少し呆けた調子で右腕を無造作に投げ出しながら、呪文のようにお前はなにかを呟いていた
それは俺との言葉を避けるための防壁のようなもので、お前は確かにそうするだけの材料を心の中に持っていた、俺はラムを数滴落とした珈琲を飲みながらカーテンの透間、夜の窓の反射越しに
ずっとそうしているお前の事を見ていた、言葉の内容を知ることは無い、どうせ俺が聞くための言葉では無い、植物のようにソファーから垂れ下がったお前の指先を、顕微鏡を覗きこむときのような気持ちでずっと見ていた
俺の脳裏には今朝の夢が映る…俺は陰鬱な海沿いの風景の中に居て、時代錯誤な洋館の小さなホールでピアノを弾く見知らぬ少女と堤防を飛び越えて庭を濡らす大荒れの波を見ていた、聞こえるものは波の音だけだった、ピアノの旋律などかけらもなかった
俺とその少女は黙っていても構わない間柄らしく、俺は彼女のそばでうろうろと…自分がどうしてそこにいるのか知ろうとしてるみたいにうろうろとしていた、その夢がまるでいまこのときを打破するなにかを持っているみたいに
キッチンで立ち尽くした俺の脳裏にぼやぼやと浮かんできた、もちろんそいつはなにかの役に立ったりする事は無かった、俺は窓から視線をそらして珈琲を飲み干した、そうしなければ一生飲み干せ無いような気がした、粉を入れすぎたのか無駄な苦味が残って…イラついたけど静かにカップを洗った
苦すぎるとか甘すぎるとか―そんな事柄ならまだ何とかなるとか考えながら
お前はいくつもの迷宮を持っている、お前がそこに入り込むと俺は手を取ることさえ出来ない
望んでいるものや騒がせているもののことがきっとお前自身にも上手く把握は出来ないのだろう…もしかしたらこうしてカップを洗っている俺以上にお前には打つべき手が無いのかもしれない、防壁を解いてくれ、防壁を解いてくれよ
静かに混迷するこの俺の心が判らないのか
お前は俺を遮断する、そのわけは俺がここに居るから
意味を成さない言語を繰り返し吐いて、拒絶のオーラを全身に張り巡らせる、それはきっとお前の心から放出されるもの以外は何も認めることは無いのだ、お前は独りになりたがる、迷い込んだら絶対に出て来れ無いような迷宮に向かって、自殺志願者のように迷い無い歩みを見せる…静かに混迷しているこの俺の心が聞こえないのか?お前を壊してしまうようなことはしたくない、それには認識が必要なんだ、お前のライブラリの中に何度も持ち込まれたはずの俺という個体の認識が
まるで異国に流れ着いた流木のようだ、脆い枝を控えめに投げ出して―生やしたまま引き裂かれた根の事をばかり考えている―絶対に戻らないものを見つめるとき誰もがあんな目つきをするのだろう、俺はカップを洗い終わってしまって…カップを洗い終わってしまってお前の正面のひとり掛けのソファーに戻った、お前は俺がそこを離れたときと同じ姿勢のままで居たが
舌を転がすような言語の羅列はいつの間にか止めていた、俺が腰を下ろした音に食事中の犬のように反応した、きっとたぶんそうしてはいけなかったのだが
俺は身を乗り出してお前の顔を覗きこんだ、防壁の存在を驚くほど簡単に無視してしまったのだ…それは言ってみれば思いがそこにあるからこその強行手段だった
お前はクロスを突きつけられた吸血鬼のような目をして―しかし静かなままで、両の手を差し出して俺の顔を掴んだ、そして、ゆっくりと―ゆっくりと爪を立てて―俺の血流とお前の白い指先がスピーカーコードのように交錯して、肘のところで行き先に迷った、その終点をしばらく眺めた後で、お前は立ち上がり…バスルームへと消えた、俺は頬を押さえたままそれからどうしていたのだろう、気がつくと夜は明け始めていて―お前はバスルームから戻ってはいなかった
俺はぼんやりとお前の姿を求めて―バスルームへと向かったがそこにもお前の姿はなかった、ただ誰かがあてもなく浸かっていたみたいに浴槽は湯気を立ち上らせていた、その穏やかな軌跡にしだいに俺の目が醒めるころ―低くくぐもった衝突音が表通りの方から聞こえた
どこか洒落た会社にでも勤めているらしい清潔なベージュのスーツを着た女が、ミニクーパーの前で呆然と立っていた、クーパーの前には衝撃で存在を分解されたお前の姿があった、生きているのか死んでいるのか判らなかった―ずいぶん前からそんな境界線に居たことは知っていたけれど
「急に飛び出してきて…」恐怖に震えながら女はようやく口を開いた、携帯を持っているかと俺は聞いた、女は頷いてそれを差し出した、俺は女に確認しながら若い声の警官に事故の説明をした「すぐに向かいます」彼はそう言った、でも、きっとそんなにすぐには来れるはずがなかった、女に礼を言って携帯を返した、彼女の震えはまだ止まっていなかった「このひとは、あなたの…?」俺は何故だかとても自然に微笑みながら頷いた、それが彼女にどんな風に見えたのかは判らないが「気にする事は無いよ」
急に飛び出してきたんだろう、と俺は尋ねた、女は萎縮したように頷いた、でも、でも…と何かを話そうとするものの、どうしてもその先を続ける事は出来なかった「仕事場に電話をしておいたほうがいい」俺はそう促した「きっと急ぎの用があったんだろう?」責められている、と思わせないように気を遣いながらそう言った、女は頷くと俺に背を向けて短い電話をした、それが終るころ、お前の白い肌は次第に青く変わっていった
「残念ですが…」思ったよりも早く駆けつけた警官はお前を一瞥するなりそう言った、少しも残念ではなかった、だってその事は俺にももう充分判っていたから
女が悲鳴を上げたいのに上げられないといった表情で俺を見つめたわたし、わたし…と、わなわなと震えながら言った「気にしなくていい」と俺はじっと彼女を見つめてもう一度言った
「おかしくなっていたんだ」
太陽が完全に昇った、引っ掻き傷のような薄い雲の前を
風を受けながら名前の判らない大きな鳥が何度か楕円を描いた
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