遠野には佐々木鏡石(1886-1934、本名「喜善(きぜん・きよし)」)という人がいた。
彼こそが遠野物語の土台。彼の語った話をもとに綴られたのが遠野物語だ。けれども柳田國男をヌキに遠野物語が成立しなかったのも事実である。
農政省の役人でもあった柳田には、物事を簡潔明瞭に説明できる文章力と、本を出版できるほどの人脈があった。
一方の佐々木は駆け出しの文学青年。自分の持っている知的財産の価値に気がついていなかった。
佐々木は実家も裕福だったのだが、彼のほんとうの知的財産とは、子供の頃から囲炉裏端や墓地やお社の片隅で繰り返し繰り返し聴いてきた不思議な不思議な遠野の昔話である。
ザシキワラシ、オシラサマ、山男、経年(ふったち)、迷い家(まよいが)、寒戸の婆(さむとのばば)・・・。
柳田に呼び出され、問われるままに佐々木は語る。言い方は悪いが、知的財産をタダで他者に譲っているようなものだ。「遠野物語」の冒頭で「佐々木鏡石」の名を出してもらったのが唯一のご褒美であったか。
柳田の功績で「民族学」が興り、遠野は一躍注目を浴びた。
けれど「佐々木鏡石」という作家が世にでることはなかった。
せっかく宮沢賢治との邂逅を果たしたのに、佐々木と賢治ではまるで月と太陽のようだ。
無理やり郷里の議員にさせられ、財政的な責任を負わされたことなど、不幸の連続であったが、それ以前に佐々木の文学性を柳田が忌避していたからだと言われている。柳田は彼を封じたわけではないだろう。ただ、彼の文章の叙情的なところを嫌った。
それでも柳田のお陰で佐々木は原稿料を得ることもあったようだ。結局、佐々木は柳田の傘から出ることが出来ずに48歳で亡くなる。
佐々木の最期の地は仙台の清水沼であった。
花巻の旅が終わってから、佐々木の終焉の地・仙台市宮城野区清水沼を訪ねてみた。沼そのものが消滅してしまっているので、当時のことはよくわからない。佐々木はこのころ郷里の資産をすべて取り上げられており、文字通り爪に灯をともすような生活であったと思われる。原稿の清書を手伝ってくれた娘もいまは亡く、失意の極みではなかったか。自身の書屋を誇った柳田とは大きな隔たりがある。
それでも、佐々木は藤原相之助らとの邂逅に恵まれ、仙台にも郷土学が興ることになる。
同時代には三原良吉、天江富三郎らがいて、みなマスコミを介して大いに仙台から文化を発信していた(「東北土俗講座」)。その環のなかに佐々木喜善はたしかに居て、その著作はいまも図書館に見ることができる。彼を以って曰く「日本のグリム」(追諡・大槻文彦)。
ただ、それでも郷土学というものは聞き伝えの収集が専らであり、科学のように検証や文献を重んずるようになるにはさらに時間が必要であった。
彼こそが遠野物語の土台。彼の語った話をもとに綴られたのが遠野物語だ。けれども柳田國男をヌキに遠野物語が成立しなかったのも事実である。
農政省の役人でもあった柳田には、物事を簡潔明瞭に説明できる文章力と、本を出版できるほどの人脈があった。
一方の佐々木は駆け出しの文学青年。自分の持っている知的財産の価値に気がついていなかった。
佐々木は実家も裕福だったのだが、彼のほんとうの知的財産とは、子供の頃から囲炉裏端や墓地やお社の片隅で繰り返し繰り返し聴いてきた不思議な不思議な遠野の昔話である。
ザシキワラシ、オシラサマ、山男、経年(ふったち)、迷い家(まよいが)、寒戸の婆(さむとのばば)・・・。
柳田に呼び出され、問われるままに佐々木は語る。言い方は悪いが、知的財産をタダで他者に譲っているようなものだ。「遠野物語」の冒頭で「佐々木鏡石」の名を出してもらったのが唯一のご褒美であったか。
柳田の功績で「民族学」が興り、遠野は一躍注目を浴びた。
けれど「佐々木鏡石」という作家が世にでることはなかった。
せっかく宮沢賢治との邂逅を果たしたのに、佐々木と賢治ではまるで月と太陽のようだ。
無理やり郷里の議員にさせられ、財政的な責任を負わされたことなど、不幸の連続であったが、それ以前に佐々木の文学性を柳田が忌避していたからだと言われている。柳田は彼を封じたわけではないだろう。ただ、彼の文章の叙情的なところを嫌った。
それでも柳田のお陰で佐々木は原稿料を得ることもあったようだ。結局、佐々木は柳田の傘から出ることが出来ずに48歳で亡くなる。
佐々木の最期の地は仙台の清水沼であった。
花巻の旅が終わってから、佐々木の終焉の地・仙台市宮城野区清水沼を訪ねてみた。沼そのものが消滅してしまっているので、当時のことはよくわからない。佐々木はこのころ郷里の資産をすべて取り上げられており、文字通り爪に灯をともすような生活であったと思われる。原稿の清書を手伝ってくれた娘もいまは亡く、失意の極みではなかったか。自身の書屋を誇った柳田とは大きな隔たりがある。
それでも、佐々木は藤原相之助らとの邂逅に恵まれ、仙台にも郷土学が興ることになる。
同時代には三原良吉、天江富三郎らがいて、みなマスコミを介して大いに仙台から文化を発信していた(「東北土俗講座」)。その環のなかに佐々木喜善はたしかに居て、その著作はいまも図書館に見ることができる。彼を以って曰く「日本のグリム」(追諡・大槻文彦)。
ただ、それでも郷土学というものは聞き伝えの収集が専らであり、科学のように検証や文献を重んずるようになるにはさらに時間が必要であった。
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