fáint・hèart

[ フェイントハート ]  
【feint h:(r)t】
弱虫

解説への個人的な補足。

2006-10-07 10:08:27 | Weblog
――― 『吾輩は猫である』は日露戦争の最中に書かれた。旅順の戦いで日本軍は想像を絶する多数の戦死者を出した。与謝野晶子はこの戦いの最中に「君死にたまうことなかれ」を書いた(実に 終戦後まで発行禁止であったが)。漱石も「趣味の遺伝」に旅順で戦死した浩さんのことを書き、多数の死者とその母たちに対する深い思いを表現した。「敵を殺せ」の声は日本中に充満した。それは「敵を殺すために日本人よ死ね」と言う声だった。漱石の心は暗かった。人間が人間を殺す。それも、科学の先端技術を使って出来るだけ大量に殺し合う。なぜ人間は戦争をするのか。それは避けられないのか。その思いは人間に対するはげしい否定の感情となって噴出した。
 逆上する主人を「猫」は批評し、わらっている。逆上は人間の精神を硬直させる。この精神の硬直を「猫」はわらったのである。しかし、逆上は主人だけのことではなかった。日露戦争下の日本は逆上と狂気に満ちていた。そして、漱石自身が逆上と狂気に駆り立てられていたのある。この逆上と狂気からの解放として『吾輩は猫である』は書かれ、作家夏目漱石が誕生した。
国民を戦争に駆り立て 戦場で死なせるためには、国民を逆上と狂気に駆り立てなければならない。逆上の根柢には偏見がある。あらゆるメディアが動員され(潜在的恐怖と)民族的偏見があおりたてられた。日本は世界に冠たる文明国だ。正義、人道、武勇の国だ(神の国であるとか)。そして、ロシアは野蛮で暴虐な文明の敵なのである。このロシアを撃ち懲らし、祖国の栄誉を輝かせ(美しい国なぞと)というのである。当時、このような詩や文章が氾濫した。
 戦争の時代には悲劇が歓迎され(福岡の飲酒追突事故の悲劇 ⇒ 日本中が逆上、狂気とまではいかないまでも またいつものようにヒス・パニック。本当の悲劇とは こんなことを知らされないこと?)、喜劇は排撃される。滑稽の精神は戦争に対して敵対的である。元来、滑稽の精神は江戸時代には民衆文学の顕著な特質だったが、明治になるとその精神は見うしなわれ、軽蔑されるようになった(今は存分に利用されてる。むしろ 現実から目を逸らそうとする)。それは明治という時代が戦争の時代であり、悲劇的な時代だったからかも知れない。しかし、漱石は英国人のみならず日本人をも支配する偏見をわらい、滑稽の精神をこの戦争の時代に回復し、日本に類のない文学の世界を開いたのであった。
『吾輩は猫である』の漱石は、他をわらっただけではない。逆上する主人をわらった。それは自己を特別な人間に仕立て上げたがる、近代の自我主義に対抗するものであった。そして、この滑稽の精神は晩年の『道草』『明暗』にまで及んでいる。
 いま、ふたたび戦争の時代を迎えて、正義人道を旗印に、「文明」と「民主主義」をほこる超大国が、「野蛮」で「蒙昧」なアラブや東洋の弱小国に居丈高になって吠えかかり、アフガンやイラクには想像を絶する大量の精密誘導弾を使用するなど、先端的な科学技術を駆使して、大量の非戦闘人民を殺戮しているが、しかも、攻めれば攻めるほど、窮地に追いこまれている。
 アメリカの無法ぶり(日本の従属ぶり)を見ていると、そのアジアやアラブに対する無知と偏見と蔑視のはげしさに驚く。かつては、このような無法がまかり通ったのであろう。それが帝国主義の時代だった。しかし、いまはもうそういう時代は終ろうとしているのだ。それなのに 我が国の時代遅れの連中が、その超大国の尻尾について 戦争にむかって盲進し、破滅の道を歩こうとしている。戦争を主張し、愛国主義をあおりたてようとする指導者たちは、みな悲壮な顔をしているが、これほど滑稽なことはない(神妙な顔つきで 靖国神社に参拝してみせる自我自賛な人々)。どうして、こんなことになったのか。多分、「近代の終焉」というものがいま現実に進行しているのだろう。
 漱石の文学は、いま、新しい意味を持ってよみがえって来ていると思う。

漱石を読む会10年記念誌 2004年12月26日

http://homepage2.nifty.com/tizu/souseki/soumokuji.htm
 
  [ #6699ff :個人的補足 ]

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