烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

顔は口ほどに嘘をつく

2007-01-24 20:29:57 | 本:自然科学

 『顔は口ほどに嘘をつく』(ポール・エクマン著、菅靖彦訳、河出書房新社刊)を読む。著者はカリフォルニア大学サンフランシスコ医学校の心理学教授で、顔と表情に関しては世界的権威とのこと。FBIやCIAなどで感情表現アドバイザーを務めているのだそうだ。
 著者の長年の研究によると顔による感情表現は当初文化的なものであるという予想とは違い、普遍的なものであるという。表情の判定は主観的なものに頼ることなく
facial action coding system (FACS)という顔の筋肉の動きを測定する測定系を開発して定量的に研究している。感情とその表出との関係や感情を故意に隠そうとするときの不自然な表情の動きを究明しているそうで、50分の1秒という瞬間的な表情の変化を捉え評価するという。これにより嘘を見抜けるらしく、FBIやCIAからもお呼びがかかるわけである。
 肝心なことはヒトの顔に現れる感情が、文化的に規定されたものではなく普遍的なものであるということ、進化的に獲得されたものであるというメッセージである。感情についての研究から、著者は、(1)感情は私たちの安全にとってきわめて重要だと思われる物事への反応であること、(2)感情はしばしばあまりに素早く始まるので、それを引き起こす心の中のプロセスに私たちが気づかないことは広く認められていることであることをまず述べる。そしてこれが自然選択によってもたらされたものであることを示唆する。ここでは古くダーウィンも認めている蛇に対する恐怖反応が普遍的な現象であることが例として挙げられている。瞬時にして外界の対象に反応して情動反応によって行動をひきおこすシステムを著者は「自動評価機構」という暫定的な名称を与え、これが常に環境を探査して、「情動換気データベース」と合致するものがないかどうかを警戒している。そのデータベースの一部が自然選択によって作られたデータベースであり、一部が経験的に獲得されたデータベースである。蛇に対する恐怖というのは前者に属するのではないかというわけだ。この自動評価機構以外に、内省的な評価、過去の感情的な体験の想起、イマジネーション、共感、過去の感情的体験を語ること、他者から規範に伴う感情を教え込まれることが感情を生み出す要因として挙げられるが、著者は顔面の筋肉を動かすことで感情が生まれる、すなわちある感情を表出するときの表情を作ることで、当該の感情が生まれるということを指摘している。笑う表情を作れば楽しくなり、泣く表情を作れば悲しくなるのだ。
 こうした要因があることを踏まえて人が自分の感情の動きに敏感になれば、逆にそれを抑制することが可能になると指摘する。このとき感情を生み出す体験が人生早期に体験されたり、強い経験だったりすると抑制することが困難である。また自然淘汰によって獲得されたものであればそれだけ抑制するのが難しいと指摘している。
 後半は怒りや悲しみ、驚き、恐怖、嫌悪などの感情が生まれる際の表情について分析が加えられる。これは表情を「作る」演劇をする人には参考になるだろう。
 さて重要なことはどうして表情というものを持つことが自然淘汰上有利であったかという問題である。顔面の筋肉は哺乳とう行為を行うようになって特に発達する。猫や犬でも表情らしいものを認めることができるが、哺乳することのない蛇や蛙では表情はない。類人猿では表情が特に豊かだから集団で生活する上で表情を持つことが特に有利だったと考えられる。例えば窮地に陥ったときに悲しみや困惑の表情を出すことにより周囲から助けを得やすくなるなら生存に有利であっただろうし、喜びを表出することでより自分の魅力を出せる個体はそうでない個体よりも配偶者を獲得する上で有利であっただろう。でも表情があるかないかという二分法ではなく、その表情の表出の程度と繁殖率に相関があるのかが問題だ。
 それに感情の表出を抑制する場合や感情とは反対の表情を偽る場合も考慮しなければならないだろう。窮地に陥ったときに容易に悲しみの表情を出してしまう男性は弱いと見なされ、配偶者を獲得する機会を失ってしまう可能性がある。この場合は逆に感情をうまく抑制するか、逆の表情を作れる個体の方が有利である。
 感情を表情に表せることは社会生活を営む個体に有利なことだろうが、どのような文脈でそれを発揮することが有利なのかはさまざまな要因が絡んでくる。自分の気持ちを素直に表現できる(表情で嘘をつけない)雄は雌に好まれるだろうが、浮気はすぐにばれるだろう。これはなるべく多くの雌を番って遺伝子を残そうとする雄にとっては不利なことかもしれない。一般的に女性は表情から隠れた感情を直観する能力に優れているが、これも配偶者獲得に絡む自然淘汰によって備わった能力なのだろうか。
 冒頭には著者の娘のさまざまな表情の写真が掲載されており、それから感情を推測するテストがついている。本書を読んで自分の表情を研究すれば、嘘のつけない素直な男性諸氏も顔で嘘をつけるようになるかもしれない。