山元町立震災遺構・中浜小学校のことについて書きたい。
ここが震災遺構として保存公開が始まったのが昨年2020年10月のことだった。
僕が訪れたのは公開されて間もない11月中旬。
ここで聞いた被災体験談は稀有なもので、ある意味奇跡でもあり、いろいろ考えさせられてしまう。
山元町中浜地区はそもそも海に面している。中浜小学校も海から400メートルと近い。津波が来る前の写真では住宅に囲まれていたが、現在はすぐ目の前に波が打ち寄せいているように見える。
平成元年(1989)、小学校舎を新しくする際に、敷地は2メートル嵩上げされた。津波や高潮を懸念する住民の声を反映させたという。小学校の現在も海側には、長大な土台が壁のようにそびえている。
しかしここは津波発生時の避難想定先にはならなかった。
海から近すぎたのだ。津波が発生すれば、内陸部の坂元小学校まで逃げることになっていた。
新しい校舎は2階建てで、その屋上には赤い三角屋根の収納スペースが設置された可愛らしい建物。
開放的な教室、明るい日差しが注ぐ多目的室、多くの卒業生にとって想い出深い学校だったことだろう。
今は、無残にも倒壊した時計台、ひしゃげたフェンス、倒れた柱、めくれた床板、ところどころに何かを引きずり回したような痕跡が痛々しく残る。
波は海側から突入し、歪んだ流痕を残して北側の壁を大きく破壊して去っていったようだ。いまはすっかり外が見えるようになった校舎をひゅうひゅうと浜風が吹き抜けてゆく。
あの日、激しい揺れに襲われたあと、坂本地区にも津波警報が発令される。予想される津波の高さは10メートルだった。
校長先生は決断に迫られた。
津波に追いかけられるのを承知で全校生徒と住民を坂元小学校まで誘導するか
避難計画とは違うが、このまま校舎に留まり、10メートルの津波に耐えるか。
前者であれば、恐ろしい速さで駆け上がってくる津波に呑まれて児童が犠牲になると思った。
後者は、事前に計画した避難方法と違うのでみんな混乱する。しかもここは2階建て。10メートル以上の津波が来ればやはり犠牲者が出てしまう。避難計画通りに避難させなかったという誹りが矢のように降り注ぐだろう。
校長先生は究極の決断をした。
校舎屋上までの高さは確か8メートルだった。これに嵩上げ土台2メートルが加わる。合わせて10メートル。
この10メートルに賭けよう。
校長先生はみんなを屋上へ通じる細い階段へと誘導した。
きっとこの階段を登ればみんな地獄のフチを見ることになる。
はたしてこの判断は間違っていないのか。
本当に津波は10メートルより高くなることはないのだろうか。
いろいろなことを考えながら校長先生はみんなを屋上へ誘導し、最後に自身も階段を登ったという。
屋上に上り、児童はなるべく奥の方へ待機させた。なるべく津波を目撃してしまわないような配慮だった。
やがて津波到来。どんどん潮位が上がってゆき、真っ黒い水が押し寄せた。目で見ていなくても、あの轟音は耳朶に染み付くほど恐怖だったはずである。
幸い、津波はギリギリのところで下がっていった。その黒い水の痕はいまでも校舎外壁に不気味な縞模様となって残っている。
あたり一面は泥海と化した。
波が引いても第二波がやってくる。しばらくは誰も救助に来れないだろう。浜は、町は、いったい今どうなっているのだろう。雪が降り始めていた。
児童教師それから地域住民あわせて約90名。みんなで屋上にある三角屋根の収納スペースに入った。ここなら屋上に居るよりも安全である。
中には学芸会や運動会の小道具、いろいろなものが散乱していた。電灯も点かない、エアコンもない。通風孔から冷たい風が入り込んでくる。
大人たちで通風孔を塞ぎ、毛布や暗幕や身体を保護できそうなものをかき集めた。非常食料や持ち寄ったお菓子を児童たちに分けた。
児童たちはめいめい横になれるスペースを見つけて身体を横にしたという。
長い長い一夜だったことだろう。
中浜小学校は、今でも当時の避難行動について問題提起をし続けている。
確かな事。あのとき大人たちはみんな最後まで人命を護ることに一生懸命であった。
その点については、痛ましい犠牲者を出してしまった他の避難所や学校でも同じことが言えるのではないか。
「津波てんでんこ」なんて諺(ことわざ)があるが、でも学校という現場において、大人が子供を見捨てて逃げ出したという話は聞こえてこない。東日本大震災という災害下において、誰もが一生懸命だった。みんな助かりたいと願いながら。
ただ評価・審判されてしまうのは、防災計画の出来・不出来であり、瞬間の大人たちの機転であり、その結果であり、そしてその後の説明責任ではないか。
中浜小学校で、もし犠牲者が出てしまえば大人たちへの評価は今とはすっかり違うはずである。そう考えると、あの瞬間生きるために非常階段を登ることを決断した校長先生の胸中は・・・。
多くの人が悩んで、考えて、それでも最後に辿り着く事実は、子どもたちを死なせずに済んだということ。それ以上の結論は恐らく出ないのではないか。たとえ完璧な防災計画で効果的な避難行動が出来て犠牲者が出なかったとしても、その結論は果たして必然か。本当に必然か。必然で片付けていいのか。悩まなくていいのか。もしかして偶然だったかもしれないって、疑わなくていいのか。
実は世界中のすべての現象は偶然の連続であって、人にはどうしようもないことばかりなんじゃないか・・・。特にそれが災害であったならば・・・。中浜小学校の問題提起の本質は、「その瞬間にできる最良のことは」何なのか、ということではないか。
いかに犠牲者を出さずに行動するか
いかに被害を最小限度にするか
一連の行動を正確に説明できるか。
そもそも全てが偶然の連続であったなら、最良の行動ですら結果論にすぎない。それでも固定的な思考で決まった行動を取るだけではなく、想定されていない驚異に対して広角的にアンテナを張り続けて行動すれば、それが最良である確率は向上する。屋上への避難の話は、そういった要素を多分に含んでいた。
誰に褒められなくてもいい、あの瞬間の人々の緊張と英知と幸運を、赤い屋根の校舎は伝えている。
ここが震災遺構として保存公開が始まったのが昨年2020年10月のことだった。
僕が訪れたのは公開されて間もない11月中旬。
ここで聞いた被災体験談は稀有なもので、ある意味奇跡でもあり、いろいろ考えさせられてしまう。
山元町中浜地区はそもそも海に面している。中浜小学校も海から400メートルと近い。津波が来る前の写真では住宅に囲まれていたが、現在はすぐ目の前に波が打ち寄せいているように見える。
平成元年(1989)、小学校舎を新しくする際に、敷地は2メートル嵩上げされた。津波や高潮を懸念する住民の声を反映させたという。小学校の現在も海側には、長大な土台が壁のようにそびえている。
しかしここは津波発生時の避難想定先にはならなかった。
海から近すぎたのだ。津波が発生すれば、内陸部の坂元小学校まで逃げることになっていた。
新しい校舎は2階建てで、その屋上には赤い三角屋根の収納スペースが設置された可愛らしい建物。
開放的な教室、明るい日差しが注ぐ多目的室、多くの卒業生にとって想い出深い学校だったことだろう。
今は、無残にも倒壊した時計台、ひしゃげたフェンス、倒れた柱、めくれた床板、ところどころに何かを引きずり回したような痕跡が痛々しく残る。
波は海側から突入し、歪んだ流痕を残して北側の壁を大きく破壊して去っていったようだ。いまはすっかり外が見えるようになった校舎をひゅうひゅうと浜風が吹き抜けてゆく。
あの日、激しい揺れに襲われたあと、坂本地区にも津波警報が発令される。予想される津波の高さは10メートルだった。
校長先生は決断に迫られた。
津波に追いかけられるのを承知で全校生徒と住民を坂元小学校まで誘導するか
避難計画とは違うが、このまま校舎に留まり、10メートルの津波に耐えるか。
前者であれば、恐ろしい速さで駆け上がってくる津波に呑まれて児童が犠牲になると思った。
後者は、事前に計画した避難方法と違うのでみんな混乱する。しかもここは2階建て。10メートル以上の津波が来ればやはり犠牲者が出てしまう。避難計画通りに避難させなかったという誹りが矢のように降り注ぐだろう。
校長先生は究極の決断をした。
校舎屋上までの高さは確か8メートルだった。これに嵩上げ土台2メートルが加わる。合わせて10メートル。
この10メートルに賭けよう。
校長先生はみんなを屋上へ通じる細い階段へと誘導した。
きっとこの階段を登ればみんな地獄のフチを見ることになる。
はたしてこの判断は間違っていないのか。
本当に津波は10メートルより高くなることはないのだろうか。
いろいろなことを考えながら校長先生はみんなを屋上へ誘導し、最後に自身も階段を登ったという。
屋上に上り、児童はなるべく奥の方へ待機させた。なるべく津波を目撃してしまわないような配慮だった。
やがて津波到来。どんどん潮位が上がってゆき、真っ黒い水が押し寄せた。目で見ていなくても、あの轟音は耳朶に染み付くほど恐怖だったはずである。
幸い、津波はギリギリのところで下がっていった。その黒い水の痕はいまでも校舎外壁に不気味な縞模様となって残っている。
あたり一面は泥海と化した。
波が引いても第二波がやってくる。しばらくは誰も救助に来れないだろう。浜は、町は、いったい今どうなっているのだろう。雪が降り始めていた。
児童教師それから地域住民あわせて約90名。みんなで屋上にある三角屋根の収納スペースに入った。ここなら屋上に居るよりも安全である。
中には学芸会や運動会の小道具、いろいろなものが散乱していた。電灯も点かない、エアコンもない。通風孔から冷たい風が入り込んでくる。
大人たちで通風孔を塞ぎ、毛布や暗幕や身体を保護できそうなものをかき集めた。非常食料や持ち寄ったお菓子を児童たちに分けた。
児童たちはめいめい横になれるスペースを見つけて身体を横にしたという。
長い長い一夜だったことだろう。
中浜小学校は、今でも当時の避難行動について問題提起をし続けている。
確かな事。あのとき大人たちはみんな最後まで人命を護ることに一生懸命であった。
その点については、痛ましい犠牲者を出してしまった他の避難所や学校でも同じことが言えるのではないか。
「津波てんでんこ」なんて諺(ことわざ)があるが、でも学校という現場において、大人が子供を見捨てて逃げ出したという話は聞こえてこない。東日本大震災という災害下において、誰もが一生懸命だった。みんな助かりたいと願いながら。
ただ評価・審判されてしまうのは、防災計画の出来・不出来であり、瞬間の大人たちの機転であり、その結果であり、そしてその後の説明責任ではないか。
中浜小学校で、もし犠牲者が出てしまえば大人たちへの評価は今とはすっかり違うはずである。そう考えると、あの瞬間生きるために非常階段を登ることを決断した校長先生の胸中は・・・。
多くの人が悩んで、考えて、それでも最後に辿り着く事実は、子どもたちを死なせずに済んだということ。それ以上の結論は恐らく出ないのではないか。たとえ完璧な防災計画で効果的な避難行動が出来て犠牲者が出なかったとしても、その結論は果たして必然か。本当に必然か。必然で片付けていいのか。悩まなくていいのか。もしかして偶然だったかもしれないって、疑わなくていいのか。
実は世界中のすべての現象は偶然の連続であって、人にはどうしようもないことばかりなんじゃないか・・・。特にそれが災害であったならば・・・。中浜小学校の問題提起の本質は、「その瞬間にできる最良のことは」何なのか、ということではないか。
いかに犠牲者を出さずに行動するか
いかに被害を最小限度にするか
一連の行動を正確に説明できるか。
そもそも全てが偶然の連続であったなら、最良の行動ですら結果論にすぎない。それでも固定的な思考で決まった行動を取るだけではなく、想定されていない驚異に対して広角的にアンテナを張り続けて行動すれば、それが最良である確率は向上する。屋上への避難の話は、そういった要素を多分に含んでいた。
誰に褒められなくてもいい、あの瞬間の人々の緊張と英知と幸運を、赤い屋根の校舎は伝えている。
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