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烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

祖先の物語1

2006-09-12 20:38:41 | 本:自然科学
 『祖先の物語』(リチャード・ドーキンス著、垂水雄二訳、小学館刊)上下巻を購入し、上巻を読む。『利己的な遺伝子』、『延長された表現型』、『盲目の時計職人』、『虹の解体』、『悪魔に仕える牧師』といった数々の著作が出るたびごとに楽しみながら読んできた。今回はその集大成ともいうべき地球の生命誌である。通常生命の進化史というと、細菌類から始まり時系列に沿ってヒトまでの進化を辿るという方法をとるが、ドーキンスの手法は異なる。ヒトから始まって時間を遡っていくのである。こうした方法をとるのは、一つにはヒトが生命誌の頂点に立つ主役ではないことを強調せんがためである。進歩的な史観によれば下等な生命から始まって、高等な生命へと進化し、その中でも霊長類、特にホモ・サピエンスが頂点になるというのがおきまりだが、進化の事実は、生命の発生から現生の生物までの道程は偶然に左右された結果であり、ヒトが特に優等生であったわけではないことを示している。これはすでにダーウィンが洞察していたことであるが、ヒトとそれ以外の生物に序列をつけるばかりか、人間どうしでも序列をつけたがるのが人間の(愚かな)性向である。

 第1章は人類から始まり、第2章チンパンジー、第3章ゴリラへと進んで(遡って)行く。ここで私たちは進化の途上で分岐してしまった同胞と出会う。ドーキンスはランデヴーという言葉を使っている。そして分岐点において想定される共通の祖先をコンセスター(concester)という名称で呼ぶ。1章進むごとに、さまざまな生物と出会うこの旅はほんとうにわくわくさせられる。新たに出会う生物種と自分の共通点を想像しながら読み進めるとより面白さが増えるのである。そして随所にドーキンスが今までの著書で述べてきたダーウィニズムの神髄が織り込まれている。
 上巻ではヒトが二足歩行するようになった契機についての仮説の紹介(第0章)や新世界ザルの色覚の話(第6章)、メガネザルがあんなに大きな目玉を持つようになった理由(第7章)、カバとクジラの関係(第11章)、単孔類とその精緻な感覚器の話(第15章)が特に興味深かった。

 原著では、写真はフルカラーらしいが、日本語版では価格の関係からモノクロとなっているという。カラー写真だったら感動もより大きいと思うが、その分価格を安くしてあるのだからここは我慢。それでも上下巻合わせれば6,400円(+消費税)という価格だから決して安くはないのだが、それでも内容の満足度からすれば十分おつりが来る。自然科学分野での書籍の今年の大きな収穫といえる。

統計学を拓いた異才たち

2006-09-09 13:40:14 | 本:自然科学

 『統計学を拓いた異才たち』(デイヴィット・サルツブルグ著、竹内惠行・熊谷悦生訳、日本経済新聞社刊)を読む。観測と測定から得られたデータにはどれだけ偶然が含まれているのか。起こったことは事実であるにしても、かなりの確率で再現性のある事象なのかどうか。自然科学の営みは、常に偶然をどれだけ飼いならせるかに腐心してきたといってもいい。
 この本は、統計学の発展に寄与してきた人たちのエピソードを集めている。数学的なところにはよく分からない部分もあるが、いろいろなことが分かって面白く読める。統計処理ではよく出てくるステューデントのt検定のステューデントとは今まで実名だとばかり思っていたが、実はギネス社(みなさんよく御存知のビール会社)に勤めていたゴセットという数学者が、研究成果を公表するのは社の方針に反することから「ステューデント」というペンネームで投稿したものだったということを知った。
 そうした豆知識的な面白さもさることながら、こうして統計学史を通覧するとこの分野が戦争や当時の冷戦構造とは無縁でなく、この分野に貢献した数々の学者の運命を変えたということに歴史の数奇さを感じる。薬品や毒物の反応する分量を決めるのに利用される統計モデルの開発をしたチェスター・ブリスは、アメリカの不況のあおりで失職し、その後ソ連のレニングラード(現サンクトペテルブルク)植物研究所で研究を継続し、スパイの嫌疑をかけられた話や、ロシアの数学者コルモロゴフはその類まれな才能で確率と統計学の分野に多大な貢献をしたが、ソビエト連邦は偶然というものは資本主義経済でみられるもので、計画経済の社会主義では認められないとして、その恩恵を受けることがなかったという話を読むと数学という他の分野に比べると社会の影響から無縁と思われる分野でも歴史の流れというものの影響を受けるのだということを改めて感じてしまう。

 現在はコンピュータソフトのおかげで統計解析もデータを打ち込んで、解析法の選択さえ誤らなければ、瞬時に答えを手にすることができるるが、当時は手回し計算機しかなかったことや計算を人海戦術でやるしかなかったことを読むと、隔世の感というのはこのことなんだと思う。


意識の探求2

2006-09-08 13:11:02 | 本:自然科学

 『意識の探求』第九章から下巻へと進む。後半はいよいよ記憶や意味、時間意識など脳機能の主要問題について詳述される。
 第十二章では私たちの脳は、自分の意識に上らせることなく、実に多くの情報を処理していることが示されている(これを著者はゾンビ・システムと呼んでいる)。私たちは意識せずに外界の情報を処理して、行動系へと出力している。例えば、目で目標を追跡したり、姿勢を制御したり、夜の暗闇を歩いたりなどなど。さらに続く章では、特定の部位の脳障害により失認agnosiaと呼ばれる認知機能障害が起こることを例示している。これは他の脳関係の本にも出てくるが脳の不思議さを実感させられるところだ。第十四章では意識の機能という問題に触れられている。人間が意識を持つということには何らかの進化論的に有利な点があったに違いないというわけだ。ここで著者は、NCCは外界の状況を簡潔に要約することが重要であると述べ、この要約作業時に主観的感覚、クオリアが付け加えられるのだろうと考えている。大量で雑多な外界の情報を適切に取捨選択して、適切な行動をとる(進化論的にみて有利性があるということだから摂食や逃避、攻撃、生殖といった基本的行動がまず大事なのだろう)上で、意識がある方がないより有利ということだろう。この要約にクオリアが付随し主観的意識に上ることで外界の状況によりメリハリがつくという考え方は面白いと感じた。意識が脳機能の単なる随伴現象にすぎないと述べる哲学者もいるが、こうした解釈なら主観的意識にきちんとした意味づけができるからである。大量の文書に重要箇所にラインマーカーで線を引いていく作業みたいなものだろうか。線を引いて目立たせたところがありありと浮かび上がるように、質感を伴う外界の印象は、特に重要な外界情報であるということだと言える。人間の場合は大脳が極端に発達して、生命維持に不可欠なこと以上のことを考え、感じることができるようになったから、この質感というものの重要性が逆にぼやけてしまっているのかもしれない。同じくこの章では「意味」(志向性)の問題が考察されている。ここでは意味の起源として、1)遺伝的傾向、2)経験、3)知覚様相内あるいは様相間でのデータの統合を上げている。これらの生物学的基盤にあるのがニューロンの連合であり、「意味」とは、「勝利したニューロン連合が引き起こす、ポストNCC活動、すなわち、ニューロン連合からの出力を受けているニューロン活動の一部である」と推論している。こうしたニューロンに接続している周辺部ニューロンが内包的あるいは外延的「意味」と関係しているのだろう。そう考えると言葉どうしの意味には、ニューロンの活動の電気的な差異しかないという意味で、存在するのは(ソシュール的な)「差異」だけだということにあるが、中核に活動するニューロンが存在するという意味では、存在するのは単に「差異」だけではないといえる。
 著者は科学者として、意識の問題について取り組む哲学者を評して、すぐれた問いをたてるが、提示する答えにはまどわされないようにするのがいいだろうと述べている。このあたりは、自然科学と哲学の溝を感じさせる。五年をかけて書いたというだけあって、なかなかの力作である。今分かっている事実は何で、著者の仮説は何かという点をはっきりとさせて論じてあり、各章末にはまとめがついており、巻末には専門用語の簡単な解説もついており、読み返すのに便利である。第二十章は、著者と架空のジャーナリストとの対話という構成になっており、ここから読み始めたほうが分かりやすいかもしれない。


意識の探求1

2006-09-05 23:46:00 | 本:自然科学

 『意識の探求 神経科学からのアプローチ』(クリストフ・コッホ著、土屋尚嗣・金井良太訳、岩波書店刊)の上巻を読み始めた。

 『脳と無意識』とは違い、今度は「意識」がどのようにして生成するのかという問題にアプローチしていく本であり、実験的事実をこれでもかと積み上げながらこの問題に肉薄していく姿勢は読みながら迫力を感じる。序文の冒頭に引用しているワインバーグの言葉のように、脳というこの高度に複雑な組織が対象である場合には、「何が正しい問いか初めからわかっているわけではない」。著者は意識と相関しているニューロン(NCC;neuronal correlates of consciousness)を明らかにしようと、作業仮説に基づき探求を進めていく。その作業を進めていくにあたり、NCCは「特定の意識的知覚をもたらすのに十分かつ、最小のニューロン集団」であるとしている。これと正反対にある仮説が、すべてのニューロンが大なり小なりNCCに関与しているという「全体説」である。実証を進めていく上で、前者の方が検証しやすいという方法論的立場を採用している。

 たった四つの塩基の配列から遺伝情報が構成されているということが明らかにされる前には、遺伝という現象は生気論的解釈が支配的であった。これと同様なことが脳という巨大な構造物の解明にあたっても起こっているように思われる。脳とは数千億個のニューロンの相互作用から生まれる部分の総和以上の生命活動がその本質であり、局在的なアプローチでは解明できないとする立場である。それを支持する人たちは部分の総和が生み出す創発的現象こそが脳機能の本質だとする。ベルグソン的な生命論といえるが、著者はこの立場の対極に位置するといえる。

 研究を進める立場からすれば、著者のとる方法論の方が明らかに生産的だろう。全体こそが大事であるという見解は、総論的に正しくともそれ以上の解明を拒絶してしまう性質をもっている。著者はNCCを担うニューロンの特異性を明らかにしようとして、視覚野において研究を進めていく。この論述はかなり専門的で神経組織についての予備知識がないと通読には難渋するだろう。ともかく、構成要素の「特異性」を明らかにすることで、システムの解明を進めていくという立場は、かつて免疫系システムの解明において抗体のもつ特異性を手がかりに研究が進められていった経緯を連想させ、このアプローチがいつかは脳全体の仕組みを明らかにするのではないかという期待を抱かせるのに十分である。

 ということで、今日は第八章まで読了。


脳と無意識 ニューロンと可塑性

2006-09-04 23:19:11 | 本:自然科学

 昨日までの疲れがまだとれていないせいか、読書のペースももう一つ本調子ではない。今日は『脳と無意識 ニューロンと可塑性』(フランソワ・アンセルメ、ピエール・マジストレッティ著、長野敬、藤野邦夫訳、青土社刊)を読む。本の帯に精神分え析と神経科学の画期的ジョイントと記されているように、著者のアンセルメは精神分析が専門で、マジスレッティは神経科学者である。
 今日脳科学の進歩は著しく、生化学・分子生物学的研究のみならず、MRIなどで脳の活動をかなりの精度でリアルタイムで可視化することができるようになってきた。そうした状況から精神分析の理論も神経科学の視点から基礎づけることが近い将来可能となるかもしれない。今まで交流のなかった領域がお互いに顔を向けあってきたということであろう。冒頭には精神現象の二つの要素である脳神経系と無意識があり、「これら両極端の点のあいだにあるすべては、われわれに未知でありつづけている」というフロイトの言葉を引きながらニューロンについての説明から始まる。ここで重要な概念としてとしてあげられているのが、可塑性という概念である。脳神経組織が遺伝的に決定された不変のものではなく、後天的に変化しうるものであることが強調されている。遺伝と環境という古くからの対立要因は至るところで顔をだすが、脳という場所に可塑性という概念を導入することで両者が弁証法的に止揚されるというわけだ。これは、以前読んだ『わたしたの脳をどうするか』でカトリーヌ・マラブーも強調していた(彼女はヘーゲルについての論文で博士号を取得している)。巻末のインタビューの中で、彼女が脳外傷に関する神経科学者たちの研究の重要性について話したが、「「職業」精神分析家たちによって激しく拒絶され」たと述べていた。そして伝統的な形而上学の分野で研究している哲学者たちが、「生物学を揺り動かしている本質的な諸問題に対して無能力で無知であることを」悟ったそうだ。まあ事情はそんなものだろう。哲学者たちにはDNAもRNAも区別はつかないだろう。「画期的ジョイント」と書いてあるのは、したがって理論が画期的であるのではなく、異質な両者が共著で本を出したことが画期的なのだ。

 それはともかく、そうした可塑性をもつニューロンによって構成されるシナプスを介するネットワークが外界からの刺激に対する知覚を処理するだけでなく、外界とは直接接続しな内的現実を構成しうることが無意識の神経学的基盤であろうと述べられている。神経回路網には身体の外部からくる経験と内部からくる経験の二種類存在するわけで、フロイトは「生体が外部世界と同様に外的でありつづけることに関するニューロン装置の理論」(ラカン)である。ニュートン力学的な物理的因果関係が支配的概念であった当時、エネルギーという概念を用いながらも線形的な因果の連鎖とは違う形の関係を精神の中に洞察したのは、彼の功績だろう。そして精神分析で重要な概念である「欲動」-フロイトによれば精神的なものと身体的なもののあいだの境界概念として位置づけられた-を脳科学的立場から説明するものが扁桃体であろうと述べている。デカルトは精神と身体を結びつける部位を松果体であるとしたが、現在の知見からすればこれは扁桃体であることになる。
 ことば(シニフィアン)の世界が扁桃体を介して情動と結びついていることは、精神分析的に言えば私たちは外界を情動の影響なしに「ありのまま」に眺めることは不可能ということになる。人はそれぞれ内界に刻印された幻想によって現実を認識せざるを得ないといえる。しかしこれは(精神分析に対していつも非難されるように)決して決定的なものではなく、可塑性のある現象である。私たちはそれぞれの扁桃体への記憶の痕跡で個性のある反応を示すと同時に、その反応を変えることが可能なのである。


 この本には書かれていないが、極端に大きく複雑な神経ネットワークを進化の過程で獲得してしまったヒトという生物は、自分の内部にも「外部」(神経ネットワーク)をもつことになったといえる。これは進化的に有利なのでこうして残っているともいえる。扁桃体の神経回路が発生学的に古いからといって、低劣なものというわけではなかろう。生存し繁殖していくために必要な情動の刻印がことばに刻み込まれており、それを使って私たちは互いにコミュニケーションをとることはとても人間的なことに違いない。そうでなければ詩や歌は生まれなかっただろう。


メモ:スピノザの情念論をもう一度読み返すこと。


クマムシ?!

2006-08-25 21:14:23 | 本:自然科学

 『クマムシ?!』(鈴木忠著、岩波科学ライブラリー)を読む。たぶん『ヘンな生き物』出版以来この極小の生物の人気がでたのであろう(もっと前では荒俣宏の『世界大博物図鑑』もあった)。このたび岩波科学ライブラリーで、その生態とそれを巡る研究の歴史が紹介されることとなった。緩歩動物門には真クマムシ綱、異クマムシ綱、中クマムシ綱の三つの綱があるということだが、そもそもクマムシのためだけに一つの門が設けてあるし、中クマムシ綱に至ってはたった一種しかいないという(しかもこのクマムシは1937年に長崎県雲仙の温泉でドイツ人のラームによって発見されただけで今ではその標本もないという謎の多いクマムシだ)。
 本にはカラーの扉絵がなんとも「可愛く」思わず微笑んでしまうほどだ。そして真クマムシの卵の走査顕微鏡写真は、実に見事な幾何学的芸術作品である。体長1mmにも満たないこの生物の造化の妙を知ると、まさに「神は細部に宿り給う」という言葉を連想してしまう。あまり楽しそうに読んでいるので、横にいた女性が興味を示したので、喜ぶと思って内容を紹介すると「虫の本ですかぁ?!」と呆れられ、そっぽを向かれてしまった。どうしてこの造形の見事さがわからないかなぁ・・・。
 陸生のクマムシは乾燥状態になると「樽」型に変化して身を守る。この「樽」はさまざまな外的物理変化にめっぽう強く、液体ヘリウムの低温、高圧、紫外線などにも耐えることが報告されているという。ただしこの変化もあくまでもゆっくりと乾燥させることが条件である。驚異的な生命力を強調するあまり、



「何をしても死なない生き物がいる」という風説がひろまってしまったのであった。これは完全な誤りである。クマムシは簡単に死ぬ。(中略)「樽」が高温に耐えるといっても、歩いているクマムシにお湯をかければ死ぬ。つぶせば死ぬ。そして、急激に乾燥すれば、「樽」にはなれず干物になるのである。


 そしてクマムシが乾燥した状態で百二十年も生きるというのは動物学の教科書にも記載されているが、その典拠ははっきりしないというのだ。教科書に記載されていることの中にもこうした事例があるのだということを知ると、アリストテレスの『動物誌』が長い間信じられてきたというのも理解できる。子供の頃に読んだ科学読み物では、中世の長い暗黒時代には人々は実証的精神に欠け、アリストテレスが記載した誤った知識を鵜呑みにして語り継いだというのが定番のお話だったが、決してそんなことはないのである。科学が発達してきたから、それだけ人々が実証的批判的にものをみるようになってきたということは(残念ながら)いえない。この時代にも進化論を否定する人々はいるし、根拠のない占いに生活の指針を求める人々は多いのである。後代に生きる私たちにとって何がありがたいかといえば、こうした歴史を知ることで、自分の身の丈を振り返り、少しだけ謙虚になれることであろう。


ダーウィンの足跡を訪ねて

2006-08-23 21:03:15 | 本:自然科学
 『ダーウィンの足跡を訪ねて』(長谷川眞理子著、集英社新書ヴィジュアル版)を読む。ヴィジュアル版というだけあって、新書には珍しく表紙もカラー写真を使っている。進化生物学者である著者がダーウィン縁の地を探訪して書いたエッセーにより構成されている。ダーウィンの生まれ故郷の風景や、おなじみのガラパゴス諸島の生物の写真などが掲載されており、楽しみながら読める。
 ダーウィンの母親の実家が陶器で有名なウェッジウッド家の出であることは有名であるが、その実家はイングランドのミッドランド地方のストーク・オン・トレント郊外にある。ここにはウェッジウッドのビジター・センターがあり、陶器博物館があるということだから、九州で言えば伊万里みたいなところだろうか。ウェッジウッド家の二代目のジョサイア・ウェッジウッドはそこの近くのメアという村に大邸宅を購入している。その村にあるセント・ピーター教会でチャールズ・ダーウィンとエマ・ウェッジウッドが結婚式を挙げたのだそうだ。実際に訪れた著者によると、その教会には御両人の結婚証明書のコピーが展示してあるそうで、希望すればコピーを売ってくれるのだそうだ。芸能人ならいざしらず著明な科学者の結婚証明書のコピーを販売するような神社仏閣は日本にはないだろう。神の前で誓った結婚は万人の知るところというわけだろうか。
 この妻のエマはショパンからピアノを習ったことがあるという。このことを著者はムーアヘッドの『ダーウィンとビーグル号』という本から知ったトリビアと書いているから、そのトリビアを私はこの本で知ったことになる。
 この本にはチャールズの兄であるエラズマスのこともちょっと出てくるが、この兄の方はチャールズ同様医者になるはずのところを挫折したところまでは一緒だが、ケンブリッジ大学、エジンバラ大学も中途までで、大した成果もあげず親の財産で優雅に暮らしていた。(大金持ちの息子という)似たような境遇にありながらこうも違う人生を歩んだのは、個人の資質もあろうが、やはり偶然乗り込むことになったビーグル号による探検だったのだろうという思いが強くなった。このビーグル号乗船の依頼がダーウィンに回ってきたのが、前二人が断った後だというのだから、人生どんなところにチャンスが転がっているか分からないものである。

系統樹思考の世界

2006-07-31 06:35:20 | 本:自然科学

 『系統樹思考の世界』(三中信宏著、講談社現代新書)を読む。基本は生物を分類する方法論の話であるが、およそ世界の中にあるありとあらゆるものを「分類する」営みについて書こうという新書としてはだいぶ欲張りな野心的な本である。繰り返しのない進化という現象を分類という営みでどのように再現するのかということは、当然歴史をどう記述するのかという方法論を避けては語れない。著者がパースやギンスブルグを引用しているのも当然だろう。



理論の「真偽」を問うのではなく、観察データのもとでどの理論が「より良い説明」を与えてくれるのかを相互比較する-アブダクション、すなわちデータによる対立理論の相対的ランキングは、幅広い領域(歴史科学も含まれる)における理論選択の経験的基準として用いることができそうです。
 第三の推論様式としてのアブダクションは、さまざまな学問分野において、”単純性(「オッカムの剃刀」)”とか”尤度”あるいは”モデル選択”というキーワードのもとに、これまでばらばらに論じられてきました。しかし、将来的には統一されていくだろうと私は推測しています。


と控えめに書かれてあるが、そこからは著者のこれからの展望についての旺盛な意欲が伺える。
 方法論としての説明は第3章にあるが、ほんの入り口を紹介したという感じであった。ひょっとするとあまりに大部になりすぎて、この本には今回入れられなかったのではないだろうか。これからするとこの本は「序章」というべきものだろう。おそらく将来「本論」がハードカバーで出版されるのだろう(期待しています)。
 読み通してみると、系統樹にまつわる方法論よりも著者の研究生活の「歴史」がところどころに語られていて、そちらの方がずっと面白かった(特にプロローグとあとがき)。というと何だか本論を軽く見ているようで著者に失礼だろうか。いや人間は生まれてから何かに興味をいだき、成長してそれぞれどこかの枝に迷い込みながら歴史を作っていくのだ。私たちは人生で何かを分類しそこにやりがいを見出し、自分も歴史という大きな樹木の中に分類されているのだということが分かり、愉快な本だった。


確率的発想法2

2006-07-30 14:57:31 | 本:自然科学

 『確率的発想法』は、教えられ、考えさせられるところの多々あった有益な本だった。特になんとなく漠然と考えていたことを数学的に表記することで明確にできるという点をまた教えられたことだ。数学の本質というのは、学校でやらされるように暗記した公式を使って解を導きだすことにあるのではなくて、とらえにくい現象を、できるだけ分解し簡単な文字や手順に置き換えて表記することにある。同じ著者の『算数の発想』を読んだときにも感じたが、ほんとうに大切な考え方は小中学校で習う仕事算や旅人算を解くにあたってのとっかかりの考え方ではないだろうか。いったん解法として出来上がってしまうと、すぐに「○○算の解き方」という受験テクニックになってしまい、問題を読んだときにすぐにその解法を連想するかどうかが勝負になってしまうのだが、最初にどうその現象を分解するかという目の付け所こそが発想法としては大切なのだ。高校になると数式や文字が最初からでてくるし、これが数学だと思い込んでしまうのだが、実際の生活には最初から数式や文字はころがっていない。現象をどううまく変換するかこれが大切である。
 この本では、特に後半の第6章のコモン・ノレッジのところと、第8章と終章のところが私にとってのポイントだった。第6章の「個人の知識を足し合わせたもの」と「集団としての知識」が必ずしも同一ではないこと、そして「公共」的な知識が不確実性を回避するのに役立つということが説明されているところは、なんとなくそう思っていたことを数学的に表記するとはっきりするということのお手本であった。第8章の帰納的意志決定における論理的選好の重要性はさまざまな社会的行動を客観的に見直してみるときに非常に有用だということを教えてくれた。論理的選好の公理系は、記述的推測理論でなりながら、規範的性格ももっているという点は重要だ。そして著者が指摘している次のこと



 個人が十分に有望な公理系とその修正システムをもっていたとしても、社会の構造、集団の知識のかね合いによっては、最適選択からずっと遠ざけられてしまうかもしれない


が自由と自己決定の問題を考える上で考慮しておかねばならないことだ。



 人々は、独特な内面的論理をもっており、それが経験と矛盾しない限り、その論理を捨てることができません。それでも、あらゆる経験が外部からじゅうぶん撹乱的に与えられ、そこでさまざまな方向に論理の修正が生じれば、自分の現状の選択が最適なものではないと気づき、行動を変化させることもできるでしょう。一方、市場の構造(または社会ゲームの構造)は、必ずしも人々にフレクシブルな環境や経験を与えてくれるものとは、限りません。むしろどちらかというと(中略)慣性や硬直性をもった場合が少なくないと考えられます。


 ここで問題なのは、では有効な柔軟性を生み出すため(そしてそれを維持する)には経験にどれくらいの撹乱が与えられるのが適当なのであろうか。硬直性を獲得した構造がその惰性的構造を脱するために必要な条件(必要な「過誤」の条件)とはどんなものだろうか。硬直性はある意味経験則の正しさを反映している故に獲得され、持続していると考えられるが、そこに変動が起きる場合、それは構造を構成する要素の変化から内在的に説明可能なのかということだ。著者は社会を惰性的状態から脱出させる可能性をもつものとして「公共財」という環境因をあげているが、そもそもその公共財とはどのように形成されるのだろう。


 終章では、人は未来だけでなく過去に対してもそれを「最適化させようとする」欲望をもつ生き物であるということが書かれてある。ヤスパースの形而上的責任という概念も引用されていてたいへん興味深いのだが、私たちが自分の予期しない(したがって通常の意味では責任のない)何か(事の良し悪しは問わない)あることが起こってしまったときに感じる漠然とした「居心地の悪さ」というものを説明し、それをどう処理すべきかということを考える時に、この視点はたいへん面白い。全知の存在ではない私たちが、必然的に背負う「過誤」をどう処理するかという問題は、人間を知恵のある合理的な存在として(あるいはそうあらまほしき存在)として定置させてきた西洋哲学史い一石を投じる視点かもしれない。


確率的発想法

2006-07-27 23:59:41 | 本:自然科学

 『確率的発想法 数学を日常に活かす』(小島寛之著、NHKブックス)を読む。同じ著者による『算数の発想』が面白かったため、購入した。確率というものを単に数学の分野の中で説明するのではなく、経済活動というより身近なことに即して説明しているのが特徴で、大変面白い。経済のことについては素人なので余計そう感じるのかもしれないが。
 数学的考え方に慣れていると、確率的事象を客観的に評価する反面、「主観的評価」というものを見落としがちになる。この点を例えば医者と患者との間で交わされるインフォームド・コンセントを例にとって説明する。医師にとっての死亡率と患者にとっての死亡率はその確率が意味するところがまったく違うのだ。



医者と患者の例で示したように、あるリスクについて、データが自動的に集積されるような専門職の人間と、そのリスクが具体的に襲いかからんとしている孤立無援の人間とでは、リスクの感度の基盤が異なっていて当然です。専門家にとっては頻度であるものが、リスクの受け入れ側には内面的な恐れや危惧や覚悟であるのですから、頻度から想定される結論と人々の決断とは大きくずれることが十分ありえます。(中略)リスクの重大性を、専門家はたいがい、「年間死亡率」で判断し、普通の人は「破滅的になる危険性」「未来世代に対する恐怖」などで判断することが多いという報告です。


 さらに自然科学者がリスクを評価する際に「市場システム」の特性を見落としがちであるという指摘につづき、経済学者のリスクの捉えかたの危うさも指摘している。自己責任論を主張する場合に、ルールの公平性はもちろんであるが、効用の完全知あるいは選好の完全知(自分の意思決定を熟知した上での市場への参加)と個人の情報と知識によって参加を回避できることが前提とされていなければ、自由主義を錦の御旗に掲げて自己責任論を主張しても本質的にはリスクを分かっていないのだと論じている。特に後者の個人の情報と知識によって参加を「回避できる」ということは、現代社会では重要ではないかと思う。知らず識らずのうちにさまざまな(広い意味での)経済活動に巻き込まれているということがままあるからである。
 後半ではロールズの無知のヴェールの理論とフランク・ナイトという経済学者の不確実性の理論との関係が示唆されており、これも大変興味深い。