烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

赤を見る

2006-11-15 21:50:30 | 本:自然科学

『赤を見る 感覚の進化と意識の存在理由』(ニコラス・ハンフリー著、柴田裕之訳、紀伊国屋書店刊)を読む。意識という「いわく言いがたい現象」をどう位置づけるのかについて、進化心理学的な見地から検討した本である。赤という外界の色を見るという基本的な知覚経験を例にとり、著者は説き起こす。赤い色が網膜を刺激する感覚からどのようにして「私は赤い色を見ている」という知覚が現れるのか。まず感覚から知覚への連鎖を段階的に説明する(本文図5)。
 1.外界の対象aが感覚器官a’に刺激を送る。2.S(感覚主体)は、この感覚刺激をもとに、何らかの低次元の複製として、感覚bを作り出す。3.Sは、その感覚の属性を読み取る。p(b) 4.最後にSは読み取った結果をもとにして、外界の事実を再構築する。p(a) 
 知覚と感覚が非常に密接に起こるために、私たちは両者を区別することができない。しかし盲視の症例や、四肢の誤認実験(ラマチャンドランの実験)などから実はそれは別々の過程のものであるらしいということを著者は指摘する。著者の巧みなたとえによれば、郵便配達がおした玄関の呼び鈴の音に反応した犬の鳴き声で、郵便配達の来訪を知る犬の飼い主のように、感覚というものは、「犬の鳴き声」のような「おまけ」なのだ。しかしこれはたいへん大きな(偉大な)「おまけ」である。



 盲視の分析から、たくさんの答えが明らかになった。感覚の役割は、主体と外の世界との個人的な相互作用を探知すること、そこに存在して直接関与しているという、各自が持っている感触を生み出し、今この瞬間の経験に、今、ここで、自分が、という感覚を与えることだ。


 


ではどうしてこういう感覚がそもそも在るのかという疑問に対しては、著者は進化論的にそれが有利であったからだと説明する。外界の刺激に対する局所的な反応であったものが、自らの反応パターンをモニターすること(反応回路にループを作りフィードバックすること)により、より総合的に自らの状態を知ることができる。


 



 けっきょく、長い進化の歴史の中で、ゆっくりと、しかし驚くべき変化が起きた。何が起きたかと言えば、感覚的な活動がまるごと「潜在化」されたのだ。感覚的な反応を求める指令信号が、体表に至る前に短絡し、刺激を受けた末端の部位まではるばる届く代わりに、今や、感覚の入力経路に沿って内へ内へと到達距離を縮め、ついにはこのプロセス全体が外の世界から遮断され、脳内の内部ループとなった。


 


 この内部モニターこそが私という意識であるとして、「経験は経験者なくしてはありえない」という哲学のテーゼに対して、著者は経験していることから、私という存在が立ち上がるのだという見方をする。内部ループという回路によって私という意識が生じるならば、両者の見方は鶏が先か卵が先かという議論になるので、いずれがより正しいのかということにはあまり意味はないと思う。むしろあることを経験するということと私という経験は不即不離のものであるという方がより妥当だろう。こうした進化論的な見方は方向としてはおそらく正しいだろう。しかしそれでも意識というのは不思議な現象である(不思議だと思うのも意識の作用なのだが)


 本書の内容とは関係がないが、この本の装丁は書名にちなんで赤い表紙に白いカバーというシンプルながらお洒落な装丁である。一般書としては普通かもしれないが、自然科学書籍の書棚に並んでいると自ずと目立つ。内容はもちろん大事なのだが、装丁で手にとってくれる人がいて、そこから多くの人が興味を抱くようになれば自然科学系書物の普及にとっては慶賀すべきことであろう。