が増えてきたといい、その原因は愛国心を教えないからだという論を立てる人びとがいるが、このグラフを見る限りそれは間違いだ。殺人は減っているのであり、日本人男性の年齢別殺人率は、近年よりも1926年-1935年の集団が明らかに高いのである。この時期の年齢は今の教育基本法とはご縁がないのではなかろうか。
第六節のヒトの協力行動のところでは、推論においてヒトは「非協力者の検出」というコンテキストがあると格段に推論能力が上がるという仮説が紹介されている。学校で解くような数学の問題でも人間どうしの利害関係が絡んでくるような場合には同じ論証でも鋭くなるということである。これは特に女性の場合そうではなかろうか。抽象的推論には弱くても夫婦関係に関係する虚実となると滅法推理が鋭くなる傾向がある。
この節のコラムには、お互いに感じる公正さという感覚がヒトだけに見られる特徴ではなく、フサオマキザルという猿にも見られるのではないかという実験結果が紹介されており、これも興味深い。猿でも自分と他人を見比べて平等に扱われているかどうかを敏感に判断しているらしいのである。猿について真偽のほどはわからないが、ヒトは互いに利他的行動をとるというのは重要な点であると思う。ただ目先の利益ばかりに目の色をかえて争うだけではなく、互いに助け合っていく行動をとれるということはヒトという種の重要な形質ではなかろうか。最近の競争ばかりを煽り立てるような風潮は、その大切な形質を否定しているような気がする。
社会には聖域あるいはそれに近い扱いを受ける領域があり、その代表格といえば宗教であった。近代になって宗教の価値は凋落し、社会の一部門にすぎなくなった(少なくとも西欧ではそうだろう。アメリカはまだ宗教がそういう意味では立派に機能している国である)。日本では近代以前に社会の一部門になっていた。宗教の代わりとして社会に御宣託を垂れる聖域として現代では科学がある。だから○○科学とさまざまな学問分野は名乗りたがると著者は推測する。著者の態度は、科学を社会の一部門と見なすことである、それも徹底して。(西欧では少なくとも)宗教は形式的にも実質的にも聖域だった。科学は形式的には近代社会で一分野ということを装っているが、実質的には聖域である。それが証拠に科学的に実証されるということが政治的経済的活動に対する保証を与えているからである。著者はそれによるさまざまな弊害を指摘する(宗教よりは格段に弊害は少ないのであるが)。
最も著者が心配しているのが、科学というシステムの肥大化で、自己制御が効かなくなっていることである。宗教はある意味それが奉る神という上限があり、そこを超えては行かない(行けない)ある自己制限的閉域であるが、科学はそうではない。基本的にそれを制限するものはない(だから政治的経済的に制限を設けている)。しかし政治や経済活動の保証を与えている科学分野にはその仕組みから当然制限はかかりにくい。その代表的なものとして著者が例にあげているのが、地球温暖化による環境破壊という科学の御宣託であり、それに基づく二酸化炭素排出削減という政治経済活動である。
次いで問題なのは、科学と経済活動が連動していくと、経済効率が優先されて倫理観が歪曲されてしまうのではないかということがある。倫理という分野は宗教というものが機能しない場合、もっと積極的に社会の先導役を果たすべき発言すべきところだと思うのだが、なぜか恐ろしく力がない(しかし政治家は一応気配りだけはして、政策決定の場に倫理学者の席は設けている)。だから経済的理由が優先されて倫理が二の次にされるというのは、日本のような社会だと問題だと考える人が少数派ではないのだろうか。しかし高度に専門化され細分化された科学の御宣託に対して対抗弁論をすることができるとすれば、基本的な倫理観に基づいた批判でしかないだろう。そういうことがきちんとできるようにするためにも教育は欠かせないのであり、だいじなのはきちんとした批判をすることで国を「愛する」ようにすることだろう。国家に対する愛の形というのは私はそういうものだと思う。
『記憶と情動の脳科学』(ジェームズ・L・マッガウ著、大石高生訳・久保田競監訳、講談社ブルーバックス)を読む。記憶のメカニズムに関する一般向け解説書である。通読して興味深かった点がいくつかあった。
脳の海馬および尾状核が記憶に重要な役割を担っていることが知られているが、ラットを使った迷路の研究で、訓練の回数の多寡によって学習に関係する脳内の部位が違うということ。T字迷路で餌の位置を覚えるにあたり、ラットは訓練によって餌を見つけるために迷路でどのような反応をとるかということと、どこに行くべきかという二つのことを学習するが、訓練回数が少ない場合は場所学習が主で海馬が関係し訓練回数が増えると反応学習が優位になり尾状核が関係するという。訓練を重ねると、体が自動的に「反応」する(この場合は右折あるいは左折を自然に行うようになる)ようになるのだ。いわば体で覚えるという状態になる。物事を学習していき、熟練度が上がり習慣となる過程で脳の働く部位が変わってくるというのは興味深いことだ。
記憶は強い情動を伴うと鮮明に記憶されることについて、無関係な単語の記憶テストでも「キス」や「嘔吐」など情動反応を引き起こしやすい単語はよく記憶に残るということが述べられている。これには扁桃体からのノルアドレナリンが記憶増強に関係しているのだが、興味深いのはそうした情動を伴わせることが記憶に濃淡をつけさせ「活き活き」とした感じを与えてくれるのではないかということだ。同じ言葉でも道徳的に強い意味を持つ言葉とそうでない言葉があるが、そうしたものはどれくらい情動を引き起こすのかということに関係しているのかもしれない。そしてそうしたことが事実と価値という道徳的問題と繋がっているのではないだろうか。
最後の章では、記憶が異常にいい人の例が書かれている。架空の例としてボルヘスの短編小説『記憶の人フネス』が挙げられているのだが、ボルヘスのコメントは示唆にとむ。
実際にフネスはすべての森のすべての樹のすべての葉だけでなく、自分がそれをみたり想像したときのことをすべて記憶していた。(フネスは)一般的な思考がほとんどできなかったことを忘れないでおこう。(中略)私は、フネスが考えることができなかったのではないかと思う。考えることは違いを無視し、一般化し、抽象化することだ。フネスノ肥沃な世界には詳細だけがあった・・・・。
記憶と抽象能力というのは、互いに相反しあいながらバランスをとっているのかもしれない。不可識別者同一の原理というのがあったが、異常に記憶がよいと些細なことまで差異が目につき同一物という認識が妨げられるかもしれない。極端な場合このりんごとあのりんごの同一性を見出せなければ数学的思考が不可能になる可能性もあるかもしれない。どちらか一方が極端に発達していて、もう一方が劣っている個体は、生存競争において不利なのだろう。記憶ができなければそもそも体験からは空虚となるし、抽象能力がなければ体験は盲目的であろう。通常の記憶容量には限界があるから、情動によって記憶が色づけされることは、ほんとうに生存に大事なエピソードを記憶しておくためには欠かせないだろう。学習にとって大切なのはあらゆることを詰め込むことではなく、共感や共鳴を伴った記憶をどれくらい作れるかということだろう。年齢とともに記憶容量は減るが、経験を積むことにより記憶を起伏に富んだものに創り上げる力は増えるに違いない。
『赤を見る 感覚の進化と意識の存在理由』(ニコラス・ハンフリー著、柴田裕之訳、紀伊国屋書店刊)を読む。意識という「いわく言いがたい現象」をどう位置づけるのかについて、進化心理学的な見地から検討した本である。赤という外界の色を見るという基本的な知覚経験を例にとり、著者は説き起こす。赤い色が網膜を刺激する感覚からどのようにして「私は赤い色を見ている」という知覚が現れるのか。まず感覚から知覚への連鎖を段階的に説明する(本文図5)。
1.外界の対象aが感覚器官a’に刺激を送る。2.S(感覚主体)は、この感覚刺激をもとに、何らかの低次元の複製として、感覚bを作り出す。3.Sは、その感覚の属性を読み取る。p(b) 4.最後にSは読み取った結果をもとにして、外界の事実を再構築する。p(a)
知覚と感覚が非常に密接に起こるために、私たちは両者を区別することができない。しかし盲視の症例や、四肢の誤認実験(ラマチャンドランの実験)などから実はそれは別々の過程のものであるらしいということを著者は指摘する。著者の巧みなたとえによれば、郵便配達がおした玄関の呼び鈴の音に反応した犬の鳴き声で、郵便配達の来訪を知る犬の飼い主のように、感覚というものは、「犬の鳴き声」のような「おまけ」なのだ。しかしこれはたいへん大きな(偉大な)「おまけ」である。
盲視の分析から、たくさんの答えが明らかになった。感覚の役割は、主体と外の世界との個人的な相互作用を探知すること、そこに存在して直接関与しているという、各自が持っている感触を生み出し、今この瞬間の経験に、今、ここで、自分が、という感覚を与えることだ。
ではどうしてこういう感覚がそもそも在るのかという疑問に対しては、著者は進化論的にそれが有利であったからだと説明する。外界の刺激に対する局所的な反応であったものが、自らの反応パターンをモニターすること(反応回路にループを作りフィードバックすること)により、より総合的に自らの状態を知ることができる。
けっきょく、長い進化の歴史の中で、ゆっくりと、しかし驚くべき変化が起きた。何が起きたかと言えば、感覚的な活動がまるごと「潜在化」されたのだ。感覚的な反応を求める指令信号が、体表に至る前に短絡し、刺激を受けた末端の部位まではるばる届く代わりに、今や、感覚の入力経路に沿って内へ内へと到達距離を縮め、ついにはこのプロセス全体が外の世界から遮断され、脳内の内部ループとなった。
この内部モニターこそが私という意識であるとして、「経験は経験者なくしてはありえない」という哲学のテーゼに対して、著者は経験していることから、私という存在が立ち上がるのだという見方をする。内部ループという回路によって私という意識が生じるならば、両者の見方は鶏が先か卵が先かという議論になるので、いずれがより正しいのかということにはあまり意味はないと思う。むしろあることを経験するということと私という経験は不即不離のものであるという方がより妥当だろう。こうした進化論的な見方は方向としてはおそらく正しいだろう。しかしそれでも意識というのは不思議な現象である(不思議だと思うのも意識の作用なのだが)。
本書の内容とは関係がないが、この本の装丁は書名にちなんで赤い表紙に白いカバーというシンプルながらお洒落な装丁である。一般書としては普通かもしれないが、自然科学書籍の書棚に並んでいると自ずと目立つ。内容はもちろん大事なのだが、装丁で手にとってくれる人がいて、そこから多くの人が興味を抱くようになれば自然科学系書物の普及にとっては慶賀すべきことであろう。
『人はなぜレイプするのか』(ランディ・ソーンヒル、クレイグ・パーマー著、望月弘子訳、青灯社刊)を読む。レイプという卑しむべき犯罪を進化心理学的に説明できるかどうかをまじめに論じた本である。書店で見かけたときに青灯火社というこの手の分野の出版社としてはあまり見かけない出版社だったので、「トンデモ本」かと怪しんだが、跋に長谷川真理子氏が「非常に厳密にバランスよく議論されていると感じる」と評価していたので、読むことにした。
前に読んだ『乱交の生物学』は、多種多様な生物の一つとしてヒトが取り扱われていたので、博物学的な楽しさをもって読めたが、今回はヒトが主題であり、研究の対象となる行為が「レイプ」であることから読後感はやや重たい。これはその犯罪行為それ自体の重大さということと同時に、これを進化論的に研究するということが人文科学分野から絶えず偏見をもって非難されることが多いためだ。著者も当然そのことは懸念していると見えて、第一章は進化についての基本的事項をおさらいして、誤解のないように読んでもらおうという配慮がうかがえるし、議論が山場を迎えたところで再び社会化学者たちの誤解した点について丁寧に反論している(第五章)。
題名は『人はなぜレイプするのか』であるが、レイプするのは大多数が男だから、「男はなぜレイプするのか」としてもいいくらいである。ここで取り上げられる疑問は1)なぜレイプを行うのは男で、被害者は(通常)女なのか?2)なぜレイプは被害者にとって、ひどく恐ろしい体験なのか?3)なぜレイプが与える精神的外傷は、被害者の年齢や未婚・既婚によって違うのか?などに始まって、16)レイプはどうしたら防げるのか?に終わる16個の疑問である。これについて果たして男性が生殖戦略において獲得した適応的行為なのかどうかが論じられる。あらゆる行為が適応によってもたらされたわけではなく、偶然の副産物ということもありうるので、著者たちは慎重に考察をすすめている。冒頭のところでは、1)人間の行為に高い可塑性があること自体が複雑で安定的な心が存在することを示しているものであること、2)「生得的」という表現は、環境要素が不要だという意味ではなく、その行動が起こるために必要な環境要素がはっきり特定されていないことを意味していることが確認され、遺伝決定論というのはナンセンスであること、至近要因と究極要因を混同しないようにすること、自然主義的誤謬に陥らないようにすることを強調している。その上で子孫を残すために最低限必要な行動が、雌より雄のほうがずっと少ないこと(女性に匹敵するほど養育に積極的に参加する男性でも子孫を残すために必要な行動は明らかに男性の労力のほうが少ないこと)が性差の基本にあることが述べられている。この差異から「男性の色好み」「女性の選り好み」という差が生じ、男性は女性より嫉妬しやすい(「寝取られ夫」になることへの強烈な不安の裏返しといえる)という特性を説明する。
人間の場合はレイプという行為が果たして適応によるものなのかどうかを検討するに当たり、著者は確実にそういえるためにはレイプに含まれるメカニズムのうち、レイプを通じての繁殖だけを目的に自然選択によって過去にデザインされたものがあることを示す必要があるとしている。なるほど真っ当な意見だが果たしてそんなものあるのかと思ったら、ガガンボモドキという昆虫にはそれがあるのだ。雄は生殖器の両側に一対の器官をもち、雌をつかんで無理矢理交尾するこができ、しかもそれは強制的な交尾にしか使用されないのである。この昆虫は雌に受け容れてもらえる場合の交尾法と受け容れてもらえず無理矢理交尾する(昆虫に見られるこの行動も歴としたレイプであることを進化生物学者の著者たちは強調している。この点は本を読むと重要なことがわかる。)方法の二つの方法を堂々と使い分けていることになる。人間の男性器にはもちろんそんな装置は配備されていないから解剖学にはその答えはだせない。したがって心理的なものに答えを求めるしかない。ここで著者らは1)レイプしやすいそうな女性を見極めるのを助ける心理メカニズム、2)レイプの描写と合意の上でのセックスの描写に対して、性的興奮の度合いを変化させるような心理メカニズムなど考えられる6つの心理があるかどうかと問う。これだけの仮説を考えつくのにも感心したが、さらに心理学的に証明するために実験を行うところがすごい。議論の流れはともかくこういう実験に参加した被験者にいたく感心してしまった。
それはさておき著者らの結論は巻末(第十二章)に簡潔にまとめてあるので、お急ぎの方はこれだけ読まれて本当かと大いに疑問をもち、時間に余裕ができたところで該当部分の章に当たられるのもいいかと思う。取り上げられているのはレイプという行動であるが、これに限らず人間の行動および心理にはすべて進化論的生物学上の基盤があることを認めた上で、社会的な善悪の合意を築いていくことが大切であろう。
『乱交の生物学』(ティム・バークヘッド著、小田亮・松本晶子訳、新思索社刊)を読む。表題にある「乱交」はpromiscuityの訳として採用されている。通常「乱婚」という訳であるが、動物は結婚制度がないので「乱交」としたと訳者あとがきにあった。確かに雄性と雌性のつがい方について数という関係で見れば、一対一、多対一、一対多、多対多の四通りあるから、これらを総括していうなら乱交となろう。でも動物に結婚制度はないのは当然だが、人間でいう乱交もないと思う(生殖としてではなく社会的関係のためにセックスをするのはヒトとボノボくらいだろう)。訳者としても悩んだのではないだろうか。副題が精子競争と性的葛藤の進化史であり、こちらがより正確に本書の内容を表している。
男性と女性が恋愛してお互いいに仲睦まじく協力しあって子供を作るという「家族観」は、人間社会で理想とされている(ビクトリア朝の頃に淵源するのであろうか)。こういう観点が「常識的な」大人の見方とされているのは、人間社会にとっては好ましいことであろう。しかし生物一般に視点を拡げると事実ではない(端的にいうと嘘、虚構である)。人は、しかしながら自分の見方で他者を見るから、動物も当然一夫一妻であろうとされてきた。この見方(ジェンダー観)の訂正から生殖に関する進化生物学は始まったと言ってよい。
雄はとにかく自分の遺伝子をなるべく多くの卵子に受精させ、子孫を残すことを優先させる。それだけではなく、投資する資源を最小限にするようにしてという条件がつく。すなわち可能な限り雌の面倒はみることなくということだ。雄の方が研究対象にしやすかったこと(に加えて男性の研究者が多かったこと)から、雄の生殖戦略のほうが早くから明らかにされてきた。広範な種について研究されている鳥類では、(鴛鴦夫婦というような)仲睦まじいつがい関係どころか、雌はしばしばつがい以外の雄と性交していることが明らかにされている。
雌についても雄の言いなりにはなっていない。卵子という高価な(生物学的に大きな投資が必要なという意味で)、しかも精子と違って数限りある遺伝子格納装置を有意義に使うため、できるだけ優秀な雄を選択するように進化する。雄と雌は互いに戦略の限りを尽くして競争している関係なのだということは、本書の一つの重要なメッセージである。
本書では、ハエから霊長類に至るまでのさまざまな生殖にまつわる進化戦略を紹介している。精子競争があるのは確かだが、本書で述べられているような卵子による精子選択というのはどのくらい確実なことなのだろうか。このあたりはどのくらいまで研究が進んでいるのか寡聞にして知らない。性交を許すときには外見やディスプレイなどで選択をするというのは分かりやすいが、その雄の精子を卵子が選択するという場合、その形質と個々の精子が示す形質とは必ずしも関連していないだろうから明確に存在するというのはかなり難しいように思われる。
どのレベルでどれくらいの選択が働いているのか種によってもさまざまであろうが、雌による性選択は雄にとってはかなり強力な淘汰圧になるのは確実だろう。ヒトの社会でも身長が170cm以上の男性としか結婚しないという選択がかかれば、相手の女性の身長が低くとも男性の身長はおそらく世代ごとにみるとかなり早く伸びるだろうな。
本書では雄の生殖器、すなわちペニスが非常にバラエティに富むことが紹介されている。鳥類は一般にペニスをもっていないことや、ある鳥は偽陰茎を有していることが最初に紹介されたあと、ペニスのデザインには基本形が三種類あることが説明されている。ヒトのような陰茎海綿体タイプはあくまでその一つなのだ。このあたりを読むとなんとなく謙虚になるのが不思議だ。その他ペニスを複数有しているものあるどころか、ヒラムシなどは何十個ももっていること、ナメクジは体長の何倍ものペニスをもっていることが書かれている。これを読むとさらに謙虚になる。とにかくペニスという構造が進化的にみてさまざまにデザインされ、それなりに工夫を凝らして形づくられてきたことは生物学的にみても非常に興味深い。
それにしてもなぜ雄と雌があるのかというのは、実に不思議なことである。
『祖先の物語』下巻を続けて読む。第26章旧口動物の中で「バッタの物語」のところでは、近縁のバッタどうしが酷似しており人為的操作を加えれば交尾して繁殖力のある雑種ができることが述べられ、話は人種の問題に及ぶ。ドーキンスは私たち人間には人種というものが存在するが、すべて同じ種のメンバーであり、生物学的にも全然異論のないことであるのでに、私たちは人種という用語を放棄するのをためらうという矛盾を指摘する。黒人と白人はお互いに配偶者となり、さまざまな混血の程度の子孫を作る。肌の色からすれば黒い肌に限りなく近い子孫もいれば逆もおり、単純な皮膚の色だけからは白人と黒人を区別することは不可能である場合でも、顔全体の特徴などから白人と黒人を区別する。つまり人種的分類が客観的に無意味であるような場合にでも人種的分類を簡単には放棄しないのである。肌の色は、えんどう豆の丸さのように本当の優性形質ではないにもかかわらず、黒人と白人の間に生まれた子供は例外なく黒人と呼ばれる。生物学的には無意味であるにもかかわらず、こうした区別が存在することに対して、ドーキンスは社会的・人間的関係からみて反対であることに賛成しつつも人種分類に遺伝学的・分類学的価値がまったくないというもう一つの極端にも反対する。偏見は偏見として反対しながらも、情報としての価値(不確実性という事前の状態を低減させるという情報学的な意味)は認める。このことは非常に微妙な問題を含んでいるが、生物としての人間が視覚から得られる肌の色という情報をことのほか重要視しているという生物学的事実として認めるべきであろうと思われる。先天的遺伝的な特定の形質に対する感受性が賦与されているのだろう。社会学ではこうした前提はひどく嫌われるが、配偶者の選択という行動がこうした肌の色や文化的影響に強く影響されやすいという事実はきちんと認めなければならないだろう。
その後にはショウジョウバエの項で有名なホメオボックス遺伝子の話が取り上げられ、ワムシの項では有性生殖は無性生殖に対して本当に進化論的に有利なのかどうか、ヒルガタワムシという例外的存在を取り上げ論じている。その後カンブリア紀の珍奇な生物の話、進化の速度について中立的遺伝子座に起こる突然変異率の話(木村資生、太田朋子の有名な研究が取り上げられる)など盛りだくさんの話題が続く。緩歩動物であるクマムシのことは、ドーキンスも可愛いと告白しており、先日読んだ『クマムシ?!』の著者の偏愛ぶりを思い出し思わず笑ってしまった。生き物を愛する人は皆こうなのだ。
この辺を通りすぎると、ランデブーしていく生物に感情移入するのがだんだん困難になってくる。細菌類の章は生命の起源という核心に触れ、生命の出現が太陽に依存しているのではなく深海の中にその秘密があるのではないかという説が紹介される。
最後の「主人の帰還」では、進化の偶然性を認めながらも特定の形態が収斂して進化することを取り上げ「価値」をもつ進化、「進歩」という要素もあることを故グールドに反対する形で述べている。それにしても何という壮大な巡礼の旅だろう。自然科学の本で、爽やかな読後感を与えてくれる稀な本である。ここでもう一度原点に帰って『利己的な遺伝子』を読みたくなってきた。