不定形な文字が空を這う路地裏

鳥たちはレクイエムを知らない
























白木の、長く伸びた廊下、そこに初夏の日差しを四等分して落としている窓は古い木枠作りで、ねじ込み式の真鍮の鍵でしっかりと止められていた、その光景は、ノスタルジーとはまるで違う種類の、記憶の生き方とでも呼べそうな現実だった、教室への扉はすべて施錠されていて、中へ入ることは出来なかった、もしも、入ることが出来たとしても、後方に積み上げられた木製の机と椅子のモニュメントがあるだけだけれど…わたしの、ソールが少し厚めのスニーカーは、そんな光景の中を静かに踏み荒らしていた、役目を終えてからもう三十年は経つ建物なのに、歩くことによる軋みはまったくなかった、ごく最近まで、管理されていたのかもしれない、いまは放置されているということだったが、まだそんなに知られていないのか、破損などはひとつもなかった、落書きもだ―わたしは、ひとつひとつの扉を確かめ、開けられるものは開けて中を覗き込み、足を踏み入れた、残留物はほとんどなかった、鉛筆が床に転がっていたりとか、そんなものだった、HB、と金文字で記された緑色のそれは、なぜかそこで見たものの中で一番、わたしの心の奥をキリキリと刺した、大きな建物ではなかった、あと半時間もあれば、二階も見終えてしまうだろう、そう思いながら、二階への階段を上った、踊り場の窓から、校庭に止めたわたしの軽四が見えた。仕事の途中なのだ、一瞬だけそんなことを考えたけれど、すぐに忘れた、どうせ、もうずぐ辞める仕事なのだ、少しくらいサボったところで、誰になにを言われることもないだろう、いままで糞真面目にやってきたのだ、どんな努力も返ってこないそんなところなのに…二階に上がると、少し空気が冷えた気がした、山の中だからだろうか?それにしてもこの温度差は不自然だった、なにか、そういった効果を得るための特殊な構造の建物なのだろうか?でもなんのために?一瞬、引き返そうかと思った、実際、そうするところだった、でも、わたしをそこに留まらせたのは、そして先へと進ませたのは、廊下の奥から聞こえてくる静かな歌声だった、メロディには聞き覚えがあったが、日本語の歌詞ではなかった、英語でもなかった、どこの言葉だろう?「夢路より」という歌だった、廊下のいちばん奥、第二音楽室と書かれた部屋からそれは聞こえていた、わたしは急いではいけない気がして、一階でしていたのと同じように、ひとつひとつの部屋を確認しながらその部屋に向かって行った、きっとあの部屋の扉は開くだろう、そんな気がした、その、おそらくは女の子であろう歌声の主は、いったいどこからここに来たのか、どうやって来たのか、どうやって帰るのだろうかと、気にすれば気にするべき点はいくつもあったが、そのときわたしはそんなことをまったく気にしたくなかった、ただ不思議と、吸い寄せられるようにその場所へと向かっていただけだった、その歌声から、わたしは凄く綺麗なものを想像していた気がする、でもその部屋でわたしが目にしたのは、床中に散らばった鳩の死骸の羽を、ひとつずつ丁寧に毟っている少女の姿だった、わたしが驚いて立ちすくむと、少女は歌をやめてこちらを見た、西洋の絵本から出て来たみたいな少女だった、栗色の、肩よりも長いソバージュの髪、幼さをあまり感じさせない、鋭角な線の輪郭、大きな瞳は髪と同じ色だった、バイク事故で死んだ人形作家の作品のような少女だった、白く、フリルのついたふわふわのワンピースを着ていたことも、そんなイメージの原因には違いなかっただろう、少女は少しの間わたしを眺めて、それからにっこりと笑った、下唇が厚めの、小さな口だった、口紅をつけているかのような薄いピンク色だった、それだけに、その周辺にあるものがさらにおぞましく思えた、「こんにちは」と少女は言った、わたしも同じことを言った、上手く声が出なかった、ここでなにをしているのか、とやっとの思いで口にした、「きっと、空を飛ぶことが嫌いなの」と、少女は言った、わたしはその意味を上手くつかむことが出来なかった、いいのよ、しかたのないことなのよ、という風に少女は笑って見せた、それはやはり子供のする表情ではなかった、しいて言うなら、二百年は生きてきた魔女がするような微笑みだった、この鳥は、と少女は話を続けた、「わたしが殺したものではないの」こちらの窓を開けておくと、と、少女は外に面した窓を指さした「そこから突っ込んできて、廊下側の窓に激突するの」少女の指に従って廊下側の窓を見ると、廊下側のひとつの窓だけがひどく汚れていた、「そうしてここに転がるの、だからわたしは羽を取ってあげるのよ」やっぱりわからない、とわたしは首を振った「死んだ鳩の羽を毟ることがなんになるの?」少女は不意に真顔になった、本気で言っているのかしら、そう訝ってでもいるかのようにわたしの顔をまじまじと眺めた、「この子たちは後悔するのよ、どうして自分たちは空を飛ぶことが出来たのだろう、って」「だからわたしは羽を毟ってこの子たちに見せてあげるの、ほらね、もう飛ぶことは出来ないわ、って」それは筋が通っているようにも思えたし、通っていないようにも思えた、わたしはなにか絶望的な気分になって、話を変えることにした、「あなたはどこの子なの?このへんの子?」ちがうわ、と少女は言った、「ぜんぶ、ちがうの」そう言って少女は、スカートに溜めていた羽をすべて中空へと放り投げた、つむじ風に舞うように羽はうろうろとして、ゆっくりと床に落ちた―わたしは顔を上げた、そこに少女の姿はもう無かった、早い午後だったはずの窓の外には、インクで塗り潰したかのような闇で覆い尽くされていた。

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