放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

東日本大震災 ~The Life Eater20

2011年05月11日 12時40分09秒 | 東日本大震災
 息子が通っている小学校校舎の損壊はひどかった。

 外から見ると、校舎のところどころ亀裂が入り、部分的に鉄筋が覗き、さらに階段の踊り場とかまで見えていたりする。

 聞いた話では、漏電の恐れがあって建物に入電できない状態だという。
 だからパソコンも使えず、通信簿の作成もできなかったとのこと。
 (息子が通信簿を持ってきたのは、年度が改まった4月28日でした)
 
 給食設備も損壊。自主給食ができない状態。

そういえば、震災当日、息子は上履きのままランドセルも持たずに帰ってきた。
 体育館にいったん避難したものの、揺れが一向に収まらないので、児童は教室へはもどれなかったのだ。
 お友達の中には、避難行動の途中で片っ方のクツがぬげて、そのまま帰ってきた子もいたという。
 上着だけは、教師が校舎から抱えて持ってきて、学級ごとに分けたという。


 「思わぬ展開」で始まった春休み。
 大人も、通勤できない状態になり、「思わぬ休暇」となった。
 そのことが、子供たちにとっては「思わぬ救い」であったようだ。
 
 震災からの一週間は、ほとんど職場へは行けなかった。(水も電気も止まっていて業務が出来なかった)
 だから僕たちはずうっと子供たちのそばにいた。
 
 子供たちとはいっぱいいっぱい話ができた。
  震災のこと、津波のこと、いのちのこと、 
   死ぬということ、食べるということ、うんちをすること
    じいちゃんばあちゃんのこと、近所との扶けあいのこと、
     
 子供たちはお手伝いもいっぱいしてくれた。そしてよく笑っていた。
 (「飢餓感」と「恐慌」の所為だろうか、お米の消費が激しかった。)

 いつもよりもじっくり子供に向き合えたかもしれない。
 子供たちも「いつものお休みよりも楽しかった」という。
 普通の「楽しい」とは、多分、意味がちがうんだろう。べつに遊びまくったわけでもない。ただ、行列に並んだり、物資を運んだりして一緒に行動していただけ。
 それでも「楽しかった」という。

 ― 家族が無事で、ホント、よかった・・・。 ―
 (子供たちよりも、「一緒にいられる幸せ」は、僕のほうが実感できたかもしれない。)

 新学期は4月11日。
 仙台市はムリムリ再開したような観がある。
 それでも給食が出せず、毎日ウチでお昼を食べる日々。
 翌々週からはお弁当を持参。
 5月の連休明けには、主食だけ出るのでオカズを持参するようになった。
 (これはこれで、結構シンドイ・・・。)

 仙台市内では校舎の破損により、児童が別々の学校に通わなければならないところもあるという。それに比べたら、ウチはまだマシなのだろう。
 でも、あの校舎、どーすんですかね?
 

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