hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

戦前の在外領土を描いた切手

2017-01-21 05:00:32 | 日記

『切手シリーズ』その64。日本切手に描かれた在外地域の風景を取り上げてみる。その前に1930年5月に発行された第二回国勢調査記念の切手を冒頭に貼ったが、当時は台湾・朝鮮・南樺太・そして日本固有の領土であった千島列島は日本の領土であった。戦前の日本の切手の何枚かにはこれらの風景が残されている。

最初は1923年4月の皇太子台湾訪問記念の記念切手に新高山(玉山・ユーシャン)に描かれたものである。実は新高山は富士山より高い標高3952mあり、当時の日本の最高峰であった。

実は第一次国立公園シリーズでも1941年3月に大屯・新高阿里山国立公園(現、陽明山国家公園、玉山国家公園、阿里山国家風景區)と次高タロコ国立公園(現、太魯閣国家公園・雪覇国家公園)の切手が計8枚発行されている。


いずれも1色グラビア印刷で高い技術の素晴らしい切手である。

他にも台湾の風景が切手となっているのが、第1次昭和切手(色違い、額面変更で第2次昭和切手でも使われた)として6銭切手の図案として台湾最南端にあるオーロワンピ(ガランビ・鵝鑾鼻)灯台が描かれている。日本統治時代は帝国最南端の灯台として台湾八景の一つに数えられていた。

そしてもう一つが北朝鮮の名勝地『金剛山(クムガンサン)』である。これも第1次昭和切手の7銭切手として1939年10月に発行されている。
しかし、風景が用いられたのは第1次昭和切手(一部は第2次昭和切手)までであり、図案として『大東亜共栄圏』『少年航空兵』『箱崎宮の敵国降伏の勅額』、さらに終戦の年に発行された第3次昭和切手には『旭日と飛燕という戦闘機』まで描かれている。

しかし、なぜか北方領土を描いた切手は発行されていない。ただ、1987年に発行された登記制度100年の記念切手にはちゃんと千島列島は描かれている。

日乃屋カレー〜九段下ランチグルメ

2017-01-20 05:00:48 | グルメ

最近は焼きスパにラーメンといったジャンクフードばかり食べているが、折角、神田のカレーの名店を見つけたらやはり中々見逃すことは難しい。今回お邪魔したのは本店ではなく九段下駅からほど近い『日乃屋』九段下店というカレー専門店である。本店は湯島にあるのだが、この店は昨年5月に出来たばかり。

日乃屋は第三回神田カレーグランプリで優勝、その後も優勝し続け、ついに殿堂入りしたカレーである。

店に入ると券売機、ここで悩むのは『七分目』『ふつう』の2つの量。食べ過ぎを気にしながらもふつうのメンチカツカレー(840円)を購入、カウンター席で待つ。

この店のカレーはいわゆる日本のカレーで『はじまり甘く、後より辛い』とある。券を渡すと1分くらいでいわゆる日本の小麦粉でとろみを出した黄色いカレーが登場。一口食べると確かに甘い、しかし、じんわり辛くなり、カレーの旨味が出てくる。ソースがないのも味に自信がある証拠。

ただ、すぐ出てくるだけあり、メンチカツは揚げたてではないのが残念。味はさすがにうまく、飽きは来ないまま完食。量は7分目でも十分である。

本格インドカレーやスリランカカレーもいいが、この絵に描いたような日本のカレーも楽しい。
また、らっきょうと福神漬が食べ放題というのも嬉しい。ご馳走様でした。


日乃屋カレー 九段下
千代田区九段北1ー3ー5
0332300033

明大前駅(1)

2017-01-19 05:00:57 | 日記

『井の頭線気まぐれ各駅停車』その5。この企画も大変久しぶり、高井戸、三鷹台に続き、今回は明大前駅を降りてぐるりと歩き回る。

まずは明大前駅の沿革から書いてみる。ご存知の通り、明大前は京王線と井の頭線が交差しているが、先に駅を作ったのは1913年京王線の前身である京王電気軌道で当初は『火薬庫前駅』という名前であった。(その後すぐに松原駅に名称は変更された。)

一方、井の頭線の前身である帝都電鉄は1933年に西松原駅として開業、当初は駅が300mほど下高井戸駅方向に離れていた。そこに明治大学予科が移転してきて京王線の方が駅を動かして井の頭線との乗り換え駅となったのが1935年である。

明大前駅は入口が一つ、出ると目の前が明大通り、これを右に歩いて行く。向こうからは明治大学の学生がやってくるので大学の方向はわかりやすい。

すぐに甲州街道、上を首都高速4号線が通っているが、その中間に長い歩道橋があり、渡りきると明治大学和泉校舎入口が出てくる。今は新しい立派な校舎に立て代わり、かつての男だらけのイメージを払拭、女子大生も多い。これも北川景子の影響かな。


校舎には入らず、甲州街道を八王子方向に歩き出すとかつて江戸時代に塩樟脳蔵が存在したことを示す案内板が出てくる。それによると23000平米の規模があったという。

その先には築地本願寺和田堀廟所が現れる。

関東大震災で築地本願寺が焼失、廟所だけはこの地が陸軍から払い下げられ、1930年に作られた。一旦、1945年の空襲で焼失したが、1953年には建物も再興されている。立派な公園式墓地で樋口一葉、海音寺潮五郎、古賀政男、水谷八重子など著名人の墓所もある。


中に入るとインド風の建物、周りには広い墓地、そして奥には都立永福学園がある。(以下次回)

ロメスパ バルボア〜虎ノ門ランチグルメ

2017-01-18 05:00:48 | グルメ

虎ノ門で仕事が終わったのが13時50分、せっかくだから中々行けないところで昼ごはんとまずは虎ノ門砂場に足を向ける。ガラッと戸を開けてびっくり、沢山の人が待っており、待つ席すら満員で諦める。

次に向かったのは以前、虎ノ門長崎飯店を探した際に見つけた焼きスパの店『ロメスパ バルボア』、チェーン店なのかもしれないが、他ではあまり見ない店である。さすがに空いた席はあるが、混んでいる。

まずは外のメニューで吟味、ナポリタン・青じそトマト・醤油あさり・ミートカレー・明太子・ぼっかけ。思案をして腹が減ったこともあり、ぼっかけの大盛(750円)の食券を券売機で購入。席はおばちゃんが指定するが、両脇がいて狭い。

諦めて座っていると何と両隣が食べ終え、5分後に焼きスパが到着するときには両隣ともいなかった。ボリューム満点でおじさんには多すぎる。因みに普通が350g、大盛が500g、特盛が700g、メガ盛が1000gである。

おばちゃんが机に焼きスパを置いた瞬間にこんにゃくが一欠片足の上に転げた。気にもしなかったが、おばちゃんは恐縮してさらにぼっかけを小皿に入れて、持ってきてくれた。つまり、麺も具も大盛りとなったのである。

まずは一口ぼっかけを食べると牛すじが甘く煮てあり、美味い。チンゲンサイと牛すじ、こんにゃくだけが掛けてある。スパもやや太めの麺が焼き付けてあり、香ばしい。少し食べたところで唐辛子を荒く引いたものを掛けて食べるが中々マッチ、意外に胃の中に収まっていく。

やはり、あまり空腹になるまで待つものではない。さほど掛からず完食。いや、満腹。うまかったが、やや食べ過ぎたこと、カロリーを取り過ぎたことに反省をするアラ還であった。

ロメスパ バルボア虎ノ門店
港区虎ノ門1ー6ー2
0355106821

旧江戸城・清水門

2017-01-17 05:00:43 | 日記

『江戸城、皇居を巡る』その1。実はシリーズ化をしたのは今回が初めてだが、以前にも二重橋、田安門、大手門はこのブログで訪問をしたことがある。

今回取り上げるのは『清水門』、場所は九段下から竹橋方向に歩き、千代田区役所の先を右に折れたあたり。

牛ヶ淵と清水濠の間の道を行くと右側には武道館がくっきりと見え、その手前は日当たりがいいためか、ツバキや水仙が咲き乱れている。その先には高麗門と渡櫓門を組み合わせた枡形門があるがこれが清水門である。

作られた時期ははっきりしないが、江戸初期にはあったものと考えられている。中世には清水寺があったが、江戸時代には江戸城に取り込まれ、北の丸の出入口として利用された。

この辺りは三卿のうち清水家と田安家の屋敷と倉地として利用されていた。明治に入り、近衛歩兵連隊駐屯地として利用され、その後は北の丸公園として科学技術館や武道館として利用されている。


清水門は江戸の風情を残している門の一つで門は国の重要文化財に指定されている。高麗門を入り、渡櫓門入ってすぐ左側に階段が付いており、上から臨む風景は素晴らしい。


気候も良く、昼休みではあるのに殆ど人がいないのは結構歩くと遠いからかもしれない。

第52回元祖有名駅弁と全国うまいもの大会

2017-01-16 05:00:43 | グルメ

今年も行ってしまいました。毎年恒例の京王デパートで開催される元祖有名駅弁と全国うまいもの大会、今回で52回目だが、このところ皆勤賞である。今年は12日から開催、いつもは最初の土曜日に行く。今年は都合がつかないのでピークと呼ばれている最初の日曜にチャレンジ。


午前9時半に新宿到着、地上の入口に行くともう21人が列をなしている。最後尾に並び、開店を待つが、その間にもどんどん列は伸び、開店直前には最後尾が見えないほど。

いつもの通り、エレベーターで7階まで行くが、このブログを読んでいるのか(そんな訳はないか。)、エレベーターが昨年以上に混雑した。いつものように輸送駅弁の列に並ぶ。5分程度待って売り場にはいるが、一年でこれだけの種類の駅弁が見れるのはこのタイミングのみである。


駅弁は南から並べられているが、中々決められない。最初は鹿児島本線折尾駅のかしわめしに手に取ってみる、というのも折尾駅ではいまだに懐かしい駅売りのおじさんが販売しており、かしわめしも醤油の薄味で炊いたご飯に鶏と卵のそぼろと刻み海苔が斜めに美しく乗せられたシンプル駅弁。九州にいた頃によく買い求めた懐かしい味である。


その隣は中国地方、穴子や牡蠣の弁当、今年のテーマである牛肉のステーキ弁当などが並ぶ。関西も神戸の牛肉ステーキ弁当、琵琶湖名物を入れた湖北のお話も食べてみたい。中部地方は名古屋の味噌カツ弁当や桜エビの弁当もある。関東は近いから食指が動かないが、千葉駅や品川駅の貝の弁当、京王線新宿の弁当まであるのは驚き。リラックマのついたやつもある。


最後にやはり盛り上がるのが、東北・北海道地方。この地区は山形牛や前沢牛、仙台の牛タン、海産物はウニにカニ、ホタテ、鮭、イクラと素材だけ見ても種類豊富である。


これらの中での今回のチョイス。まずは北陸本線敦賀駅の『わかさカニカニカニ』、これはご飯にカニを炊き込んだものでカニ味噌も味付けに使われている。別に付けられたカニ味噌を添えながら食べると美味い。


ウニは東北本線平泉駅の『ウニごはん』、これはシンプルに小さめのウニごはんにイクラと茎わかめがトッピングされている。


さらに牛肉は東北新幹線盛岡駅の『いわて炙り焼き和牛弁当』、やはり炙り焼きが気になって選択。炙り焼きはやはり美味い。
購入後に会場で他の見ようとするが、いずれの売り場も長い列、とてもゆっくりはできず、水羊羹のみを購入、帰途についた。ピークとはいえ、毎年来店客が増えているような気がする。


本当は弁当を2つにするつもりだったが、絞りきれず3つを購入。しかし、いずれの弁当も大変美味く、満腹になりながらも家で完食。ご馳走様でした。


それにしても東京駅の弁当コーナーでも売っている米沢駅の牛肉どまん中やスーパーのイベントでも買える峠の釜飯、大阪ならどこでも買える551の豚まんなどにも長い列ができているのはふしぎなものである。まあ、日本人は列を作って待つのが好きなのかもしれない。

西河岸橋

2017-01-15 05:00:00 | 日記

『ぶらっと橋めぐり』その27。今回は有名な橋に挟まれた橋をご紹介したい。橋の名前は西河岸橋。日本橋川にかかる橋だが上流側が一石橋、下流側が日本橋と著名な橋に囲まれている。

日本橋から一石橋までの日本橋川右岸地域が西河岸町と呼ばれていたことからこの名前がついた。

初代の橋は1891年に弓弦形ボウストリングトラスという最新型の鉄橋であったが、関東大震災で被害を受け、現在の橋は1925年に架け替えられたもの。長さが52m、幅が11mな橋だが、上に高速道路が走り、全容はよく見えない。ただ、この橋から日本橋がよくわかる。



橋の袂には小さな公園、また反対側にはこの辺りと橋について描かれた案内板があるが、いつも人が多い。実は喫煙場所となっているからである。


なお、この橋より日本橋に掛けては裏河岸と呼ばれていた。しかし、現在は大企業な本社などオフィスビルが林立し当時を偲ぶものは今はなにもない。

旧中山道を歩く(2)

2017-01-14 05:00:36 | 日記

旧中山道を歩いて板橋宿の本陣跡を越えるが、仲宿商店街は流行っていて活気がある。商店街が終わった先には石神井川の橋があるがこれが『板橋』、つまり板橋区の名前のルーツである。

板橋は板橋宿の真ん中にあり、平安時代にはあったと義経記には書かれているほどに歴史がある。もともとは名前の通り、板でできた橋だったらしく、江戸時代の橋で長さが16.4m、幅が5.5mの太鼓橋であった。


1932年にコンクリートの橋となったが、実際に渡ると2つの橋に分かれ、最初の橋の下は川ならぬ児童公園となっている。これは1972年に石神井川の河川改修のため、川の流れが変わったためである。


標識には『日本橋から十粁六百四十三米』と書かれている。新たに架け直した橋ではあるが、板のような装飾が施されていて風情がある。


その先は本町にかわり、商店街も本町商店街となるが、こちらはシャッターの降りた店が多くてやや寂しい。

旧中山道には殆ど信号はないが、ここには『縁切榎前』の信号が。そのすぐ先の右手に縁切榎が植えられ、小さな祠が造られている。


まさに民間信仰だが、その木に縁切や断酒などの願いを込めると霊剣新たかで、『縁切パワー』を恐れて皇女和宮はわざわざ迂回路を作って通ったという逸話もある。

あまり、切りたい縁がないため、お参りは控えたが、熱心に絵馬を奉納して祠に向かい男との別れを祈る中年女性と願い事絵馬に断酒の願いを書く中年男性がいて、狭い境内では祠に近づくことも難しい雰囲気。やはり効果を信じる人は多いのかも、ただ、この2人に話を聞くわけにもいかず、あくまでこれは想像の話であるが。
現在の榎は三代目だが、この皮を剥がして煎じると効果があると言われて、木に傷をつける人が絶えず、管理者が木に保護材を巻いて皮を剥がすことを禁止している。

縁切榎から少し歩くと環状7号に出て、左に曲がると熊野前の交差点、もう板橋本町駅である。

新23区の命名について

2017-01-13 05:00:23 | 日記

『東京23区よもやま話』その3。東京35区を23区(当初は22区)にするため、統合したのは主に中心部であった。新たな区()内が元の区であるが、千代田区(麹町、神田)、中央区(日本橋、京橋)、港区(芝、麻布、赤坂)、新宿区(四谷、淀橋、牛込)、文京区(小石川、本郷)、台東区(下谷、浅草)、墨田区(本所、向島)、品川区(品川、荏原)、大田区(大森、蒲田)、北区(滝野川、王子)、江東区(深川、城東)となる。
(千代田区)
この中で元の名前を付けたのは品川区だけであり、それ以外はいずれも新たな名前を付けることになった。新たな名前は(1)位置的なもの、中央区、北区、江東区、港区。(2)町の中心をつけたもの、千代田区(江戸城を千代田城と言っていた)新宿区。などがあるが、かなり苦労の跡が見受けられるものもある。

(大田区)
まずは大田区、これは旧区の『大森』の『大』と『蒲田』の『田』を足して新たな区の名前にしたもの。そのため、大田区の大には点はない。

(台東区)
台東区は『日出でる処衆人集まって栄える場所』を意味する中国・清の康熙辞典にある言葉から取った。よく間違えるが、『だいとうく』ではなく、『たいとうく』と濁らない。

文京区は東大やお茶の水女子大、東京教育大(現在、筑波大学)など教育施設が多く、文教地区からこの名前になった。

(墨田区)
墨田区は隅田川が流れているからでつけられたのだが、隅田川堤を墨堤と呼んでいたのでこの『墨』と隅田川の『田』をあわせて命名した。隅田区にならなかったのは『隅』が当用漢字になかったからと言われている。同じように港区の候補として『愛宕区』というのもあったが、同じ理由で見送られた。

(新宿区)
新たな名前を歴史のある所につけようとすると必ず揉めるのは今も昔も変わらない。単なる表示では済まされない愛着のある名前は簡単に諦められないようである。

携帯電話を買い替えたが・・・。

2017-01-12 05:00:55 | 日記

PHSを携帯電話に替えたのが1998年だからかれこれ18年もお世話になっている。当時はdocomoのP501だとかSH702だとかいったいわゆる棒状の携帯を愛用。そのうちに真ん中で折れるタイプが発売、現在はP01というパナソニック製の比較的薄くて小さいタイプを2010年から使っている。

これとは別に2011年からiPhoneを使い始めてかれこれ3台目、まあ、携帯キャリアの思う通りのユーザーである。iPhoneが使いにくいとは思わないが、相手の声が聞きにくく、どうも通話、つまり電話での会話にはあまり向かない。さらに場所によっては電波も心なしか弱い気がする。

この2本以外に会社の携帯電話も持っており、何と3台持ち。但し、あまり携帯電話で会話するのが好きな訳では無く、通話よりメールを使う方が多い。


しかし、ついに足掛け7年使用しているガラケーが故障した。というのは通話の際に相手の声は聞こえるのだが、こちらの声が届かないのである。

やむなく、docomoショップ日本橋に行くと先客に3人が『故障関係』で待っている。まあ、それほどは掛かるまいと思ったのがそもそもの間違い。故障関係で相談しているのが70歳位のじいさんで何を話しているのかは分からないが、30分経っても話し続けていて埒があかない。よくそれだけ話すことがあるなあと逆に感心する位である。私は手の空いたロビーの女性に『これだけ待たされても順番が進まないのはなぜなのか。どのくらいかかるだろう』と聴くと『あと1時間くらい』という。それではたまらんと自分の携帯電話のきになる点、つまり自らの話し声が相手に聞こえているのかだけを調べてもらう。するとやはりマイクが故障していることが判明。ここでのロビー嬢の反応もなかなか面白い。『どうも、こちら側のマイクの調子が悪いようですね。修理しますか。』このような古い携帯電話の修理を勧めてくるとは思わなかったが、こちらからは買い換えるしかないと言い渡し、待たされたこの販売店に見切りをつけて出てしまった。そして、地元のdocomoショップで買い換えたのである。

携帯電話は今まではモデルの更新に合わせて買い換えていたものだが、今回は初めて壊れるまで使ったのだから、その寿命を全うしたと言えるのであろう。メール履歴や電話帳、画像などは全て移すことはショップでやってくれるようになったのは有難い。ただ、ガラゲーはもう淘汰されると聞いているので、たぶん今回購入した機種が最後のものとなるだろう。

ただ、不思議だったのはわずかな3人しか待っていないショップでも30分経っても1人も順番が進まないやり方にも疑問を持った次第である。これが、携帯電話ショップの常識なのだろうか。