hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

日本の鉄道の電化~戦前編

2014-06-10 06:36:42 | 日記

鉄道シリーズ その66。今回は『鉄道の電化』の戦前の動きに触れてみる。鉄道がスタートしたのは1804年にトレビシックが軌道を走る蒸気機関車を制作、その後、スチーブンソンが1821年にストックトン・アンド・ダーリントン鉄道を開業、初めて旅客輸送を開始した。それから約半世紀を経て1879年にドイツ・シーメンス社が電気機関車を披露、ベルリンで営業運転が開始されたのは1881年のことである。

一方、日本での鉄道開業は1872年であるが、電気を用いた鉄道の営業運転を開始したのが、1895年とドイツでの営業開始から僅か14年後である。開業したのは京都の市電で、その後一般の鉄道が開業したのは1904年の甲武鉄道、つまり今の中央線である。

幹線は東海道線の東京~国府津が1925年に電化されたものの、清水トンネルや関門トンネル、碓井峠など勾配がきつい、煤煙で運転士に危険があるなど特殊な場所を除き、あまり積極的には取り組まれなかった。その理由は軍部が電気機関車の場合、変電設備が爆撃を受けると鉄道が運行不能になる可能性が高いとして反対したからである。

消極的な国鉄に反し、私鉄では南海電鉄が1907年に電化したのを始め、東武、大阪(現、近鉄)、豊川(現、JR飯田線)、目黒蒲田電鉄(現、東急)、富山電鉄(現、富山地鉄)などが電化または開業から電化してスタートした。

つまり、都市部はともかく、地方は殆どが電化されず、蒸気機関車が幅を効かせ、電気機関車の開発が大幅に遅れてしまう結果となった。

吹屋地区(岡山県高梁市)

2014-06-09 05:00:00 | 日記
『日本の風景再発見』シリーズ その5。『吹屋』や『ベンガラ』と言ってもご存知の方は少ないであろう。吹屋は岡山県高梁市成羽町にある地区で石州瓦とベンガラ漆喰で有名な歴史的な町並みを残す。元は川上郡吹屋町(昭和30年まで)といい、江戸時代の頃より吹屋銅山として発展してきた鉱山町であった。その後、明治になり、産物は銅とともにベンガラ(弁柄、酸化第二鉄)の日本唯一の鉱山として繁栄を極めた。ベンガラは赤い色を発色し、陶器の絵付けや漆器、神社仏閣の外壁などにつかわれ、最盛期には1200人が働いていた。そしてこの町の商家にも石州瓦とベンガラの赤褐色の街並みが今も残っている。

この街を訪ねたのは2年前の夏、島根県から峠を越えて行こうにも途中の道が災害で寸断され、大回りしてようやく2時過ぎにたどり着く。最初に伺ったのはその翌年3月で廃校になった当時日本最古の現役木造校舎。とても1899年に竣工したものとは思えない立派なもの。吹屋小学校を地域の人がいかに大切にしたのかがよくわかる。

ついで行ったのは片山家住宅、江戸時代後期の商家である。その広さにはびっくり、母屋と附属家5棟が重要文化財である。

さらに西江邸、幕府代官御用所として、また、ベンガラ産業の中心的役割をはたし、地域のランドマークである。少し高台にあって、その存在は堂々としたもの。郷藏、白洲跡、駅馬舎、手習い場などが現存し、一般に公開されている。
その他、笹畝坑道やベンガラ館(明治のベンガラ交情なども公開されていて、なかなか車なしでは回れない広さである。映画の『釣りバカ日誌』や『八つ墓村』などの撮影にも利用され、それなりに露出しているが、夏休みといってもほとんど観光客や見学者がいない。かつての栄光がそのまま残っているこうした産業遺産はぜひひとりでも多くの人に見てもらいたいものである。


こうした人気のない街でも夕暮れになり、昔たくさんの人が歩いていたのを感じるのが旅の醍醐味である。

総本山 金峯山寺(奈良県)

2014-06-08 05:00:00 | 日記
金峯山寺(きんぷせんじ)には昨年4月に奈良吉野の桜を見に行った際に訪問。この寺のある金峯山は古くは飛鳥時代から聖地として知られたところで7世紀の後半に役行者がこの山で修行し、悟りの世界を導くために金剛蔵王権現を祈りだしたと言われる。山上ヶ岳と吉野山にお堂を建てp参りしたのが蔵王堂の始まりでこの寺の創始である。それ以降修験道の道場として中心的な役割を果たしている。
寺内には数々の建物があるが、駅から登り始めるとまず銅の鳥居をくぐる。これは発心門とも言われここで修行の道に入ることを決意する。

さらに登ると仁王門があり、それをくぐると国宝の蔵王堂が見える。

この蔵王堂は金峯山寺の本堂で本尊蔵王権現3体を始め多くの尊像を安置している。この木造蔵王権現立像3体は1592年に制作された巨大な青いお顔の仏様で中尊が釈迦如来、右が千手観音、左が弥勒菩薩を本地とするもので、それぞれ過去・現世・来世を象徴している。秘仏で通常は見ることができないが昨年は3月末から6月9日まで特別拝観ができたため、お参りすることができた。とくに、中尊は7メートルもありその迫力に衝撃を受けた。

特に今回の百日御開帳では通常一般人が入ることのできない内陣まで入り、祈念することができた。一度に6人しか入ることができないためかなり待たされたが、ちょうど中尊の前に入ることができ、日頃の懺悔をする貴重な機会を得た。大きなお顔の前では嘘が付けない気分になり、自分を見つめ直すことができた。

吉野の桜も素晴らしかったが、たいへんいい思い出になった拝観であった。

山手線新駅・上野東京ライン

2014-06-07 00:08:33 | 日記

鉄道シリーズ その65。最近、よく山手線の話題がニュースを賑わせている。
一つは『東北・高崎・常磐と東海道線をつなぐ~東北縦貫線』の話題で新たに『上野東京ライン』という愛称がついたというもの。子供の頃に『日本で最も高い駅はど~こだ?』というのがあり、その答えは『東京駅』。というのは東京駅発の列車は全て下り列車だから、というのがあった。もちろん、京浜東北線などは東京を貫いているが、中長距離列車には殆ど無かったからである。殆どというのは昭和40年台には『急行 常磐伊豆』(平~伊豆急下田)、『特急 湘南日光』(日光~伊東)などが運転されたことはあるからである。

上野東京ラインの計画は上野から秋葉原までは東北線などの引上線を使い、その先に東北新幹線を跨ぐ形の高架橋を作り、神田駅を過ぎたところで東海道線の引上線を使い、東海道線に繋ぐもの。これにより朝の山手線や京浜東北線の混雑緩和に役立つもので東北・高崎線から東海道線に直通運転する予定で、2014年度末に開業を目指す。

もう一つの話題、山手線の30番目の新駅の話題と密接に関連している。東京上野ラインの開業により、従来は田町車両基地に東北線や東海道線の車両を配備していたが、このスペースが削減できるからだ。そしてこの用地を使い、山手線で最も駅間の長い品川~田町間に新駅を開設することができることになった。

何しろ山手線の新駅は1971年に田端~日暮里間に西日暮里を開設して以来だから約50年ぶりのことである。まだ、駅名は決まっていないが、それを予想するのも面白い。新駅の名前としては『泉岳寺』は都営地下鉄の駅が既存であるし、『北品川』は京浜急行の駅に、しかも品川の南側にあるし、いずれも×。まあ、『高輪』『港南』『新品川』あたりかな?こんなことを考えて見るのも楽しみである。

水無月雑感

2014-06-06 06:32:05 | 日記

六月は別名を水無月という。これは梅雨の頃なのに違和感があるなと気になって色々調べてみた。

有力な説として考えられるのは(1)水無月は旧暦であり、これを新暦にすると8月にあたり、ちょうど水が無くなる時期だから、水無月という説だが、他にも(2)田植えが終わり、田んぼに水が張られた『水張月』『水月』からくるという説、(3)水無月の『無』は神無月と同じく、連体助詞で『の』という意味で『みずのつき』という意味であるとする説などがあり、いずれも尤もらしい。

それにしても昨日(6月5日)に関東地方も梅雨入りしてこれから鬱陶しい毎日かと思うと気が滅入るが、『梅雨』というのは中々上手い表現である。ちょうど梅が熟すころだからと思っていたが、じめじめしてカビが生えやすいので黴雨(ばいう)、そして音の同じ梅雨をあてたという説もあるらしい。面白いことに中国や台湾でも『梅雨』(メイユー)と書くが、よく使われるのは『黄梅雨』の方らしい。

ところで先日の『山の日』(8月11日)制定後はこんなに鬱陶しいのに6月だけが祭日のない月になるらしい。色々考えるのはいいが、是非『時の記念日』(6月10日)あたりを祭日にしてもらいたいものである。

投手心理

2014-06-05 06:34:27 | 日記

久々に野球ネタ。6月3日の阪神vs楽天戦を見て悔しがらなかったり、残念がらない阪神ファンは皆無であろう。少なくとも9回表が始まるまでは。ただ、その裏に色々あったことは試合を見ていないとわからないので追ってみた。

それまでの試合の流れは完全に阪神にあった。7回表に緒方を敬遠して満塁策を取り、投手のメッセンジャーを打席に迎えたが、則本も疲れていたのか四球を出して先制点が阪神に。さらに8回表はヒットの鳥谷を1塁に置き、ゴメスが2ランと効果的に3点を取る。ただ、スポーツ紙には出ていないが、7回は1死満塁で上本が併殺打、8回はHRのあと連打が出て2死1、3塁になったが、鳥谷凡退と2回もチャンスはつぶしているのだが。

ここまでは前置き。9回表は楽天が3人目に昨年育成から上がった宮川がマウンドに。背番号はなんと90番。1死は簡単に取る。そこで阪神は108球・被安打1のメッセンジャーを打席に送る。まず、クローザーの呉は『今日のメッセンジャーなら俺のでばんはないな』と思ったはずである。一方、メッセンジャーの投手心理は『この打席は簡単にアウトになって次の回の投球にそなえよう。』と思っていたはず。しかし、宮川はボールコントロールできず、一回も降らないのにストレートの四球。この時解説者の田淵幸一は『どちらにも痛い四球ですね。こういう時はベンチが離れたところで3回振れと指示しなくては。』と言ったが、これが後で大事になる。この後、上本も四球で1.2塁になるが、大和が内野ゴロで1、3塁に。ついていないのは3塁にメッセンジャーが残されたこと。さらに次の鳥谷は内野ゴロで長い間ランナーとして出さされ、投球練習なしで9回裏のマウンドに登る羽目になる。

そして9回裏の楽天はまず西田のポテンヒットで無死1塁、代打の後藤に3ベースを打たれ、失点。ランナーを3塁に残し、クローザーの呉の登場。この後、ボーカーに犠牲フライを打たれ、1点差になるが、ランナー無しになる。聖沢も簡単にアウトとして2死でランナー無し。その後は内野安打、四球、タイムリー2塁打でサヨナラ負けとなるわけだが、ここで内野安打を打った岡島を抑えられなかったのが、最大の敗因。

ただ、その前に気持ちがいったん切れ、その修復前に登板した呉。不要な四球を選んだばかりにリズムの狂ったメッセンジャー、ベンチは彼らに何もできなかったのか。さらに最後の場面で捕手を新人の梅野を使い続けたベンチワークにも疑問を感じ、この敗戦は何か引きずりそうな予感がする。

また、もし宮川が楽天側のベンチワークでメッセンジャーに四球を出したのならば大したものだが、まああのコントロールではそれはないだろう。
唯一の救いとすると翌日は阪神が藤浪の粘りもあり、9対1で完勝したことかも知れない。ただ、ここで前日のことをすぐ忘れるから阪神はなかなか進歩しないのかも。


蒸気機関車の形式称号

2014-06-04 06:32:03 | 日記

鉄道シリーズ その64。今回は『蒸気機関車の形式称号』について取り上げる。『蒸気機関車の形式称号』とは蒸気機関車の前についている銘板に書かれていること英文字+数字のことである。

初めて決められたのは1908年当時の鉄道院が制定したもの。これは動輪(文字通り動く車輪)の数と蒸気機関車の形式(タンク式、テンダー式、マレー型タンク式、マレー型テンダー式)により決められ、さらに複雑なのは1~99番はその形式番号の後ろに数字を入れるだけだが、100両目からは最初に1、つぎの2桁が形式番号、最後がまた車両の製造番号となっている。例えばキューロクの愛称で知られた9600形は100両目は19600となる。これは当初同じ形式の車両を100台以上作る想定では無かったため、このような形になった。

しかし、この形式称号は18900形ができたあたりからさらに桁が多くなる可能性があるなど無理も出てきたため、1928年に新たな形式称号に変更された。

これは『C11 325』と言うお馴染みのものである。最初の『C』は動輪の数を表し、A=1、B=2、C=3、D=4、E=5を表す。その次の2桁が形式を表し、10~49はタンク式、50~はテンダー式、つまり炭水車の有無を表している。だから例の場合はタンク式の2番目の形式と言うことになる。そして最後の3桁は車両の製造順と言うことになる。

因みにBはB10、B20、CはC10~C12とC50~62、DはD50~52、60~62、EはE10の21形式がよく知られている。また、1928年に形式番号が変更になったのはC51(旧18900形式)、C52(旧8200形式)、D50(旧9900形式)の3つだけで大量生産された8620形式や9600形式は古い形式称号のままであった。C13のように私鉄を国鉄が買収した際に私鉄の蒸気機関車を一時的に形式変更した例もある。


なお、戦後に最後の蒸気機関車として設計図まで作られ、老朽化したC51の代替として計画された幻のC63の存在があるが、結局、製造されることは無かった。


初台名西酒蔵

2014-06-03 06:34:55 | グルメ

最近、あまり居酒屋レポートがないという読者からのリクエストを受けて先日お邪魔した初台の『初台名西酒蔵』について。

伺ったのは先週の土曜日、この店は全く知らなかったがテレビ番組の中でこの店の本店的存在の三軒茶屋にある『名西酒蔵』を知り,家から近い方のこちらにお邪魔した次第。
このお店のコンセプトは『徳島県』、素材はかなりの部分を徳島県直送のものを使っている。店に入ると細長く、奥に座敷、反対にボックス席、後はカウンターだが、これが長い。カウンター内には愛想の良い人が5人くらいいて料理を丁寧に紹介してくれる。

最初にビールと徳島県セット(ポテサラ、スダチカルパッチョ、フィッシュフライ)を注文。お通しが2品と一口のスープ。お通しのスナップエンドウが甘くて美味い。次にポテサラ、肉のそぼろが入っていて、中々ボリュームがある。そしてスダチカルパッチョ、名物で魚はヒラメ、スダチの酸っぱさと山のように盛られた青ネギが爽やかで、ネギ好きにはこたえられない。余ったネギは付属の海苔に巻いて食べるが、味付け海苔とは思えないパリパリ感で思わず追加してしまう。海苔の名前を忘れたが、地元では有名な海苔らしい。

そしてフィッシュフライ、簡単にいうと魚のすり身をパン粉を付けて揚げた駄菓子感覚のフライだが、スパイスが効いていて美味い。一緒に出される地ソースのヒカリソースを付けても良い。

酒は日本酒に移るが、折角ならばと徳島県産の『瓢太閤』を注文、徳島県阿波市の蔵らしいが、スッキリ系でいくらでもいけそう。さらにポスターが貼ってあったのでスダチサワーを飲むが、一杯400円。スダチの酸っぱさと独特な香りが焼酎とマッチして、通常あまり飲まないサワーを3杯も飲んでしまう。

この店のメニューは面白い作りで、最初の3ページは徳島県産のものばかり、次の2ページは一般的な全国のつまみ、と分けられている。
さらに手羽先の醤油漬けの焼き物を頼むが、甘い醤油漬けで大きくてうまい。締めはネギだけの焼きそばを注文。これはさっきのソースなどで味付けされた焼きそばに山盛りの青ネギ。素朴ながら美味しく頂きました。

スタッフも気さくで気持ちが良い、ただ、ただ、これだけ徳島県にこだわっているのに、徳島県出身者はいないとのこと、これは残念!(三軒茶屋の本店のオーナーは徳島出身だとか。)

初台名西酒蔵(はつだいみょうさいしゅぞう)
渋谷区初台1ー37ー11シャトー初台2F
0353886665

北向観音(長野県上田市)

2014-06-02 05:00:00 | 日記
古刹を巡る その13.本日は長野県上田市の北向観音を取り上げる。この観音さまは長野新幹線の上田駅から上田交通別所線の終点別所温泉駅でおりて10分ほどのところにある。北向観音とはお堂が北向きに立っていることから付けられたもので観音の誓願である『北斗七星が世界のよりどころとなるように我もまた一切衆生のために常によりどころになって済度をなさん』によるものとされる。

寺伝によると平安初期の825年に慈覚大師(円仁)により開設されたものとされる。木曽義仲の兵火などありたびたび消失しているが、その度に再建され、今のお堂は江戸時代1721年に建てられたものという。本坊の名前は北向山常楽寺で重要文化財にもなっている石造りの多宝塔がある。

また、長野市の善光寺は来世の利益をもたらす寺であるのに対し、北向観音は現世の利益をもたらすこと寺で、セットでお参りをするとよりご利益があるといわれる。小生も坂東33ヶ所霊場巡りを満願した際にお礼参りにこの2つを訪れるように満願の寺で言われたことを思い出す。(坂東33箇所巡りの番外札所である)
寺からの塩田平の眺めは素晴らしく、この寺をお参りされたときは無名館などもあわせて回ると良い。また境内の愛染堂のそばに川口松太郎の小説で有名な『愛染かつら』があり、碑も残されている。この小説の中身は残念ながら分からないが。


もちろん、丸窓電車で有名な上田交通にもぜひ乗ってもらいたいが。やはり小生の旅にはどうしても電車はつきものののようである。




天草西港(熊本県)

2014-06-01 05:00:22 | 日記
『日本の風景再発見』シリーズ その4。『三角』と書いてミスミと読む。熊本駅から特急『A列車で行こう』に乗ってわずか40分足らず行くことができる。小生が三角駅を前に訪れたのは30年以上前で、盲腸線の終着駅であったものが変わっているのは当然だが、その代わり様に驚く。さすが観光に力を入れているJR九州である。ちなみに『A列車』のAは天草のAtoアダルトのAをかけたものらしい。

駅から降りるとすぐ前がフェリー乗り場で対岸の島原外港まで行くことができるが、これが三角東港。そして今回注目するのは三角西港(みすみにしこう)である。この港は明治三大築港であり、明治政府の国内統一、殖産振興に基づいて建設されたもので設計は御用技師のオランダ人ムンドルによる。西港が建設されたのは明治17年から20年にかけてであるから、かなり古く、しかもその姿はそのまま残っている。というのは始めの頃は西港が繁栄し、裁判所や商船学校、水産試験場、海上保安庁などの役所、港沿いには多くの倉庫なども作られた。しかし、西港には背後に山が迫り、敷地の拡張が難しかったことから次第に東港が整備されるようになり、それを決定的にしたのは明治32年に開通した九州鉄道(後に国鉄)三角線の存在である。その後はフェリーターミナルなども東港に作られたため西港は忘れ去られた存在となった。

しかし、早くから東港に機能が移ったため、西港は石積みの埠頭や水路、箸など当時の施設が原型のまま残されている数少ない港湾史跡として近年になり、注目されており、最近ではNHKドラマの『坂の上の雲』の舞台として撮影に使われた。平成14年には国の重要文化財にも指定されている。


写真にある浦島屋や物産館となっているムンドルハウス、九州海技学院(旧宇土郡役所)、旧簡易裁判所などの建物も整備され当時を偲ばせている。ただやはり素晴らしいのは人の手で積んだ石積のみなとであり、向いに天草五橋の一の橋が見えその風景は素晴らしい。夏の午後ゆっくりコーヒーを飲みながら海を眺めるのも旅の1ページとしては思い出になる。天草に行かれる折にはぜひ訪ねていただきたいスポットである。


この港に佇むと明治の香りを思い出せるような気がする。ちなみに最近はスナメリも近くで観察できることがあるらしい。