不定形な文字が空を這う路地裏

マリー






膿んだ傷のある腕を
長袖の服で隠して
調子の外れたハミングは
いつでも古いシャンソンをたどって
彼女はマリーと呼ばれていた
マリアンヌみたいなコートを
いつも着ているせいだった
「法廷」という名の
街の外れの
薄汚れたビルの地下にある
バーに行けばだいたい会えた
雨の日以外は
そこに行けば飲んでいた
パティ・スミスの
静かな曲だけをリクエストして
時間をかけて何杯かを飲んでいた
夕暮れ時から
日付が変わるあたりまで
彼女はその店の
影みたいにそこに居た
飲むカネと元気がある
週末は
俺はその店に出向き
彼女と並んで飲んだ
パティ・スミスの
静かな曲だけを
何度も聞きながら
どんなきっかけで
そうなったのか
いまでは
思い出せない



ショートボブの
栗色の髪の毛は荒く
憤りが具現化したように
あちこちが跳ねていた
「なおらないから」と
いつも言い訳していたけど
なおそうと思ったことがあったのかすら
俺には
疑問だった
睫毛は長く
まるでいつでも目の中を隠そうとしてるみたいだった
鼻は高く
突き刺すようで
切り傷のようなくちびるで
針金を引っ掛けたみたいに右側だけで笑う癖があった
首はいつも何かで隠れていた
年に一度か二度
ひどく酔っ払う日があって
ストゥールから落ちないように肩を抱えていると
洒落た蝋燭みたいな匂いがした
それは彼女のすべてから漂っていた



自分がどこかの店の軒先に捨てられた日のことを
覚えていると言って何度か話した
今の自分をいくぶん太らせたような若い女が
どうなろうともかまわないという調子で
自分を入れた籠をぽいと放り投げて
猫の死体を見るみたいな一瞥をくれて去って行ったって
すごく寒い日だったって
雨か雪か判らないようなものが
肺病患者の咳みたいにぽつぽつと降っていたって
施設のひとたちはわたしがどうしてそこに来たのか話してはくれなかったんだけど
あれは多分本当のことだと思う
だって一度も否定はされなかったもの
みんな困ったように笑うばかりで…
そう言って舐めるように飲んでは
くちびるの右端で笑った
前時代的なラブ・ホテルの照明みたいな
「法廷」の明かりの中で見るそんな笑いは
純粋過ぎて難儀している魔女のように
俺には
見えたんだ



彼女がどこから来て
どこへ帰って行くのか
誰にも
判らなかった
というより
彼女について判っていることはなにもなかった
ただ
長いこと
「法廷」で飲んでいる
誰に聞いてもそれ以上のことは判らなかった
そして誰もそれ以上知りたいとは思わなかった
彼女は
そんな女だった



あれはいつ頃だったろう
そんなふうにして数年が
過ぎたころだったように思う
小雨が降ったり止んだりする
寒くて
暗い夜だった
彼女はいつもより疲れていて
いつもより悪い笑い方をした
自嘲的になったかと思えば
なにもかもを保ったまま気絶するみたいに
突然止まってしまったりした
そしていつもより早く飲んだ
それまでのどの日とも違っていた
レコードが何に変わっても気にもとめなかった
そして糸が切れるみたいにカウンターに突っ伏した
気持ちが悪いから外へ連れて行って
俺は彼女を背負って
「法廷」の外へ連れ出した
潰れたカフェの裏手の
行き止まりになっている路地の陰で
彼女の中に巣食ってるものをなにもかも吐かせた
しばらくの間痙攣して
それから彼女は
まるでそんなことはひとつもなかったみたいに
海に連れてけと言いだした
俺はタクシーを拾って
海に行ってくれと行った
漫画のチンピラみたいな運転手が
にやにや笑いながら判りましたと言った



タクシーが海に着き
俺は金を払った
彼女はふらふらと波打際を目指した
俺は慌ててあとを追った
彼女は波打際で
最後の嘔吐をした



海を見たのは初めてだと
寄り添って座りながら彼女は言った
海なんてものが
ほんとにあるとは思わなかったと



ねえ、下手なロックンロールがよく歌うじゃない、「あたりはくらやみで何も見えない」って…
わたしはあれが大嫌いなのよ、くらやみで何も見えない、なんて、どうしてそんなことが言えるんだろう?何も見えてなくなんかない、くらやみがはっきり見えているのに…



そうして彼女は
泣声を上げ始めた
はじめは子供のように
それから悲鳴のように
それから小雨が降り始めた
俺は自分のジャケットを彼女にかけて
木工細工みたいな感触の肩を抱いてやった
彼女は俺のデニムの襟を命綱のように掴んで
悲鳴のように長く泣き続けた
俺は黙って彼女の肩を抱いて
彼女が泣きやむまで夜の海を見ていた
波は時々爪先まで届いて
その温度はしばらく忘れられなかった



最後に彼女はひどくむせ込んで
それから照れたように笑った
初めて見るまともな笑い方だった
それから立ち上がり身体中の砂をはらい
俺を急かして帰ろうと言った
帰りのタクシーを捕まえる金はなかったので
明方の道路を二人でのんびりと歩いて帰った
ねえ、遠足みたいねと彼女は言った
明るい光のもとで見る彼女は
驚くほどに子供みたいだった
「法廷」に戻ったころには俺たちはくたくたで
当然店はクローズした後で
そこで俺たちはおやすみと言って別れた



俺はそれから風邪をひいて
十日ばかり寝込んだ
起き上ったころには
季節が少し変わっていた
俺は着替えて散歩に出た
堤防沿いを歩いていると
そのうち川はふたつに分かれた
小さな支流の方を選んで
半時間ばかり歩くと
景色が田舎めいて
閉じられた水門に辿りついた
そのあたりには
水はほとんどなかった
ひと休みしようと腰を下ろそうとして
背の高い雑草の中に
見覚えのあるコートが目にとまった



水門に辿りつこうとして
力尽きたみたいに
彼女はうつ伏せていて
はじめは
眠っているのだと思ったが
どうもそうではなかった
微かに見える指の先や
頬は
マネキンのように白くて
確かめるまでもなかった



あまい
蝋燭みたいな匂いがした



俺は
今来たばかりの道を走り
バス停の近くの公衆電話で
警察を呼んだ
彼らはすぐにやってきた
散歩をしていて見つけた、と俺は言った
そうですか、と
小柄だが強そうな
中年の刑事は言った
知ってる方ですか?

彼は聞いた
「法廷」、というバーで…

言おうとして
俺は
なぜか
何も言えなくなった
俺は
黙って首を横に振った
刑事は
そうですか

言った



思ったよりも長い時間
俺はそこに居て
刑事の質問にあれこれと答えた
同じ話を何度か繰り返した後
連絡先を聞かれて解放された



彼女は
翌日の新聞の
五行の記事になった
でも
そこに書かれていることは
「法廷」で飲んでる連中には
みんな
判ってることだった
「身元不明の女」
すこし違うのは
その下に
「死体」と
つくことくらいで



俺は時々
海に出向き
古いシャンソンや
パティ・スミスの
レコードを
何枚も
フリスビーのように投げる
いつか
「もういらない」と
彼女が
言わないかと思って
衝動的にそうしてしまう
あの時と同じ雨はなく
あの時と同じ明方はなく
ただ悲鳴のような泣声と
子供のような微笑みが
脳裏を
よぎるばかりで



膿んだ傷のある腕を
長袖の服で隠して
調子の外れたハミングは
いつでも古いシャンソンをたどって
彼女はマリーと呼ばれていた
マリアンヌみたいなコートを
いつも着ているせいだった



そうして彼女は
本当に影になった
陽の当らない地下室の
「法廷」という名のバーの
カウンターの奥から二番目
薄暗いライトを
なおかつ避けたような
その場所で






洒落た蝋燭みたいな影に

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