2023年3月、石巻へ行った。
今年の3月は、明るくて温かい。
それでも海の耀きは、あの日のことを思い出させる。
そう
この季節は海の色が最も碧く、とても澄み渡っている。
なぜあんなに狂ったような禍をもたらしたのか戸惑ってしまうほど美しく碧い海。
そのあと、天地には涙のような霙(みぞれ)がざんざんと降った。
しばらく石巻へは行けなかったが、道路が改善してからやっと日和山の下の道を通った。
そうそう、更地になって砂埃だらけの土地に「がんばろう石巻」と書かれた看板があったっけ。
あの看板は今、どうなっているのだろうか。
日和山の懐には痛々しい壁をさらす門脇小学校の旧校舎がある。当時の校舎を左右ともに短くしてしまったが、まるで児童を護る城壁のように構えたその姿は変わらない。
津波火災、という最も怖ろしい災害をこの城壁は黒焦げになりながら受け止めた。
水平避難でも垂直避難でもなく、シンプルに山に逃げる、という行動が助け合いを生み、多くの人が難を逃れた。
これまで宮城県内の多くの震災学校遺構を見てきた。
それぞれに災害への教訓を持っており、答えが一つではないことを教えてくれる。
亘理の中浜小学校は究極の垂直避難で命を繋いだ。
仙台の荒浜小学校も垂直避難。ほかの選択肢はなかった。
石巻の大川小学校は、迷いと水平避難が被害を大きくした。
そして門脇小学校の場合、垂直避難も水平避難も正解ではなかった。
児童と引率する教諭はいち早く校庭から裏山への道を辿って日和山へと逃れていた。
一方、避難してきた住民と一部教諭は校舎と屋内運動場に残っていた。
そこへ津波が迫る。
この時の怖ろしい映像が残っている。
映像は校舎の屋上から撮られたものだ。
車から漏れたガソリンや埠頭にある燃料などが海面に集まり、そこへ漏電火災などの火花が引火する。
すなわち、海が燃えながら陸に押し寄せてくるのだ。漂流物が炎上しながら押し寄せる場合もあるという。
門脇小学校校舎の屋上に避難していた市民は燃えながら校舎にぶつかる波頭を目撃した。
押し寄せる衝撃と轟音、アブラの匂い、熱風。
どんなにか怖かったことだろう。
少し波が引いたとき、みんなは決断した。山へと伝い逃げる方法を模索しよう。
時間は限られている。校舎の裏山はそそり立つ擁壁があって、直接渡れない。
誰かが教壇を担ぎ出して2階から擁壁へと渡した。
教壇は重い。市民は高齢者や女性が多かった。文字通り火事場の怪力である。
こうしてみんなは裏山へ逃れた。
今、校舎に残る机や椅子は天板や座面がすべて焼け落ちている。
黒板も焼けてひしゃげた鉄板だけが残っている。戦場のようだ。
生生しい震災の資料。
当時のラジオから避難を呼びかける音声データ(よく残っていたね)。
地震の膨大なデータ。
そして今なお残る裏山の擁壁。
防災や減災が身近な課題であることを教えてくれる。
もしも亘理の中浜小学校のケースで津波火災に襲われた場合、屋上倉庫に避難した児童はどうなっていたことだろう。
避難の仕方に答えはない。いつも結果だけが存在する。
体育館に向うと、そこに「がんばろう石巻」の看板があった。おう、ここにいたか。
その左をぐるっと廻るとなんと災害公営住宅が残っていた。この展開は重い。
東北仕様の二重扉。当時の家電製品。
壁に空いた穴。
阪神淡路の震災より進化しているという応急住宅だが、やはり悲しい記憶でいっぱいになってしまった。
震災直後、この辺はびょうびょうと吹く浜風と灰色または茶色い世界だった。
やがて歳月が経ち、避難の丘やメモリアル施設ができて、様子がすっかり変わった。
きっとそのほうが良いんだろう。
いつまでも灰色と茶色の世界ではやりきれない。
でも、失ったものを忘れないようにしてあげないと、誰かが覚えていてあげないと、この浜辺に刻まれた悲しみは封印されて行き場がなくなってしまうような気がする。
少しづつ蒸発・・・いや、昇華するように癒やされてゆくことが、人にも土地にも必要なんだと思う。
メモリアル施設や震災遺構は、誰かの記憶を喚起したり、伝承したりすることで、その地の悲しみを昇華させることも役割の一つではないかと思った。
もちろん防災教育も大事な役割ですけど。
今年の3月は、明るくて温かい。
それでも海の耀きは、あの日のことを思い出させる。
そう
この季節は海の色が最も碧く、とても澄み渡っている。
なぜあんなに狂ったような禍をもたらしたのか戸惑ってしまうほど美しく碧い海。
そのあと、天地には涙のような霙(みぞれ)がざんざんと降った。
しばらく石巻へは行けなかったが、道路が改善してからやっと日和山の下の道を通った。
そうそう、更地になって砂埃だらけの土地に「がんばろう石巻」と書かれた看板があったっけ。
あの看板は今、どうなっているのだろうか。
日和山の懐には痛々しい壁をさらす門脇小学校の旧校舎がある。当時の校舎を左右ともに短くしてしまったが、まるで児童を護る城壁のように構えたその姿は変わらない。
津波火災、という最も怖ろしい災害をこの城壁は黒焦げになりながら受け止めた。
水平避難でも垂直避難でもなく、シンプルに山に逃げる、という行動が助け合いを生み、多くの人が難を逃れた。
これまで宮城県内の多くの震災学校遺構を見てきた。
それぞれに災害への教訓を持っており、答えが一つではないことを教えてくれる。
亘理の中浜小学校は究極の垂直避難で命を繋いだ。
仙台の荒浜小学校も垂直避難。ほかの選択肢はなかった。
石巻の大川小学校は、迷いと水平避難が被害を大きくした。
そして門脇小学校の場合、垂直避難も水平避難も正解ではなかった。
児童と引率する教諭はいち早く校庭から裏山への道を辿って日和山へと逃れていた。
一方、避難してきた住民と一部教諭は校舎と屋内運動場に残っていた。
そこへ津波が迫る。
この時の怖ろしい映像が残っている。
映像は校舎の屋上から撮られたものだ。
車から漏れたガソリンや埠頭にある燃料などが海面に集まり、そこへ漏電火災などの火花が引火する。
すなわち、海が燃えながら陸に押し寄せてくるのだ。漂流物が炎上しながら押し寄せる場合もあるという。
門脇小学校校舎の屋上に避難していた市民は燃えながら校舎にぶつかる波頭を目撃した。
押し寄せる衝撃と轟音、アブラの匂い、熱風。
どんなにか怖かったことだろう。
少し波が引いたとき、みんなは決断した。山へと伝い逃げる方法を模索しよう。
時間は限られている。校舎の裏山はそそり立つ擁壁があって、直接渡れない。
誰かが教壇を担ぎ出して2階から擁壁へと渡した。
教壇は重い。市民は高齢者や女性が多かった。文字通り火事場の怪力である。
こうしてみんなは裏山へ逃れた。
今、校舎に残る机や椅子は天板や座面がすべて焼け落ちている。
黒板も焼けてひしゃげた鉄板だけが残っている。戦場のようだ。
生生しい震災の資料。
当時のラジオから避難を呼びかける音声データ(よく残っていたね)。
地震の膨大なデータ。
そして今なお残る裏山の擁壁。
防災や減災が身近な課題であることを教えてくれる。
もしも亘理の中浜小学校のケースで津波火災に襲われた場合、屋上倉庫に避難した児童はどうなっていたことだろう。
避難の仕方に答えはない。いつも結果だけが存在する。
体育館に向うと、そこに「がんばろう石巻」の看板があった。おう、ここにいたか。
その左をぐるっと廻るとなんと災害公営住宅が残っていた。この展開は重い。
東北仕様の二重扉。当時の家電製品。
壁に空いた穴。
阪神淡路の震災より進化しているという応急住宅だが、やはり悲しい記憶でいっぱいになってしまった。
震災直後、この辺はびょうびょうと吹く浜風と灰色または茶色い世界だった。
やがて歳月が経ち、避難の丘やメモリアル施設ができて、様子がすっかり変わった。
きっとそのほうが良いんだろう。
いつまでも灰色と茶色の世界ではやりきれない。
でも、失ったものを忘れないようにしてあげないと、誰かが覚えていてあげないと、この浜辺に刻まれた悲しみは封印されて行き場がなくなってしまうような気がする。
少しづつ蒸発・・・いや、昇華するように癒やされてゆくことが、人にも土地にも必要なんだと思う。
メモリアル施設や震災遺構は、誰かの記憶を喚起したり、伝承したりすることで、その地の悲しみを昇華させることも役割の一つではないかと思った。
もちろん防災教育も大事な役割ですけど。
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