放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

<花巻界隈(幻想)紀行2>

2014年10月10日 01時28分21秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました
 遠野で山中をさまよったことを思い出すとき、いつも強い悪寒が走る。
 山肌が大雨呑んでおそろしく膨張しているのを目の当たりにして、強い恐怖を感じた。この迫り来る崖がくずれて僕らは押し流されるのか、それともあっさり呑みこまれるのか、息を詰めて通り過ぎた。
 山中、石に彫られた五百羅漢を見るために車から外に出た。そんなに長い時間いたわけではない。けれど車に戻る瞬間、子供は「大きな黒い背中」が後ろを横切って山に入っていくのを目撃している。その大きさは普通車くらいであったという。熊にしては大きすぎる。岩が動いたとも思えない(音もしなかった)。物質の世界では説明できない何かがそこにいたのである。そして僕の方向感覚はすっかり狂った(子供に災禍が寄らなくてよかった)。

 遠野で行き違った不思議なものについて思いかえすとき、その予兆のようなものは丹内山の鳥居を仰いだときから始まっていたような気もしてくる。どういうわけかあの鳥居をみたときから、この世ならぬ「異界」というものがあることを想像できた。古いSFのような発想で恥ずかしいのだが、鳥居が異界への入り口に見えたのだ。じっさいあの鳥居には鎮め物のようなものが吊り下げられていて、人が通れないようにしてあった。

 ―封じているんだ―、と思った。そう思うとなにか山全体があふれんばかりの霊気を含んでいるように感じてきたのだ。

 昔の人は「霊気」を感じて、現世と同時に存在する異界を想像し、二つの世界の接点がとつぜん口を開く瞬間に遭遇することを恐れた。そのとき人は、異界から来た神と行き逢い、または異界へとズレ込んで戻れなくなるらしい。そのような場所は山や森や川など自然の中あると信じていた。
 山中にあって鳥居はすなわち門であり、異界との接点となる。鳥居とは常に鳥がとまりやすいように作るのであって、異界の者がそこをよぎるときに鳥は驚いて鳴き騒ぐのである。ときにカラス(烏)がその任にあたり、のちに神の遣いとされるに至っている。
 古く在る「神奈備信仰」にあって、異界・異能の者がこの世に出現する、または異界へと迷いこんでしまうのを非力ながらも制限しようとしたのが鳥居の原型ではないだろうか。

【「山の神」の稿・補一】遠野郷には山神塔多く立てり、その処は曾て山神に逢ひ又は山神の祟を受けたる場所にて神をなだむる為に建てたる石なり(柳田國男「遠野物語」)

 柳田の考察は、背中に感じる悪寒の正体を言い当てているようでおそろしい。
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<花巻界隈(幻想)紀行1>

2014年10月10日 01時24分38秒 | あんなこと、こんなこと、やっちゃいました
 宮沢賢治の文章が好きで、「花巻」という土地にあこがれていた。きっと野山がたくさん残っていて、森の奥からすきとおった水がこんこんと湧き出ている。自然豊かな聖地であると思った。じっさい花巻市では賢治の愛した山河を大事にしてくれていて、いまでも賢治が見たであろう蒼い山や、雪どけ水をあつめて滔滔(とうとう)と流れる川の景色、そして大沢温泉のように琥珀色のフイトンチット(古い木造建築が醸す雰囲気)が楽しめる。
 花巻は、古くから城下町として栄えた。宮澤家も商家なので市街地に店構えをしていた。しかし残念なことに昭和20年に花巻空襲に遭い、屋敷は全焼。土蔵も数日後に煙を出して中のものはみんな蒸し焼きになったという。
 賢治の遺品も多くは焼けてしまったが、ただひとつ、柳行李に仕舞われていた原稿だけが弟・清六氏によって助けだされた。清六氏の命がけの行動に感謝する一方で、焼けてしまったその他の遺品がどのようなものであったのか、思いは遠くの空へと彷徨う。

 以前訪れた時は、まもなく賢治生誕100年を迎えるという慌ただしい時期で、いくつか賢治の研究書や雑誌の特集も出版されていた。
 花巻は、盛りあがっていたんだと思う。
 駅の棚に吊るされた五十や百の風鈴も、すみわたるカノンのような響きを共鳴させていた。
 けどなんだか「幻想」「心象」という言葉ばっかり一人歩きしている。
 それはまるで花巻の町からちょっと離れた野山の木々や小川にもそういうものがちりばめられているような気がして、そんなことをしたのはどこの賢治さんだ、いやいや野山に呪いをかけているわけじゃない、それはきっと勝手に期待している自分たちのしわざに違いないと、いろいろ思いをめぐらせながら迷い道したのを覚えている。

 あれから花巻には縁がなくて来れなかった。内心、神聖視しすぎて敬遠していたかもしれない。
 花巻の近くにも遠野や北上、江刺といった、豊富な霊異譚を持った町がたくさんある。
 花巻を「イーハトーブ=理想郷」とするならば、その周辺もまた妖しい不思議な空気が取り巻いているのである。だから感受性を研ぎ澄ましてみれば、慌ただしくもきれぎれに「幻想」とやらいうものが今も通り過ぎてゆく。

 そう、「幻想」はいつもきれぎれに届いていた。それはきっとはるか遠くで実際におきていることで、透きとおった楽器のようなあやうい器官をつたってときおり山や小川に届いているんだろう。
 僕達は、知らないうちに琥珀色や孔雀色したそれらの断片を受けとっていて、夜中に頭の中でがちゃがちゃっと組み立てている。いびつながらも形になれば「夢」に現れるし、形にならずにそっと棄てられるものもある。それでも形にならなかったものが心の底で悪さすることもあって、そんな夜はふいにおそろしい幻に逢ったりもするのである。

 賢治さんは幽霊や化け物など、あまり恐ろしいものは書かなかった。作品に出てくる「土神(つちがみ)」などは霊異的な存在だけど、ひどく人間的な悩みを抱えている。
 煤けた金のようなまなこを持つ山男も、その心根は純粋で、人を病みころすようなことはしない。

 けれど実際に北上や花巻、遠野といった地域に残る霊異譚は、時に真にせまる怖ろしさに満ちている。そこでは山男も我が子さえ喰らう悪鬼であり、決して純粋な心根を見せることはない。

 柳田國男の「遠野物語」では、異界の者と行き逢う話が出てくる。
 異界の者は神というよりは「あやかし」に近いであろうか。どういうわけか行き逢って福を得たという話にはならない。
 これが西日本に多い「行逢神(ゆきあいがみ)」と同じかどうかはわからない。しかし何かに行き逢ったことで感覚に混乱を来すという体験を、この旅で体験した。
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