goo blog サービス終了のお知らせ 

烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

カイアシ類・水平進化という戦略

2007-07-10 19:57:53 | 本:自然科学
 『カイアシ類・水平進化という戦略』(大塚攻著、NHKブックス)を読む。小さい書物ながら内容は非常に濃く、カイアシ類の進化、生態、形態ひいては海洋の環境問題までと満載である。で、カイアシ類とは一体何なのか? 分類学上節足動物甲殻亜門の顎脚類に分類される生物で、動物プランクトンとして最も生物量が多いものの一つだという。プランクトンというのは、遊泳能力がないかあってもごくわずかな水中浮遊生物群の総称で、大きさは数マクロメートルと微小なものばかりではなく、一メートルに及ぶものもあるという。食物連鎖の基底に存在する生物であるが、本書を手にするまで「カイアシ類」なる名前は知らなかった。著者が冒頭で、その知名度が「悲しくなるほど低い」と嘆いているのに少し同情する。同じ節足動物でも昆虫類はあんなに人気がある(書店でも立派に一角を占めている)からである。この動物群は、さまざまな環境に適応して、形態を多様化させて放散して繁栄している。このことを著者は「水平進化」といい、人間のように特殊化・高度化の方向で進化した生物と対比させている。カイアシ類は、水底で生活していたものが捕食者の多い一部水中へ敢えて進出し、適応をとげることに成功し、このおかげで現在の多様な水圏生態系ができあがったと著者は述べる。実にさまざまな種類がいるのだが、そんな中に、あのゴジラとモスラに因んだ学名をつけられた属がいるというのには笑ってしまった。ゴジリウス(Godzillius)、ゴジリオグノムス(Godzilliognomus)、プレオモスラ(Pleomothra)というのだそうだ。しかも命名者は日本人ではなく、アメリカ人研究者らしい。
 それはさておき、これらカイアシ類の仲間には寄生性のものがいて、ホタテガイや魚類に寄生するという。漁業上重要な問題である。ホタテガイに寄生するものは、ホタテエラカザリという優雅な和名をつけられているのだが、これはカイアシ類の成熟段階のうちノープリウス幼生の状態で成熟した幼形進化型であるという。この幼形化(ネオテニー)は、安定した温和な環境ながら競争が激しく、自分の生存と競争能力の高い少数の子孫を残したほうが有利な場合におこる戦略であり、寄生虫で起こりやすいというグールド説からそれを説明している。本書ではさらにカイアシ類に寄生する寄生する生物もいることが紹介されており、生存競争は実に熾烈であると思い知らされると同時に生物の多様性には感嘆させられる。
 本書で紹介されているカイアシ類の中で、特筆すべきは著者が発見した「毒牙」をもつカイアシ類である。この走査電子顕微鏡写真が掲載されているが、まるで注射針のような形態であり、その奥には、二種類の分泌腺があるらしく、それらを直前で混合して獲物に注入するらしいのである。この毒物はまだ解明されていないようなのだが、こんな小さな生物に毒蛇と同じような形態が進化していることには驚かされる。著者はマウスの眼とショウジョウバエの複眼で共通のHox遺伝子Pax-6が機能しているように、毒蛇とこのカイアシ類で共通の遺伝子が働いているのではないかという可能性を示唆しているが、実に興味深いことである。「ものを見る」、「相手を捕食する」といったひとつの機能を達成するために、進化上違う系統の生物でも類似の遺伝子を使いまわして、同じような形態をつくり上げるというのはほんとうに面白い。
 最後に著者は生物の多様性を支えているこうした小さな生き物たちの環境が人間の手で急激に変化を蒙っていることに警鐘を鳴らしている。システムの一角が全体にどのように波及するのかいまだに予知できないのに、変化させる力は手にしているというこのアンバランスさは、子孫を繁栄させるという進化の目的にとっては致命的な形質なのかもしれない。

変な学術研究1

2007-07-09 23:02:10 | 本:自然科学
 『変な学術研究1』(エドゥアール・ロネ著、高野優監訳、柴田淑子訳、早川書房刊)を読む。科学という学問と一般市民との対話の必要性が言われて久しい。しかし科学は高度化すればするほど、方法論は精緻化し、専門用語も難解になる。一般市民どころか類似分野でも研究成果の正確な論評は難しい。本書では至って真面目な学術研究ながら、専門外の人からみるとちょっと滑稽なものを集めた肩の凝らないコラム集である。例えば、鳩はピカソとモネの絵画を識別することができるかということについての研究(「ハトによるモネとピカソの絵画の鑑別」)では、具象画と抽象画をハトの脳は識別できるか、すなわち絵に描かれた対象を現実の対象と同じように識別しているかという問いについての研究であるのだが、モネとピカソという芸術家が登場することで非常に親近感がわくし、ハトを相手にこんなことに真剣に取り組んでいる科学者の姿もなんともほほえましく映る。
 私が一番面白いと感じたのは、「トーストが落下するといつでもバターを塗った面を下にして落ちる」といういわゆるマーフィの法則について、これが科学的に正しいのかという問いをたて、論文として「ヨーロッパ物理学」に報告したロバート・マシューズの研究報告(「トーストの転落-マーフィの法則と基本的定数」)である。上下対象なトーストが実際にテーブルから落下する場合は、バターを塗った面は上であること、これがほとんど水平の角度で投げ出された場合に重力と空気抵抗の影響を受け、自由落下するとして議論している。なんと”通常の”テーブルの高さでは、投げ出されたトーストはバターの面を下にして落下するというのである。ではバターの面が上になるようにするにはどうすればいいのか。これに対してはテーブルの高さが3メートル以上であればいいというのである。こういう真面目な議論からこういう解答がでてくるところが何とも面白い。
 さらにマシューズは「誤りの基本的割合と天気予報」というタイトルで、なんとあの「ネイチャー」に論文を発表しているのである。「天気予報が雨の予想をしている日には、傘を持って出かけるべきかどうか」という問いに対する理論的解答を報告している。
 本書を読んで改めて思うのは、科学で大切なことは、問いを正しく立てることと適切な方法論で答えようと取り組むことだということである。そしてそのいずれかが間違っているものは(当然ながら)同僚の科学者から評価されないが、いずれも正しい(したがって同僚からは高く評価される)のだが、なぜか門外漢からみると実に滑稽に見えるものがあるということである。

シマウマの縞 蝶の模様

2007-06-10 09:03:47 | 本:自然科学

 『シマウマの縞 蝶の模様』(ショーン・B・キャロル著、渡辺政隆・経塚淳子訳、光文社刊)を読む。エボデボことevolutuionary development biology進化発生生物学によって、生物さまざまなパーツのデザインがどのように決まるのかが明らかにされつつあることが熱く語らている本である。以前グールドの大著『個体発生と系統発生』(工作舎刊、1987年)を読んだときに、発生経路の変更による進化によって生物の形が変わることを興味深く読んだ。あれから20年発生学の進歩は実に目覚しい。何よりも興味深いのは、ショウジョウバエであれ、マウスであれ、ヒトであれからだを構築する遺伝子群(「マスター遺伝子」)を共有しているということが明らかにされたことだ。生物はある基本構造(モジュール構造)の繰り返しでからだを作り上げている。これがどのようにして形成されるのかについてショウジョウバエで研究された(体の器官の一部が別の器官で置き換わってしまうホメオティック変異)結果、ホメオティック遺伝子がクローニングされた。この遺伝子の突然変異によりある器官に分化すべき細胞群の運命がまるごと変更されてしまい、別の相同器官へと分化してしまうのだ。畸形ではあるが、脈絡のない異常ではなく別のボディープランへの変更である。しかもこうしたタイプの遺伝子が種を超えて保存されているということが実に驚くべきことだった。自転車から自動車、飛行機をつくる基本的設計プランにすべて共通の道具箱が使いまわされているというようなものだ。
 著者が解明した蝶の目玉模様については第8章で語られる。この斑点を作り出す遺伝子は、なんとショウジョウバエなど節足動物の肢をつくる遺伝子(ティスタルレス遺伝子)なのである。蝶では、この遺伝子に目玉模様の発言を調節するスイッチが余分に追加されたのである。こうした知見は、生物の構造遺伝子は同じでもそれをいつどのように使うのかという指令が重要であることを教えてくれる。料理に使う材料はほとんど一緒でも、どれをいつ使うかといったレシピが違えば全然違う料理が出来上がるようなものだ。
 この章には著者がこの大発見をしてサイエンス誌に投稿したあとちょっとしたスターになったエピソードが紹介されており面白かった。ショウジョウバエの肢の遺伝子には誰も興味を抱かないが、蝶の模様の遺伝子となると俄然世間の注目を集めるのだ。これはなにも一般の人の理解のなさを揶揄しているわけではなく、蝶はどうしてこのような不思議な模様をつくるのかと誰もが潜在的に思っているのだということを証明しているということが分かって面白いのだ。この本では生物の形態設計のことが中心であるが、形態についての遺伝子がこれほど保存されているのであれば、当然脳という器官もその例外ではないはずだ。だとすればヒトがもつ感情や認知という機能についても進化的な連続性があるのではないか。言語を操ることに関係する遺伝子は、どのような遺伝子が使いまわされて言語の遺伝子となったのか非常に興味深いところである。この分野の発展は将来認知科学などにも大きな衝撃を与えるに違いない。
 この本の最後でも触れられているが、著者はアメリカにおける創造論者の蒙昧さを嘆いている。進化論の正しさが理解されているかについて国別の指標が示されているのだが、アメリカは最下位だった(日本は東ドイツについで2位)。著者は、生物進化を必須の教養として浸透させるべきだと主張している。著者は生物学における進化という概念は、物理学における重力という概念に匹敵すると述べているが、確かにそういえる。ダーウィンが進化論を世に問うてもう150年であり、遺伝学、分子生物学の進歩がこれだけの成果を出しているのに生物の神による創造という妄想を信じている人がいるのは驚きである。


神は妄想である

2007-06-05 22:33:36 | 本:自然科学

 『神は妄想である』(リチャード・ドーキンス著、垂水雄一郎訳、早川書房刊)を読む。著者があの『利己的な遺伝子』のドーキンスであり、進化論の話がでてくるので、分類は一応自然科学のカテゴリーに入れたが、今までの著者と比べると、非常に政治的・社会的色彩が強く、サイエンスものとは言いがたい。
 自然科学者からみて、宗教は人類にとってもはや不要であると引導を渡す宣言的著作であり、世界中の無心論者よ堂々と自分の主張を通せ、あと一歩の努力だと奮起を促しているように思える。それほどドーキンスは宗教を排撃する。あたかも宗教戦争のように。
 特定の宗教を信仰していない私、宗教色の薄いこの国に育った私としては、これほどまでに欧米の自然科学環境に身をおくドーキンスが躍起になって宗教の害毒を非難するのは少し意外だったが、それほどまでに欧米の宗教原理主義者は過激で厄介な存在であるということだ。アメリカが先進欧米諸国の中でも突出した宗教国であるというのは周知の事実であるが、ドーキンスの話を読むとこれは困ったことである。実際読んでいると暗澹たる気持ちになり、いつもの自然科学書を読んでいる時の高揚感がないのである。
 読んでいて面白かったのは、第5章の宗教の起源を進化論的に考察したところで、著者によれば宗教は、進化の過程で生じた副産物である。蛾は月の光を利用して飛行するよう進化してきたが、電灯という人工物の登場であたかもその火に飛び込んで自殺するように傍から見える行動をとる。これは副産物的行動である。これと同様に宗教のために死に、人を殺すのはこの蛾の行動と同じである。「私たちの祖先の時代に自然淘汰によって選ばれた性向は、宗教そのものではなかった」のである。では宗教は何の副産物だったのか。この問いにドーキンスはこう答える。

私のもっている仮説とは、端的に言えば、子供に関するものである。人間はほかのどんな動物よりも、先行する世代の蓄積された経験によって生延びる強い傾向をもっているのであり、その経験は、子供たちの保護と幸福のために、子供に伝えられる必要がある。(中略)どんなに控え目に言っても、「大人が言うことは、疑問をもつことなく信じよ。親に従え。部族の長老に従え、とくに厳粛で威圧的な口調で言うときには」という経験則をもっている子供の脳に淘汰上の利益があるはずだ。年上の人間の言うことは疑問をもたずに信じよというのは、子供にとって一般的に有益なルールである。しかし、ガの場合と同じように、うまくいかないこともある。

 著者も使っている比喩であるが、宗教はコンピュータソフトに感染するウイルスのようなものなのだ。無防備な(ワクチンをうっていない免疫のない)幼い脳というハードディスクに感染をして、誤作動を起こさせるのだ。
 ヒトという哺乳類は、特に相手を模倣することに長けており、相手の意図を積極的に推察して自分の行動を変更することができる。あらゆるものに意図を読み取ることのできる才能があることから、ありもしないものに意図を読み取るということが非常に起こりやすい。またヒトは自分の見たいものを意識的に見るという傾向があることから、「事実よりは願望にもとづいて考える」という宗教の基本的考え方が由来しているのだろうと推察している。さらに著者は、宗教的言説の中で特定の言説が自然淘汰的に生き残り広まることがあるだろうと考えている。多くの宗教で共通している重要な特徴というものは、おそらくそうした「ミーム」なのだろう。
 しかし宗教は人を道徳的に行為させると主張されるかもしれない。これに対して著者は、ハーヴァード大学の生物学者マーク・ハウザーの研究結果を引用し、無神論者と宗教を信じている人との間で、道徳的判断において統計的有意差はないと述べている。宗教を信じていない私でも十分人並みに道徳的でありうるわけだ。これには安心した。道徳の自然的基盤についてはこれはこれで複雑な問題があるが、ヒトが自然淘汰の結果獲得したものの感じかた、考え方と密接に関連していることはまず間違いない。
 ヒトがなぜ宗教というものを必要とするのか、そして人類の歴史において宗教的思考が社会や哲学、経済、芸術にどのように影響してきたかという観点からのみ私は宗教に興味がある。しかし日本神話にしろキリスト教にしろ、不合理なところが多々ある代物を信じろといわれてもそれは無理である。
 現代社会では、信仰の自由とは、声高に他人に宗教教義を主張する自由ではなく、他人に迷惑をかけないかぎりで、鰯の頭でもなんでも信じることを許す自由なのである。


脳と功利主義

2007-04-25 21:58:44 | 本:自然科学

『Nature』の4月19日号に脳の特定の部位が道徳的判断に影響を及ぼすという記事が掲載されていた。「Damage to the prefrontal cortex increases utilitarian moral  judgements」と題された論文で腹内側前頭前皮質ventromedial prefrontal cortex (VMPC)という部位が両側性に障害された6人の被験者に対して道徳的にジレンマを惹き起こす設問を問い、それに対する判断を調べている。VPMCは、情緒的反応、特に社会的情緒反応を起こすのに必要な部位とされている。これらの被験者では、特定の質問に対して極度に功利主義的な応答をする特徴が見られたという。
 二股に分かれた線路のそれぞれに人間が5人と1人いて、列車が驀進している。転轍機でどちらに列車を向けても死亡者が出ることは避けられない状況でどちら側に転轍機を向けるのかという設問では、後の質問よりは情緒的反応が軽く、死者が出ることが避けられないのであれば5人を助ける方を選ぶ。これについてはVMPC障害者でも対照群と差がない。しかし驀進する列車を止めて5人を救うために陸橋から一人の人間を突き落とすかという状況を問う非常に冗長的に受け容れがたいジレンマでは、VMPC障害者では対照群と違い、極めて功利主義的な反応を示すという。
 しかしVMPC障害により情緒的反応が抑制され、道徳的判断が非人間的になるかというとそうばかりもいえない。もらったお金を二人で分配するゲームで、Aが100ドルもらったときに、Aは自分の判断で好きなだけその一部をBに与えるが、Bがその金額に不満で拒否すると、AもBももらえる金額はゼロになる。こうしたゲームではAは99ドルをもらい、Bに1ドルを与えるのが合理的である。Bは1ドルでももらえるならばそれを拒否すべきではない。しかしVMPC障害者では高率にそうした合理的分配には怒りを示し、申し出を拒否するという。この場合は情緒的反応がVMPC障害者では優位に立つ。
 仮説的に設定されたシナリオと、自分の利益が直接関係する設定というコンテキストが変わると反応も変わるところは興味深いところである。
 あくまでも現象論であるが、脳の局所的部位が道徳的反応に重要であるという実験結果は、倫理学の自然学的基盤を考える上で示唆に富むものであるし、道徳の情緒説もこうしたあたりに根拠を求めることができるのかもしれない。またまったく感情に左右されずに冷酷な殺人を犯すサイコパスなどは、こうした回路に障害があるのかもしれない。しかしそうだとしてもそれで道徳的議論が簡単になるわけではないのだが。


言語の脳科学

2007-04-09 16:38:53 | 本:自然科学

 『言語の脳科学』(酒井善嘉著、中公新書)を読む。昨今は脳ブームとやらで、脳は筋肉と同様で鍛えればその分よくなるのだとか・・・。それなら勉強すればするほど何ヶ国語でもしゃべれるようになるのではないか。しかし外国語の習得は年をとればとるほど難しい、というかある一定の年齢を過ぎればスポンジが水を吸い取るようにとはいかなくなる。これは脳というハードウェア自体の構造が関係しているはずだ。
 機能の上達に限界があれば、その構造的制約があると推理するのは当然だろう。しかし言葉についてはなかなかそうはいかないようで、脳は白紙の状態で生まれ、学習によっていかようにも変わるという一種の信仰がある。
 この本で紹介されるチョムスキーは、そうではなくヒトの脳というハードウェアには文法機能が生得的に備わっており、自発的に言語習得機能が解発されると考えた。もちろんそれのみで言語能力は完成するわけではなく、段階的に環境(ここでは話者がおかれた言語環境)と相互作用して完成していく。ある言語環境下におかれれば自然としゃべるようになり、しかもどんどん上達していく。この点は言葉もどきをサルが使えるということとは決定的に違う。ヒトとサルは決定的に違う。ゲノムの相同性からヒトとサルの連続性が強調されることが最近多い(特にエコロジーを強調する人たちによっては都合がいい事実だろう)。しかし両者のゲノムの差が平均で1.2%しかないからといってほとんど一緒ということにはならない。ほとんど同じことが書かれている料理のレシピでも全く違う料理ができることだってあるようなものだ。言葉をしゃべるということでサルとヒトしてもうひとつ重要な点は、その文法装置はモジュール化しており、脳のある特定の部分に局在しているということだ。
 このモジュールは言語使用のさまざまな場面でどのうように活動しているのか。ヒトにしかない機能なので最新の研究方法でも隔靴掻痒の感がある。これについては第5章や9章などに研究成果が紹介されている。
 方法論は日進月歩だから書き換えが必要となるが、重要なのは冒頭の基本的仮説であり、この研究プログラムに沿って進めば心理学や哲学のある問題は自然科学的に解明されることになるだろうということだろう。もちろんこれはそれらの問題が擬似問題だったということではなく、新たな展望のもとに見ることができるということであり喜ばしいことなのだ(ちょうど相対性理論からニュートン力学を眺めることができるように)。

 本書で特に面白かったのは、第11章の「手話への招待」というところだった。手話はジェスチャーとは異なり、文法をもつ自然言語の特徴をもつということは知っていたが、日本で一般に使用されている手話には複数あるということをはじめて教えられた。手話を母語とするネイティヴ・サイナー(native signer)が使う日本手話以外に、健聴者が教わる手話(「日本語対応手話」や「シンコム(simultaneous communication, sim-com)」という)があるという。後者は音声言語と手話を同時に使うための方法なのだが、語順が違うばかりか、後者では文法要素を単純化しており自然言語ではなくなっているという。つまり生来の聾者が使う日本手話と中途失聴者のつかうシンコムでは全く違う言葉だというのだ。そこで著者はテレビの手話通訳も2種類すべきだと主張している。違う言語だというのだから、標準語と関西弁どころではなく日本語と英語くらい違うのかもしれない(どちらも自然言語だからこのたとえは悪いが)。

 あと幼児がバイリンガルになる過程では、語彙と文法が別々に発達するということが紹介されているのも興味深い(第13章)。普遍文法のパラメータが母語で一回決定されてしまうと第二言語の獲得は困難になる。英語が国際化には必要といいながら、まず幼児期には国語をしっかり教えればいいという議論が最近されているが、チョムスキーの仮説に基づけば、それでは第二言語の習得にますます時間と労力がかかることになるだろう。英語を幼児期から教えるとあたかも伝統文化が破壊されてしまうというような思考は誤っていると思う。脳には自発的な言語習得能力が備わっているのだからそれを利用しない手はないと思うのだが。

 本書でもちょっと触れられていたが田中克彦という人の『言語学とは何か』という本は入門書としてはよくないと思う。同じ著者が書いたそのものずばり『チョムスキー』という本も昔から岩波書店から出され、今は現代文庫に収められているが、チョムスキーの解説本としてはいただけない。初学者が間違うといけないので、廃刊にしたほうがいいと思う。


人類はどのように進化したか

2007-03-22 22:08:34 | 本:自然科学

 『人類はどのように進化したか』(内田亮子著、勁草書房刊)を読む。あとがきによると大学の人文・社会科学系の教養科目の教科書・副読本として役立たせるためと書いてある。内容は、進化についての基本的なことから特にヒトについての行動や心理と進化の関わり、ヒトと霊長類との関連性、言語能力と進化、行動、認知機能の性差とその生物学的基盤など人文科学領域と関連のあることについて、非常にコンパクトに的確に説明している。200ページ余りに多くの知見が盛り込まれているように、予備知識なしで通読してすぐわかるというわけにはいかないだろう(講義を聴講しなければならないということか)。
 興味をひいたのは、第四章でヒトの生活史をとりあげたところに「少子化を考える」という節があったこと。



 「どうしたら女性がもっと産むようになるのか」という対策を見だすために、「どうして女性が子どもを産まなくなったのか」が問われている。実は、その前に、人間の女性はどのくらい子どもを産む生き物なのか、動物一般で繁殖の選択はどのようにされているのか、について再認識する必要があるだろう。
 そもそも、生命は自分の種の個体数の維持を考慮しながら繁殖してはいない。出生率が著しく減少した種は絶滅していくまでである。人間の女性が平均五人以上の子どもを産んでほぼそのままの数を育てることができたのは、産業革命後のほんの二○○年間ほどであり、人類史上、限られた期間のことである。ホモ・サピエンスという生き物は生活史の制限から多産ではないのだ。


 一歩達観したところからの冷静な意見である。自分の遺伝子を子孫に残すことよりも困難なことは避けたいというインセンティブが勝るほど現代社会の環境は生殖に対して不利な状況であることは間違いないようだ。


なぜこの方程式は解けないか?

2007-03-21 20:17:37 | 本:自然科学

 『なぜこの方程式は解けないか?』(マリオ・リヴィオ著、斉藤隆央訳)を読む。
 公式をつかって解を求めることができるは、四次方程式までで、五次方程式になるとそうした解の公式はないことをめぐる数学史を中心にして本書は展開され、群論という数学の理論が紹介される。
 五次方程式の解決前史といえるルネサンス期の数学者たちの闘争の逸話も面白いが、前半の中心は解決に直接寄与した二人の天才数学者である。その一人であるアーベルは、五次方程式には係数の四則演算と累乗根だけで表せる解の公式は存在しないことを証明した。もう一人の天才ガロアは所与の五次以上の方程式が、公式で解けるかどうかの判定はどうすればわかるかという疑問に対する解答を与えた。この問題の解決に群という全く新しい概念が導入され、数学的「対称性」という概念が重要となったという。このあたりの専門的なことはよくわからないが、レヴィ=ストロースがカリエラ族の婚姻規則を解明するために、数学者アンドレ・ヴェイユに相談し、彼が群論の知識で解決した有名なエピソードも紹介されたり、ルービックキューブの話がでてきたり話題は満載である。
 後半は物理学の話や進化論まで言及されており著者の博学さが遺憾なく発揮されている。
 自然はどうして対称的なのかという疑問にはどう答えられるのだろうか?「物理学が数学的なのは、われわれが物理学の世界をよく知っているからではなく、ほとんど知らないからである。われわれに見出せるのは、物理学の数学的特性だけなのだ」というラッセルの言葉が真実をついているとすると、自然に潜む対称性というのはわれわれの脳の構造がもたらした認識の特性なのだろうか?

 


昆虫-驚異の微小脳

2007-03-03 11:21:05 | 本:自然科学
 『昆虫-驚異の微小脳』(水波誠著、中公新書)を読む。哺乳類とは異なる進化戦略を選択し、繁栄している節足動物の神経機構について書いた本で、新書ながらかなり専門的に詳しく書かれてある。
 神経系は内分泌系とともに生物の情報伝達系の柱である。神経系の基本設計は、哺乳類も昆虫も同様だが外界の情報を自らの生存・繁殖のためにどう選択して利用するかというコンセプトがそれぞれ異なっており、哺乳類の脳は、「巨大脳」であるのに対して、昆虫は「微小脳」であるとして、後者の驚異的にハイスペックな処理回路を解説している。
 コンピューターを買うときに、小さければ処理能力も劣っているだろうとついつい考えてしまうのであるが、大切なのはそのコンピューターで何をするかなのである。生物の脳もそのとおりで、微小な脳ながらどのようなことに使うかで、我々人間よりも遥かに優れたことができる。何よりもその処理速度の速さがある。
 最初の部分で昆虫の複眼について書かれている。昆虫の複眼は、空間解像度は劣るものの、時間分解能が高い。もし私たちがこんな目を持っていたら剛速球のボールも簡単に打ち返すことができるだろうから、野球というゲームは生まれなかったかもしれないなどと想像してしまう。外骨格という身体デザインを最初に採用してしまったために体を一定以上大きくすることができなくなってしまった制約を課せられながら、ここまで精巧に「作り込める」というのはまさに驚きである。複眼についで単眼の機能について解説してあり、空間解像度を犠牲にして明暗に対する感度を上げた単眼が、昆虫の飛翔にどのように役立っているかという部分は、精巧な「飛行機械」のメカニズムを読んでいるような錯覚に陥る。
 生物の繁殖のr戦略とK戦略という二つの戦略のそれぞれ対応して装備された情報処理回路が、それぞれ微小脳と巨大脳であったという指摘は正しいと思うし、それぞれの頂点に起つ神経回路の特性の解明は、お互いの研究に益するところが大いにあると考えられる。
 K戦略をとった我々は、大きな脳を持つことになり、そこに膨大な記憶を詰め込むことが可能になった。短命な昆虫にはそんな膨大な記憶は不要だ。人間の寿命はどんどん延びているが、脳の容量には限界があるからそこに一定期間保持できる記憶も限界があるに違いない。我々は外部記憶装置というものを作り出したが、それでも老化による記憶の減退による機能の低下は避けられない。そのときどきに過不足のない適切な記憶というものがあるのだろうか。
 そして脳については大は必ずしも小を兼ねないということになると、当然我々の認識には限界があるということである。

数学する遺伝子

2007-01-31 18:48:57 | 本:自然科学

 『数学する遺伝子』(キース・デブリン著、山下篤子訳、早川書房刊)を読む。
 数学の能力は、誰もが言葉をしゃべることができるようになる能力を持っているように、誰もが生まれつきに持っているものであると著者は語る。誰もがしゃべれるようにという句の「ように」というものが単なる比喩ではなく、著者が考える人間の脳の進化と言語の構造からすれば必然的関係であることを論じるのが本書である。
 ここで数学の能力というのは、数の感覚に始まり、計数能力、アルゴリズムの能力、抽象概念を扱う能力、因果の感覚、事実や事象の因果的連鎖を構築してたどっていく能力、論理的推論能力、関係性の推論能力、空間的推論能力が含まれる。難しそうな能力に見えるが、これは誰もがもっているという。こうした他の生き物にはない高度で高コストな能力を人間が進化の過程で獲得したからには、進化的な利点があったからに違いない。そしてここが著者が重要視する点であるが、進化により獲得されたものであるならば、一部の特定の人間にしか見られない能力ではなく人間に普遍的に備わったものであるはずであるし、無理な努力をしなければ獲得できないような能力ではないはずだという点である。
 文化が違っても誰もが言葉を話せるようになり、文法構造を瞬間的に把握することができる点-普遍文法を持っていることに数学的能力の起源を求める。語彙が単に増えるだけでは言語は生まれない。基本言語ツリーというパターンを用いてある規則(統語規則)のもとで組み立てていくことができるようになって初めて言語は生まれる。この特定のパターンを認識する能力というものは、一つ一つの段階を順に論理的に追っていくこととは異なる。デカルトは後者の過程のみで心的過程をすべて理解することができるとした点で誤っていたのだと著者は説く。ヒトの心はそのような計算機のようなものではなく、さまざまなパターン(視覚的、聴覚的、言語的パターンや行動、論理などのパターン)を認識し、それに対して反応する能力こそが人間特有の能力だという。
 このパターン認識については、パースの理論(表象のアイコン、インデックス、シンボルの三様式)が援用されているが、特にその中でもシンボルを操作することがパターン認識とりわけ言語能力で重要である。シンボルを生み出すだけでなく、シンボルどうしを関係づけること、そしてその関係性自体をシンボル化できることにより人間は、眼前にない不在の対象や抽象的な存在について認識できるようになる。
 さらに脳の進化により高度化するニューラルネットワークのおかげで外的環境からの刺激に対して単純に運動系を解して出力し反応するだけでなく、ある刺激を内部の神経回路内への刺激として扱うことが可能になった。それは外的刺激なしにみずからの「想像上」の世界で外的刺激と似た状態を創り出せることを意味する。これが可能になると現在存在していない対象を取り扱うことができるようになる。すなわち目の前にない遠くのものを語り、未来のことを語り、あるいは反実的なことについて語ることが可能となるのである。こうした作業を著者は「オフライン」作業と名づけている。
 数学的思考をするのは、まさにこのオフライン作業の一種であり、言語を操ることと同じことなのであると著者は考えている。言語能力の上や彼岸に数学的能力があるのではなく、言語能力を獲得した時点で数学的能力は備わったのである。
 ではどうして古代からヒトは言語を操っていたのに、数学の登場はそれに遅れたのか。著者は物理的な世界や社会的な世界に存在するパターンや関係性を推論する能力(これは誰でもいつも行っていることで、人間の活動はほとんどはこのことに費やされている。例えば人と人との関係を推論するゴシップなどはその最たるものだと著者はいう。)を自分が創り出した抽象的世界に適用するのが幾分困難なことが一つ。そしてもう一つはその推論の過程に要求される厳密さが非常に大きいことがその原因である。確かにゴシップで人間関係を憶測するときのほうが楽だろう。
 数学者にいわせると、彼らが扱う数字や記号は、あたかも小説の中に登場してくる人物のようなものだという。彼らはπやeに特定の愛着をもっているという。また私たちが日常の物事を直感的に捕らえるように、数学者はある問題を解いたという直観を得てから論理的証明にとりかかるのだそうだ。著者は数学的知見は発明よりも発見というのがふさわしいと述べている。
 それにしても数学的思考に取り組む場合は並々ならぬ集中力が必要であるという。そのオフライン作業に没頭している場合は、逆に周囲からの刺激に対しては無関心になるので、数学者が問題を思考しているときに周りのことに無頓着になってしまって犯してしまった過ちについての逸話はたくさんある。数学の問題を解くのに没頭していたアルキメデスが侵略してきた兵士の問いを無視して殺されてしまったのも数学者の著者からすればもっともなことだという。でもこれが昂じるとオフライン作業に没頭することで外敵に襲われたりして生存する可能性が低くなるので、進化的にみるとそういう個体は淘汰されてしまうだろう。多くの生物の場合は、扁桃体など情動と密接につながる回路があるため、少々物事に没頭していても外的な変化がおきた場合にはそれに対処することができるのだ。
 数学者が数を実在のものと考える(代表的な例はピタゴラス)傾向があるのも本書を読むと納得でき、数学者という人種を身近に感じることができた。
 進化的な視点から言語能力と関連づけて数学的能力を論じた本書は、実に痛快な一冊だ。原題もThe Math Geneであるが、本書を読むと遺伝子だけで決定づけられることでもないので、「数学する脳」というほうが適当かと感じた。