『確率的発想法』は、教えられ、考えさせられるところの多々あった有益な本だった。特になんとなく漠然と考えていたことを数学的に表記することで明確にできるという点をまた教えられたことだ。数学の本質というのは、学校でやらされるように暗記した公式を使って解を導きだすことにあるのではなくて、とらえにくい現象を、できるだけ分解し簡単な文字や手順に置き換えて表記することにある。同じ著者の『算数の発想』を読んだときにも感じたが、ほんとうに大切な考え方は小中学校で習う仕事算や旅人算を解くにあたってのとっかかりの考え方ではないだろうか。いったん解法として出来上がってしまうと、すぐに「○○算の解き方」という受験テクニックになってしまい、問題を読んだときにすぐにその解法を連想するかどうかが勝負になってしまうのだが、最初にどうその現象を分解するかという目の付け所こそが発想法としては大切なのだ。高校になると数式や文字が最初からでてくるし、これが数学だと思い込んでしまうのだが、実際の生活には最初から数式や文字はころがっていない。現象をどううまく変換するかこれが大切である。
この本では、特に後半の第6章のコモン・ノレッジのところと、第8章と終章のところが私にとってのポイントだった。第6章の「個人の知識を足し合わせたもの」と「集団としての知識」が必ずしも同一ではないこと、そして「公共」的な知識が不確実性を回避するのに役立つということが説明されているところは、なんとなくそう思っていたことを数学的に表記するとはっきりするということのお手本であった。第8章の帰納的意志決定における論理的選好の重要性はさまざまな社会的行動を客観的に見直してみるときに非常に有用だということを教えてくれた。論理的選好の公理系は、記述的推測理論でなりながら、規範的性格ももっているという点は重要だ。そして著者が指摘している次のこと
個人が十分に有望な公理系とその修正システムをもっていたとしても、社会の構造、集団の知識のかね合いによっては、最適選択からずっと遠ざけられてしまうかもしれない
が自由と自己決定の問題を考える上で考慮しておかねばならないことだ。
人々は、独特な内面的論理をもっており、それが経験と矛盾しない限り、その論理を捨てることができません。それでも、あらゆる経験が外部からじゅうぶん撹乱的に与えられ、そこでさまざまな方向に論理の修正が生じれば、自分の現状の選択が最適なものではないと気づき、行動を変化させることもできるでしょう。一方、市場の構造(または社会ゲームの構造)は、必ずしも人々にフレクシブルな環境や経験を与えてくれるものとは、限りません。むしろどちらかというと(中略)慣性や硬直性をもった場合が少なくないと考えられます。
ここで問題なのは、では有効な柔軟性を生み出すため(そしてそれを維持する)には経験にどれくらいの撹乱が与えられるのが適当なのであろうか。硬直性を獲得した構造がその惰性的構造を脱するために必要な条件(必要な「過誤」の条件)とはどんなものだろうか。硬直性はある意味経験則の正しさを反映している故に獲得され、持続していると考えられるが、そこに変動が起きる場合、それは構造を構成する要素の変化から内在的に説明可能なのかということだ。著者は社会を惰性的状態から脱出させる可能性をもつものとして「公共財」という環境因をあげているが、そもそもその公共財とはどのように形成されるのだろう。
終章では、人は未来だけでなく過去に対してもそれを「最適化させようとする」欲望をもつ生き物であるということが書かれてある。ヤスパースの形而上的責任という概念も引用されていてたいへん興味深いのだが、私たちが自分の予期しない(したがって通常の意味では責任のない)何か(事の良し悪しは問わない)あることが起こってしまったときに感じる漠然とした「居心地の悪さ」というものを説明し、それをどう処理すべきかということを考える時に、この視点はたいへん面白い。全知の存在ではない私たちが、必然的に背負う「過誤」をどう処理するかという問題は、人間を知恵のある合理的な存在として(あるいはそうあらまほしき存在)として定置させてきた西洋哲学史い一石を投じる視点かもしれない。