http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20060829
エアコンがほどよく効いた快適な室内で、ヌクヌクと たぶん太り過ぎであろう その図体をひんやりしたフローリングの床に デレ~ッと腹ばいになっているアメリカン ショートヘアを猫っ可愛がりしているあなた(おれ?)。そうです あなたです。あなたには坂東眞砂子をどうのこうのいうことはできません。
猫を飼うには 雄であれば去勢手術、雌であれば避妊手術が もはや当たり前のようでもある。
避妊手術はお済みでしょうか?25000円ほどかかりますが・・・。それは結構でございます。伝染病の予防注射も年に一度はお奨めいたしますが・・15000円程度だと思います・・・。大変結構でございます。今回は レントゲンも撮りましたので、合計で30000円になります。エ~と それでですね この子はちょっと太り気味なのでこちらのドライフードになりますネ。たぶん 平気だと思うのですが、念の為 2週間後 もう一度検診に来てみてくださ~い。はい、じゃあ 予約しておきますね。フフ・・○○ちゃんバイバイ またね~。
てな具合では 猫も簡単には死ねまい。命をもてあそんでいるのはむしろこちらの方だろうなんて思いたくもなる。もう 人のように 心臓や腎臓の移植なども行われているのだろうか。クローン猫は一匹500万円ほどかかるそうだが。
きっこ氏も何をムキになっているのかは知らないが、延々と 特定の個人口撃を続けるのは あまりみっともいいものじゃないのにな~。刑事被告の堀江も昔同じようなことをやってた、などと こじつけてみたり、何かのアンケートを引き合いに出して 自論と反対の意見に対してミソクソにこき下ろしておいでになるのも納得がいかん。
ひょっとして 日本の常識がアフリカでも通用すると思ってるのだろうか(坂東眞砂子はタヒチだが・・)。少なくとも 日本の常識が世界で通用しない なんていうことは、今まで 嫌というほど思い知らされて来たのじゃないか?
アメリカ議会公聴会で 米ブリジストンの日本人支社長が「まず初めに亡くなった方や怪我をした方に ご迷惑をかけたことを心からお詫び申し上げます」なんてことやると、一方の当事者であるフォードをはじめ、アメリカ人にとっては それは罪を認めたことになるなんてことは朝飯前のことなのである。
あるいは 難病の赤ちゃんの臓器を5つも替えるのに 2億円ものお金が集まったという美談めいた話もあったが、アジアやアフリカの難民の子供たちはそんなことさえ 知る由もないのである。
「生命は尊い」などということは、学会信者に言われるまでもなく分かっている。だからといって「鯨も哺乳類だからそれを殺している日本人は人間じゃない」みたいなことまで言われたくない とも、また一方では思っている。可愛いからとか頭がいいからとか言って 猫や犬、時たま イルカなどまで擬人化して可愛がるのはほんとに自然なことなのか?
ヌードラットにヌードマウス、最近ではあまり聞かないがモルモットなどというのも、医学の進歩のためならやむを得ないという論理なのだろう。「子供は可愛い」という、まるで なんというか天使の生まれ変わりのようにも扱うことが、果たして 正しいと断言できるのか。
人間が特別偉いわけじゃない としても、だからと言って それを不自然なほど動物の領域にまで拡大解釈していくのはどうなのだろうか。関係はないが 神戸の少年Aは猫を虐待していて、その挙句 人間をあんなひどいやり方で殺すことになった という説に、微塵ほどの無理もないのか。
きっこ氏がどれだけのお人か知る由もないが、>残酷な殺戮行為――や >全身が凍りつくほど残酷な行為―― などという表現は、あまた 興奮のし過ぎとしか思いようがない。さながら ヒステリックな女性特有の症状にも見えてしまうのだが、いかがお過ごしなんでしょうか。
自分の意見に賛同するいくつかのコメントを、さも自分の意見の正しさを証明するかのように掲載しているのも わざとらしい。図らずもその中に 強いものや強い意見に自分から融合してしまう日本人の根っからの性分が垣間見えるのも やや見苦しい。
タヒチがフランス領だからなんだというのだ。フランスこそ多種多様の意見が混在する個人主義の国だ(のはずだが)。
灰色決着などと揶揄されることもあるが、正しいと正しくないとの間には色んな意見が混在するのだと思う。自分が白であることを証明するために、ここまで相手を 徹底的に黒であると決めつける必要もないだろう。
自分が子供を生んだことがないにもかかわらず(?失礼)、>生まれたばかりの子猫を母親から奪い取り―― なんて言うのも自由自在だ。屁理屈だとは思うが、時たま子猫を食い殺す母猫がいても、それはストレスだからだ と一刀両断にするのであろうか。母性本能を崇高なものだと決めつけてはおいでじゃありませんか。
昔、家のガレージの奥に重ねておいた材木の中に、野良猫が子猫を5~6匹生み落としたことがあった。親猫が 餌を与えたり、様子を見に来ている様子は全然なかった。そんなところで干からびて死なれても困る ということで、親猫がいないのを見計らって恐る恐る手探りで取り出したことがあった(けっこう気持が悪い)。まだ生まれて数日しか経っていない子猫は、キモ可愛いかった とだけは言っていこう。それからすぐに 町外れの獣医のところへ持っていったのは言うまでもない。もし 親猫が子猫を見捨てたのでなくとも、それならそれで ガレージを根城にして居つかれても困るし、自分では面倒も 処分も し切れないから という人間の大儀名分があった。が、子猫を気にかけながら 何かの理由で来られなかったのだとしたら、その母猫にとってそれは「子猫殺し」にも等しい仕打ちだったには違いない、と今頃思っている。
何やら 小洒落たスポーツカーに乗ってお洒落な業界で生息している都会人のきっこ氏にはそんな経験はあるのだろうか。それとも 猫の死骸をその腕に抱いてあげたことがあるとでも言うのか。可愛そうなのに 気持が悪いと感じる自分がやり切れないのだ。
死を忌むべきものとするのを 分からないでもない。でも「生きるって素晴らしい」だけでもないはずなのだ。
「子猫殺し」が人間のエゴだとしても、それを非難するのも人間のエゴ丸出しでは 説得力も何もあったものじゃない。
タヒチは都会的文明からかけ離れた、いや 汚染されてない場所であることは 誰も疑う余地はないだろう(一部開発済みでも)。都会に住む人の良識がそっくりそのまま通用するとは思わないほうが良い。
生と死が 天と地ほどかけ離れたところにある我々と違って、隣り合わせというか それがより近くにあるのだろうと思いたい。