そもそも私たちは、余裕を得た暁にかなえたい何かなどもっていたのか? (p. 20)
「優雅」とか「知性的」などというのは珍しい語彙ではもちろんないが、私にとっては使用頻度が低い語彙でもある。「優雅」には閑雅、つまりときとして退屈な風情というおもむきがないわけではないし、「知性的」とか「知的」には衒学的(ペダンティック)な匂いがいくぶんかはつきまとうためである。
それでも、この本は字義通りの意味で「優雅で知的」と形容したくなる。だからといって、けっして教養主義的でも文化主義的でもない「知」の本である。
パスカルやラッセルという教養の香り高い思想家を引きつつ、人類が定住するかしないかの時代まで遡って暇と退屈の考察に入っていく導入は、ゆったりと優雅な知的逍遥の趣きがある。
例えば『「好きなこと」とは何か?』というタイトルの序章に登場する思想家はバートランド・ラッセル、ジョン・ガルブレイス、マックス・アドルノとテオドール・ホルクハイマー、ウイリアム・モリス、アレンカ・ジュバンチッチと続く。そして、「豊かな社会」「バラで飾られる生きること」を求めてきた人類が到達しえた現在を素描し、次章以降への入口を準備する。
しかし、そこで示唆されている事象は、「優雅」とは対極にあるものである。現代人は「大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち」を「恐ろしくもうらやましいと思うようになっている」と語るジュバンチッチを引いて、著者はこう述べている。
ジュバンチッチは鋭い。だが、私たちは〈暇と退屈の倫理学〉の観点から、もう一つの要素をここに付け加えることができるだろう。大義のために死ぬのをうらやましいと思えるのは、暇と退屈に悩まされている人間だということである。食べることに必死の人間は、大義に身を捧げる人間に憧れたりしない。
生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうした中に生きているとき、人は「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望する。大義のために死ぬとは、この羨望の先にある極限の形態である。〈暇と退屈の倫理学〉は、この羨望にも答えなければならない。 (p. 29)
この序章の最後で、人(私ということだが)は、この本がけっして優雅な主題を奏でるわけではないことを知る。「国家の大義」を声高に主張する右翼政党が右傾化をさらに強めた形で復帰した日本の現在では、「大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち」そしてそれを「恐ろしくもうらやましく思う」人々を生みださない、あるいはそういう人々に対抗するために、この本が生みだされたのではないか、とすら思えてくる。もちろん、日本社会の全般的な右傾化傾向はあったとはいえ、この本は2012年2月の総選挙の1年以上も前に出版されているのだが。
本書は、〈暇と退屈〉についてその〈原理論〉(第一章)、〈系譜学〉(第二章)、〈経済史〉(第三章)、〈疎外論〉(第四章)、〈哲学〉(第五章)、〈人間学〉(第六章)、とじつに広大な「知」の領域を逍遥しつつ、〈倫理学〉(第七章)に向かっていく構成になっている。
その理路の構図は、ハイデッガーが語るところの存在の「呼び声」としての退屈、人間の実存から湧き上がる「何となく退屈だ」という自己意識、そのように在り続ける人間存在を時間の縦軸(歴史軸)として、そして、ポストモダンの思想家たちがつとに明らかにしてきたような記号消費に喘ぐ現代の私たちのありようを横軸(空間平面)とする時空で組み立てられ、著者はその知的時空の理路を丁寧に辿っているのである。
章立てから明らかなように、その知的領野は広大にわたり、そのすべての領野にわたって触れてみることは難しいので、ここでは興味ある(ごくごく私的に)記述をピックアップしてみることにする。
第四章の〈疎外論〉ではマルクスを踏まえた議論の道筋から、ボードリヤールの「〔消費社会における〕疎外された人間とは、衰弱し貧しくなったが本質までは犯されていない人間ではなく、自分自身に対する悪となり敵に変えられた人間だ」 (p. 163) を引用したうえで、「疎外」について次のように述べている。
つまり、「疎外」という語は、「そもそもの姿」「戻っていくべき姿」、要するに「本来の姿」というものをイメージさせる。これらを、本来性とか〈本来的なもの〉と呼ぶことにしよう。「疎外」という言葉は人に、本来性や〈本来的なもの〉を思い起こさせる可能性がある。
〈本来的なもの〉は大変危険なイメージである。なぜならそれは強制的だからである。何かが〈本来的なもの〉と決定されてしまうと、あらゆる人間に対してその「本来的」な姿が強制されることになる。本来性の概念は人から自由を奪う。
それだけではない。〈本来的なもの〉が強制的であるということは、そこから外れる人は排除されるということでもある。何かによって人間の「本来の姿」が決定されたなら、人々にはそれが強制され、どうしてもそこに入れない人間は、人間にあらざる者として排除されることになる。 (p. 165)
ここには、人間社会が歴史上一度たりとも解決したことがない矛盾が語られている。宗教も哲学も政治思想も「本来の姿」を語り続け、強要し続けてきた。そのため、宗教=信仰に名を借りた戦争、殺戮は現代においても止む気配はまったくない。「民主主義」の名において無数のイラク人がハイテク兵器の標的となり、それを私たちはCNN提供のドラマのように楽しんでいた(?)のはごく最近のことである。
しかし、私たちは「本来の姿」を措定したがる性癖から抜け出せるだろうか。人間の思考を鍛えるべき(フッサール流にいえば「諸学の基礎」としての)哲学もまた、「本来の姿」論の究極ともいえるプラトンの「イデー」論の伝統の中にいる。課題は明確でも、解決は困難なのではないかと思えるのである。
「本来性」と「疎外」については、マルクスの『ドイツ・イデオロギー』の一節を引用したうえで、次のようにも述べている。
「欠乏と外的有用性によって決定される労働」が支配している社会では、「どこでもすきな部門で、自分の腕をみがくこと」などできない。だからそれが廃棄されなければならない。
大切なのは、魚釣りはしても漁師にはならなくてよい、文芸評論をしても評論家にならなくていいということではないだろうか? それは余暇を生きる一つの術である。
マルクスの疎外論を読み解くためには、本来性なき疎外という概念が必要である。アレントにはそれがなかった。 (p. 192-3)
ハンナ・アレントが誤読し、アレント好きの私も例に漏れないのだが、「疎外」論は難しいのだ。「本来性なき疎外」という概念は、私にとっては新鮮で眼を開かれる思いがする。
第五章〈哲学〉ではもっぱらマルティン・ハイデッガーの〈暇と退屈〉をめぐる哲学が論じられる。その要諦は、著者によって「ある種の深い退屈が現存在の深淵において物言わぬ霧のように去来している」 (p. 204) と述べられる。
ハイデッガーは暇と退屈を二つの形式に分ける。一つは「何かによって退屈させられること」(第一形式)、もう一つは「何かに際して退屈すること」(第二形式) (p. 205)。前者は電車の待ち時間のように本人が望まないのに与えられる暇から生じる退屈、後者は退屈をやりすごそうとして積極的にパーティーなどに参加するものの、にもかかわらずそれに際して感じる退屈である。
この二つの退屈の形式の考察から、ハイデッガーは「もはや気晴らしが不可能であるような、最高度に「深い」退屈」(第三形式)を提起する。それは「なんとなく退屈だ」という退屈で、これが現存在(人間存在)の深淵から去来する退屈なのである。
このあたりの議論はこの本の楽しみどころの一つなので詳述しないが、著者はハイデッガーの結論に疑問を呈する。第三形式の退屈に曝される人間は自分が自由であるという可能性がある。そしてその可能性が実現されるのは「決断することによってだ」というのがハイデッガーの結論である。それを受けて、著者はこう述べる。
だが、だとしても、最終的なハイデッガーの解決策はどうも腑に落ちない。
たとえば、自分にはすべての可能性が否定されていると感じ、まさしき「広域」を生きながら部屋に閉じ籠もっている人間に対して、「お前はいま現存在(人間)の可能性の先端部を見ることを強制されているのだ。どうだ見てみろ。お前の現存在としての可能性が見えるだろう。だったら決断してそれを実現してみろ」などと言っても、どうなのだろう。
………
いずれにせよハイデッガーの結論には受け入れ難いものがある。しかし、彼の退屈の分析はきわめて豊かなものである。特に退屈の第二形式の発見。そこには〈暇と退屈の倫理学〉を考えるうえでの大きなヒントがある。 (p. 245)
そもそも実存の深淵から退屈の呼び声を聞く人間存在とはどういうものか。ふたたびハイデッガーの「(1)石は無世界的である。(2)動物は世界貧乏(ひんぼう)的である。(3)人間は世界形成的である。」という三つの命題から始まる。つまり、こういうことだ。
人間は世界を世界として経験できる。人間だけが世界そのものに関わることができる.言い換えれば、人間には世界が世界として与えられている。これは人間だけの特権であり、動物には許されていない。なぜなら、動物はあるものをあるものとして経験することができず、したがって、世界を世界として経験することができないからだ。 (p. 251)
「当然反論もあるだろう」と著者は続けるが、その通りである。ここには人間だけが(神に愛されている)特別な存在だというヨーロッパ哲学の抜きがたい信仰(と私は思う)がある。この伝統は、ヨーロッパ人が文化を創出してきた、世界でアメリカ人だけが民主主義を実現できる、などという現代社会の病理のような思想の基底ではないかと私は疑っているのである。命題(3)だけなら、まったく問題ないのではあるが。
著者は、世界形成的である人間存在をユクスキュルの「環世界」という概念によって解明しようとする。生物は生物固有の世界(環世界)を生きている、というのである。
かなり以前のある生物学者の講演で、哺乳動物のそれぞれの種はそれぞれ固有の時間を生きている、という話を聞いたことがある。異なった種は異なった平均寿命をもつが、寿命を一生の心臓総拍数で規格化すればほぼ等しい、というのである。心臓の一拍を時間の1単位とすれば、ネズミも象も同じ長さの時間を生きることになる、そのようにそれぞれの種は固有の時間を生きるというのである。
時間と同様に、生物種は空間のすべてに関わって生きているわけではない。その生物種がそれと認識し、生きるために利用する必要にして十分な固有な空間があって、先の固有時間とこの固有空間からなる世界が、その生物種の「環世界」である(と私は理解した)。
宇宙物理学者とひなたぼっこする者を比べて見ればいい。彼らは太陽をまったく違う仕方で体験する。
ならば、ミツバチがミツバチの環世界を生きる、トカゲがトカゲの環世界を生きるように、宇宙物理学者は宇宙物理学者の環世界を、ひなたぼっこする者はひなたぼっこする者の環世界を生きているとは言えるのではないか? (p. 278)
じつは、この箇所でも私はつまずきそうになったのである。ミツバチはミツバチという種で一括り、トカゲはトカゲという種で一括りなのに、「宇宙物理学者」と「ひなたぼっこする者」はヒトという種で括られないのである。ヒトの特別性は生物種の概念を越えるほどのものなのか。大げさに言えば、そう感じたのである。
しかし、著者はそのことを十分に心得ていて、次のように結論する。
さて、環境への適応、本能の変化は、当然ながら環世界の移動を伴うだろう。それは長い生存競争を経て果たされる変化である。容易ではない。だが、すこしも不可能ではない。こうしてみると、あらゆる生物には環世界を移動する能力があると言うべきなのだろう。
人間にも環世界を移動する能力がある。その点ではその他の動物(さらには生物全般)と変らない。ただし、人間の場合には他の動物とはすこし事情が異なっている。どういうことかと言うと、人間は他の動物とは比較にならないほど容易に環世界の間を移動するのである。つまり環世界の間を移動する能力が相当に発達しているのだ。 (p. 283-4)
生物種は環世界を移動する能力があるが、人間は他の生物種に較べれば「相対的に」その能力は発達している、と主張するための「宇宙物理学者」と「ひなたぼっこする者」のたとえ話だったのである。
第七章〈暇と退屈の倫理学〉に至って、〈哲学〉と同様に、思索はいっそう深まる。ふたたびハイデッガー哲学に戻り、キルケゴール、ニーチェ、そしてコジェーヴの「歴史の終わり」概念の批判にまで進む。この章も、本書の楽しみどころなので引用は最小にしておこう。
そして、衝動によって〈とりさらわれ〉て、一つの環世界にひたっていることが得意なのが動物であるのなら、この状態を〈動物になること〉と称することができよう。入間は〈動物になること〉がある。
退屈することを強く運命付けられた人間的な生。しかしそこには、人間らしさから逃れる可能性も残されている。それが〈動物になること〉という可能性である。 (p. 332-3)
人間は自らの環世界を破壊しにやってくるものを、容易に受け取ることができる。自らの環世界へと「不法侵入」を働く何かを受け取り、考え、そして新しい環世界を創造することができる。この環世界の創造が、他の人々にも大きな影響を与えるような営みになることもしばしばである。たとえば哲学とはそうしてうまれた営みの一つだ。 (p. 335)
「暇と退屈をどう生きるか」についても具体的に記されているが、ここでは触れない。さて、『暇と退屈の倫理学』は、次のような〈倫理学〉にふさわしい言葉で締め括られるのである。
世界には思考を強いる物や出来事があふれている。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はそれを受け取ることができるようになる。〈人間であること〉を楽しむことで、〈動物になること〉を待ち構えることができるようになる。これが本書『暇と退屈の倫理学』の結論だ。 (p. 354-5)