『言語の脳科学』(酒井善嘉著、中公新書)を読む。昨今は脳ブームとやらで、脳は筋肉と同様で鍛えればその分よくなるのだとか・・・。それなら勉強すればするほど何ヶ国語でもしゃべれるようになるのではないか。しかし外国語の習得は年をとればとるほど難しい、というかある一定の年齢を過ぎればスポンジが水を吸い取るようにとはいかなくなる。これは脳というハードウェア自体の構造が関係しているはずだ。
機能の上達に限界があれば、その構造的制約があると推理するのは当然だろう。しかし言葉についてはなかなかそうはいかないようで、脳は白紙の状態で生まれ、学習によっていかようにも変わるという一種の信仰がある。
この本で紹介されるチョムスキーは、そうではなくヒトの脳というハードウェアには文法機能が生得的に備わっており、自発的に言語習得機能が解発されると考えた。もちろんそれのみで言語能力は完成するわけではなく、段階的に環境(ここでは話者がおかれた言語環境)と相互作用して完成していく。ある言語環境下におかれれば自然としゃべるようになり、しかもどんどん上達していく。この点は言葉もどきをサルが使えるということとは決定的に違う。ヒトとサルは決定的に違う。ゲノムの相同性からヒトとサルの連続性が強調されることが最近多い(特にエコロジーを強調する人たちによっては都合がいい事実だろう)。しかし両者のゲノムの差が平均で1.2%しかないからといってほとんど一緒ということにはならない。ほとんど同じことが書かれている料理のレシピでも全く違う料理ができることだってあるようなものだ。言葉をしゃべるということでサルとヒトしてもうひとつ重要な点は、その文法装置はモジュール化しており、脳のある特定の部分に局在しているということだ。
このモジュールは言語使用のさまざまな場面でどのうように活動しているのか。ヒトにしかない機能なので最新の研究方法でも隔靴掻痒の感がある。これについては第5章や9章などに研究成果が紹介されている。
方法論は日進月歩だから書き換えが必要となるが、重要なのは冒頭の基本的仮説であり、この研究プログラムに沿って進めば心理学や哲学のある問題は自然科学的に解明されることになるだろうということだろう。もちろんこれはそれらの問題が擬似問題だったということではなく、新たな展望のもとに見ることができるということであり喜ばしいことなのだ(ちょうど相対性理論からニュートン力学を眺めることができるように)。
本書で特に面白かったのは、第11章の「手話への招待」というところだった。手話はジェスチャーとは異なり、文法をもつ自然言語の特徴をもつということは知っていたが、日本で一般に使用されている手話には複数あるということをはじめて教えられた。手話を母語とするネイティヴ・サイナー(native signer)が使う日本手話以外に、健聴者が教わる手話(「日本語対応手話」や「シンコム(simultaneous communication, sim-com)」という)があるという。後者は音声言語と手話を同時に使うための方法なのだが、語順が違うばかりか、後者では文法要素を単純化しており自然言語ではなくなっているという。つまり生来の聾者が使う日本手話と中途失聴者のつかうシンコムでは全く違う言葉だというのだ。そこで著者はテレビの手話通訳も2種類すべきだと主張している。違う言語だというのだから、標準語と関西弁どころではなく日本語と英語くらい違うのかもしれない(どちらも自然言語だからこのたとえは悪いが)。
あと幼児がバイリンガルになる過程では、語彙と文法が別々に発達するということが紹介されているのも興味深い(第13章)。普遍文法のパラメータが母語で一回決定されてしまうと第二言語の獲得は困難になる。英語が国際化には必要といいながら、まず幼児期には国語をしっかり教えればいいという議論が最近されているが、チョムスキーの仮説に基づけば、それでは第二言語の習得にますます時間と労力がかかることになるだろう。英語を幼児期から教えるとあたかも伝統文化が破壊されてしまうというような思考は誤っていると思う。脳には自発的な言語習得能力が備わっているのだからそれを利用しない手はないと思うのだが。
本書でもちょっと触れられていたが田中克彦という人の『言語学とは何か』という本は入門書としてはよくないと思う。同じ著者が書いたそのものずばり『チョムスキー』という本も昔から岩波書店から出され、今は現代文庫に収められているが、チョムスキーの解説本としてはいただけない。初学者が間違うといけないので、廃刊にしたほうがいいと思う。