放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

核エネルギーを考えよう(2)

2012年06月11日 14時03分35秒 | 東日本大震災
 昨日テレビでもやっていたが、福島県ー宮城県南部を流れる阿武隈川は、依然として高濃度の放射線量が観測されている。

 そもそも阿武隈川はたいへん長い川で、西白河郡西郷村より流れ、白河市、郡山市、福島市を貫き、伊達市や阿津加志山の名所を経て梁川、丸森町、角田市を過ぎ最後は岩沼市のフチをめぐって大洋へと注ぐ。
 
 お判りだろうか。
 この川は、放射能による汚染が懸念される都市を順に廻ってから大洋へ注いでいる。
 いわば震災以後より延々と放射能による汚染物質を集めてまわり、それを大洋へ排出し続けているのだ。
 これはこれで天然の浄化(除染)作用ではあるのだが、厄介なのは、放射性物質が流して安心できるようなシロモノではないということ。それどころか周囲を次々と汚染してまわり、生態へがっちりと喰い込んでゆく。
 
 この環境にニンゲンはどのような態度を取ればよいのだろうか。
 ある程度あきらめて付き合ってゆく?
 出来うる限りの除染を試みる?
 住み慣れた土地を棄てて、どこか遠いところを目指す?

 双葉町や飯舘村の悲しい決断を聞けば、そう簡単な話ではないことは想像に難くない。
 地元で酪農や事業を展開する人の中には支援が間に合わず自殺する人も出ている。
 躊躇している間に、僕らの身体にも放射性物質はどんどん入り込んできている。

 この契約は、もう解約できない。
 
 契約の履行すなわち現存する核燃料の完全消費だけが根本解決と言える。皮肉にも。
 そして流出した放射性物質にも同じ原則が実は存在する。
 隔離したところで、コンクリの箱はいずれ酸化して崩れてゆく。
 結局はエネルギーとして消費しない限り核物質は無くならないのだ。

 除染も隔離もエントロピーの拡散と集約に過ぎない。僕たちが繰り返しているのはそれだけのことなのだ。
 児戯に等しい。
 児戯に等しいながらも出来うるかぎり放射能を遠ざけようとしているのだ。それしか出来ない。それしか出来ない核エネルギーが、なぜ「安全でクリーン」だといえるのか。
 
 
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核エネルギーを考えよう(1)

2012年06月11日 13時11分10秒 | 東日本大震災
 まあ、核エネルギーを一言で言ってしまえば、それは「クーリングオフ期間をうっかり過ぎちゃった契約」なんでしょうね。

 ヤバい契約。
 いまさら「ナシ」にできない契約。
 
 でも契約したのはそれなりにメリットがあったからだ。
 無尽蔵のエネルギー。
 おそらく人類が作り出せる最高出力のエネルギーだろう。

 でも制御できない。
 遮断できない。消すことが出来ない。
 中和も出来ない。
 
 唯一沈静化させる方法がただ「冷す」だけ。
 なんて原始的・・・。

 東日本大震災による原発事故で、電力会社や保安員などの最終的な対応が、結局「ただ冷すだけ」だったことに絶句だった。
 完全に隔離できるわけでもなし、高温のプルトニウムを仕舞える容器があるわけでもなし(しかも溶けてるし)。
 電力会社のくせに停電の想定をしていなかったことも絶句。


 ところでさっき「契約」という言葉で核エネルギーをなぞらえたけれど、それは市民だって核エネルギーの導入に無関係ではなかったはずだから。
 きっと当初は何らかの説明が開発者から市民になされ、どんなに簡素化したものであれ、核エネルギーを導入することについて合意形成がなされただろうと想像するからである。
 もちろん、放射能の恐ろしさをよく知る当時のオトナたちには不安があっただろう。
 それでも日本の経済の発展には高出力の電力が必要だったのだろうし、それが市民の生活をも便利にしたはずなのだ。
 僕などはその便利になりつつある日本の世相をおぼろげながら覚えている世代でもある。
 家の家電はどんどん高出力になっていった。
 冷蔵庫、エアコン、オーディオヴィジュアル・・・。
 
 だから核エネルギーの導入は「契約」といえる。
 つまりは僕らもこれをとりあえずは納得して受け容れてきたのだ。

 けれど、いったん発生した放射能は消すことができないらしい。
 漏れ出した放射能は隔離できない。
 拡散した放射能は消えるまで長大な時間を要する。
 
 これ、かなり悪質な「契約」をさせられた感があるなぁ。
 そのとき人類はどうすればいいのだろう。
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