かわたれどきの頁繰り

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【書評】ナオミ・クライン(幾島幸子、村上裕見子訳)『ショック・ドクトリン』(岩波書店、2011年)

2013年07月12日 | 読書

  

 

 読んでいてどんどん不機嫌になっていく。ノームチョムスキーの『覇権か、生存か』を読んでいたときとまったく同じ感覚だ。チョムスキーの本の副題が「アメリカの世界戦略と人類の未来」で、クラインの本書の副題が「〔アメリカの〕惨事便乗型資本主義の正体を暴く」となっていて、それぞれの本の主題がほぼ同じであることをよく示している。そして、この2冊は、アメリカ合州国という国家が世界のあらゆるところで展開したきわめて反倫理的な政治的振る舞いを詳述していて、読む者に耐え難い不快を誘発するのだ。いわゆる《帝国》の現代史なのである。
 二人の著者はともに、最終的にイラク侵攻に至るアメリカ合州国の世界戦略(といえば聞こえはいいが、陰謀と軍事侵攻と経済侵略)を、チョムスキーは「政治」に力点を置いて、クラインは新自由主義的「経済」に力点を置いて、論証し、批判している。

 チョムスキーの著書は、〈9・11〉とその後のアメリカ合州国の政治的言説、政治的行動を詳細な事実に基づいて批判的に検証している。たとえば、それはブッシュの行動に集約されて表現された政治行動である。

二〇〇二年九月、ブッシュ政権は国家安全保障戦略を発表し、アメリカの世界的な覇権に異を唱えるものを、武力に訴えて排除する権利がアメリカにはあると宣言した。アメリカの覇権は永久に不滅だというのである。この新しい壮大な戦略は、世界中を――アメリカ国内の外交政策の専門家をも――深く憂慮させた。 [2]

 このブッシュの政治思想は彼固有のものではけっしてない。アメリカ合州国が営々と築き上げてきたアメリカ的「資本主義」とアメリカ的「自由主義」の必然的帰結なのである。

それから〔17世紀イギリスの最初の近代民主主義革命で起こって以来〕ほぼ三世紀後に、ウィルソンの理想主義と一般に呼ばれるものが、似たような立場をとるようになった。海外では「少数ながら善良な者たち」の手で統治させることが米国政府の責任であり、国内ではエリ—トが意思決定をし、一般大衆がそれを承認するシステムを擁護する必要があるという考え方である。これは政治学の用語で言う「多頭政治」であって、民主主義ではない。 [3]

 もとより第28代大統領(1912~1921年)だったウッドロー・ウィルソン自身は、ハイチやドミニカを属国化し、メキシコ革命には米軍を送り込み露骨に干渉し、国内ではナショナリズムを煽って労働運動や反戦運動を弾圧したのであって、ブッシュは文字通り由緒正しいウィルソンの末裔なのである。「少数ながら善良な者たち」とはアメリカの支援によるクーデターで成立した軍事政権のことであり、独裁によって国家の経済資産を集約して(大衆から簒奪して)アメリカ資本に貢献するようなアメリカにとって「善良」な反民主主義者のことである。

 ブッシュは、「民主主義」を標榜しつつイラクに武力侵略を行うが、アメリカ合州国の政治支配層は歴史的に一貫して「民主主義」を毛嫌いしてきたのではないか。いかにハンナ・アーレントやアレクシ・ド・トクヴィルがアメリカ型デモクラシーを称揚しようとも、それはあたかもアーレントが古代ギリシャ形デモクラシーに基礎的な範を見るように、アメリカ合州国の政治支配層だけに適用されるデモクラシーであって、アメリカの「一般大衆」や他国にはけっして適用されない。

 ナオミ・クラインの著書は、いわば、アメリカ合州国(の政治支配層、ホワイト・エスタブリッシュメント)が世界中の民主主義をいかに憎悪し、陰謀と武力によってそれを壊滅せしめたうえで経済侵略、搾取を果たしてきたかということの歴史的証明なのである。

 クラインは、まず「惨事便乗型資本主義」を簡潔の次のような定義する。

 壊滅的な出来事が発生した直後、災害処理をまたとない市場チャンスと捉え、公共領域にいっせいに群がるこのような襲撃的行為を、私は「惨事便乗型資本主義(ディザスター・キャピタリズム)」と呼ぶことにした。 (上、p. 6)

 そして、2巻に及ぶ大部の著書は、惨事便乗型資本主義の数限りない悲惨な実例を歴史的な事実として次々と私たちの前に映し出して見せる。そこでは、アメリカ合州国は首尾一貫して地球上のすべての国をアメリカの周辺国化しようと意図しているようである。しかも、その手法はきわめてシステマティックであって、人事的手段、軍事的手段、経済的手段、心理的手段を過不足なく備えているのだ。

 クラインは、惨事便乗型資本主義のベーシスとなる手段・理論を開発・主張する「ふたりのショック博士」を挙げる。

 その一人は、カナダ、モントリオールのマギル大学付属アラン記念研究所・所長のユーイン•キャメロン博士である。一九五〇年代にCIAの依頼を受けて、大量の薬物投与による人格破壊の実験を行った。CIAは、彼の「科学的成果」を強力な拷問手法として、イラクのアブグレーブ刑務所やグアンタナモ基地の収容所に至るまで、世界中で「応用実践」することになる。この「人体実験」は70年代後半に明るみに出て、CIAとカナダ政府は巨額の賠償金を支払うことになるが、「科学的成果」はいまだにCIAの「知的財産」であることには変わりない。

 キャメロンは今日のアメリカの持つ拷問技術の開発に中心的役割を果たしただけではない。彼の行なった実験は、惨事便乗型資本主義の根底にある論理もユニークな形で浮き彫りにしている。大規模な災害――巨大な破壊――だけが「改革」のための下地を作るとの考えに立つ,自由市場経済学者たちと同様、キャメロンは人間の脳に一連のショックを与えることによって、欠陥のある心を消去し、白紙状態になったところに新しい人格を再形成できると考えたのである。 (上、p. 37)

 もう一人のショック博士は、シカゴ大学のミルトン・フリーマン教授である。1976年にノーベル経済学賞を受賞した自由主義的経済学者の代表的存在である。シカゴ学派と呼ばれる彼と彼の弟子たちはその新自由主義的経済理論を携えて、キャメロンの拷問手法を携えたCIAと同じ国々の同じ舞台で活躍するのである。もちろん、それはアメリカ合州国の「世界戦略」を担う戦力として、圧倒的な経済力と軍事力を背景としている。

 フリードマンはキャメロンと同様、「生まれながらの」健康状態に戻すことを夢のように思い描き、それを使命としていた。人問の介入が歪曲的なパターンを作り出す以前の、あらゆるものが調和した状態への回帰である。キャメロンは人問の精神をそうした原始的状態に戻すことを理想としたのに対し、フリードマンは社会を「デバターニング」し、政府機制や貿易障壁、既得権などのあらゆる介入を取り払って、純粋な資本主義の状態に戻すことを理想とした。またフリ—ドマンはキャメロンと同様、経済が著しく歪んだ状態にある場合、それを「堕落以前」の状態に戻すことのできる唯一の道は、意図的に激しいショックを与えることだと考えていた。そうした歪みや悪しきパターンは「荒療治」によってのみ除去できるというのだ。キャメロンがショックを与えるのに電気を使ったのに対し、フリードマンが用いた手段は政策だった。彼は苦境にある国の政治家に、政策という名のショック療法を行なうよう駆り立てた。だがキャメロンとは違って、フリードマンが抹消と創造という彼の夢を現実世界で実行に移す機会を得るまでには、二〇年の歳月といくつかの歴史の変転を要した。 (上、p. 68-9)

 「世界戦略」という名の経済侵略は、そのときどきの国の事情によって異なるが、基本はその国家が新自由主義的経済政策を採用すること(採用させること)である。たとえば、「自由」な経済活動を目的として国家事業の民営化を徹底すると、国家資産が民間資本に移る際に寡占化が進み、「富める者はより富み、貧しい者はより貧しく」という格差拡大が生じる。これは新自由主義経済政策をとれば必然的に生じる現象で、日本で小泉政権以降に顕著に格差が拡大したのはそのせいである。さらに経済の自由化は、国際資本への解放を意味していて、国際資本という名のアメリカ資本による国家資産の搾取が進むのである。

 ある国がアメリカ合州国の望む新自由主義的経済政策を採用しない、あるいは拒否する場合は、クーデターを支援することで期待される政府を樹立するというのがアメリカによって普通に採用されるシナリオである。

 クーデターの初期の例としては、1953年にCIAがイランのモサデク政権を倒しシャーによる独裁政権を作り上げたことが挙げられる。翌年には、農地改革を進めるグアテマラに農地を有するアメリカ企業の権益を守るためCIAがグスマン政権を倒した。

 1964年にはアメリカに支援された軍事政権がブラジルで成立し、大企業優先の経済政策で国民の貧困化が進むことに反軍事政権運動が起きるが、「国家による殺人は日常茶飯事」 (上、p. 92) となるような弾圧のもとでCIAの「知的財産」としての拷問手法が大いに活用されたのである。
 経済における典型としては、1965年に自国経済を守るために国際通貨基金(IMF)と世界銀行から脱退したインドネシアにおいて、CIAの支援を受けたスハルト将軍がスカルノ政権を倒すことに成功した。現在に至るまでIMFの存在意義がアメリカの世界戦略の先兵にあることは、ネグリ&ハートも指摘している。

今やIMFの基本的なプロジェクトは、対象となる国々にケインズ主義的社会政策を放棄してマネタリスト政策を採るよう強いている。IMFは、経済が疲弊した国や貧困国に対し、公共福祉支出の縮小や公的な産業と富の民営化、負債の削減などの新自由主義的な方策を採るよう指示するのだ。 [4]

 一九八三年、IMFは本格的な「構造調整」プログラムを発表する。以後二〇年間、IMFは大規模融資を求めてきたすべての国に対し、経済の徹底した改造が必要だと言い続けてきた。八〇年代を通じてラテンアメリカ、アフリカ諸国に向けた構造調整プログラムを作成してきたIMFの上級エコノミスト、ディヴィソン•ブドゥーはのちにこうふり返っている。「一九八三年以降われわれがやったことは、何がなんでも南を「民営化」させるという新たな使命に基づいていた。この目的のため、われわれは一九八三〜八八年にかけて、ラテンアメリカとアフリカに経済的混乱を引き起こすという恥ずべきことをやってきたのです」 (上、p. 229)

 もっとも典型的なアメリカ合州国の「国際戦略」が展開した例は1970年以降のチリであろう。アメリカ合州国支配層の本性としての「民主主義への憎悪」がチリで爆発するのである。

 一九七〇年、チリでは大統領選挙で人民連合のサルバドール・アジェンデが勝利し、同政権はそれまで国内外の企業が支配していた経済の主要な部分を国有化する政策を打ち出した。アジェンデはラテンアメリカの新しいタイプの革命家の一人だった。チェ・ゲバラと同じく医者だったが、アジェエンデはロマンティックなゲリラと言うより、気さくな学者といった雰囲気を漂わせていた。フィデル・カストロに勝るとも劣らない激しい調子で街頭演説を行なったが、チリにおける社会変革は武装闘争ではなく選挙によってもたらされるべきだという信念をもつ、徹底した民主主義者でもあった。アジェンデが大統領に当選したことを知ったニクソンが、リチヤード・ヘルムスC1A長官に「経済に悲鳴を上げさせろ」と命じたというのは有名な話だ。この選挙結果はシカゴ大学経済学部にも波紋を広げた。アジェンデが当選したとき、たまたまチリにいたアーノルド・ハーバーガーは本国の同僚に手紙を書き、選挙は「悲惨」な結果に終わったこと、そして「右派の間では軍事力による政権奪回も時に話題に上る」と書いている (上、p. 88-9)

 アメリカでは即刻、チリ国家の経済崩壊をもくろんで民間企業による「チリ特別委員会」が組織され、ニクソン政権にクーデターの要請まで行った。チリ国内では、CIAの経済支援を受けたシカゴ・ボーイズ(シカゴ学派の薫陶を受けた経済学者集団)がクーデター後の経済政策を軍部に提示しつつクーデターを煽ったし、多くの学生がファシスト集団「祖国と自由」に加わるなどシカゴ・ボーイズが拠点とするカトリック大学は「クーデター環境」(CIA用語)を作り出す拠点となった。
 ますますチリ国民の支持をひろげつつあるアジェンデ政権にたいして、事は急がれた。「軍はアジェンデとその支持者の壊滅を、経済学者が彼らの思想の壊滅を」 (上、p. 98) 目指して、1973年にクーデターは実行される。

 アジェンデ政権の転覆は一般に軍事クーデターと呼ばれているが、アジェンデ政権の駐米大使オルランド・レテリエルはこう書く。「チリで「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれている連中は軍の将軍の持つ残虐性をさらに強化するとともに、軍に欠けている知的資産を補完することを確約した」
 実際に起きたチリのクーデターは、三つの明確なショックを特徴としており、これはその後近隣諸国で、そして二〇年後にイラクでくり返されることになる。クーデターによる最初のショックの直後に続く二つのショックのうち、ひとつはミルトン・フリードマンの資本主義的「ショック療法」である。今やラテンアメリカには、シカゴ大学およびその多様なフランチャイズ組織でこの技術の教えを受けた経済学者が数百人にも上がっていた。もうひとつはユーイン・キャメロンのショックで、薬物と感覚遮断を用いるこの方法はクバーク・マニュアルに拷問技術として体系化され、ラテンアメリカの警察や軍で実施されるCIAの訓練プログラムを通じて普及していた。
 この三つの形態のショックはラテンアメリカ全体およびその地域の国民に集中砲火を浴びせ、それによって破壊と再建、抹消と創造が相互に強化しあう、止めようのない嵐が吹き荒れることになった。クーデターの衝撃は経済的ショック療法を実施するための素地を作り、拷問室のショックは、経済的ショックを阻もうと考える人たちすべてを恐怖に陥れた。この生きた実験室から「シカゴ学派国家」第一号が生み出され、シカゴ学派が推進する国際的反革命に初めての勝利がもたらされたのだ。 (上、p. 99)

 後にクーデターを起こしたピノチェトは犯罪者として断罪されることになったのは当然であるが、そのことでアメリカ合州国支配層の犯罪が訴追されたということはもちろんない。

 チリのような例は枚挙に暇がない。1973年、ウルグアイで軍事クーデター。1976年、アルゼンチンでペロン政権が軍事政権に取って代わられる。二つの軍事政権も批判勢力を暴力によって弾圧し、多くの国民を葬りさった。ブラジル、チリ、ウルグアイ、アルゼンチンと続く国々での経済浄化、思想浄化はシカゴ学派とCIAの指導下で苛烈を極めたのである。それは時として「ジェノサイド」と名指された。

 その後も、シカゴ学派あるいはその流れをくむ新自由主義経済学者は陽の顔で、CIAは陰の顔で様々な国家の政変時に関与(干渉)していく。ポーランド民主革命の主体であった「連帯」政権は、革命後の国家運営のためにIMFからの資金を必要とし、そのため経済学者ジェフリー・サックスの提案する国民にとって苛烈な新自由主義政策を導入せざるをえなかった。そのため、連帯はポーランド国民の支持を失い、政権の座から降りることになる。いわば、ポーランドの民主化革命はその成果を「惨事便乗型資本主義」に盗まれたのである。

 同じように、アメリカによって支えられてアパルトヘイト政策を続けてきた南アフリカの白人(デクラーク)政権は、マンデラによる人種解放革命が不可避と見るや、新自由主義的政策とシステムを引替えに政権を引き渡したのだが、これは、人種隔離政策から黒人は解放されたが貧困化がいっそう激しくなるという歴史の指し示す経験通りになった。これもまた人種解放革命の成果が「惨事便乗型資本主義」に盗まれた例と言えよう。

 ジェフリー・サックスをはじめとする新自由主義者は、ソ連解体時のエリツィンの政変にも干渉するが、珍しくこれは成功例と言えない。民営化、自由化という名目のどさくさ紛れの国家資産の分捕り合戦でアメリカ資本はいい目を見なかった。オリガルヒというロシアの資本がその成果のほとんどを海外資本に渡すことなく独占したためである。

 ロシアの主要な国家資産をがっちりと支配下に置いたオリガルヒが、新しい会社を優良多国籍企業に向けて公開すると、たちまちその大半は先を争って買い上げられた。一九九七年、ロイヤル・ダッチ・シェルとブリティッシュ・ペトロリアム(BP)はロシアの二大石油企業ガスブロムとシダンコと提携。これらはたしかにかなりの利益を見込める投資だったが、それでも最大の利益は外国のパートナーではなく、 ロシア人の手に渡った。のちにボリビアとアルゼンチンで国営企業が民営化され、競売に出されたときには、IMFとアメリカ財務省はこの手落ちを修正することに成功している。侵攻後のイラクでは、アメリカはさらに進んで、大きな利益の見込める民営化取引にはいっさいイラク国内の資産家を参加させないよう、締め出しを図った。 (上、p. 329)

 ロシアからイラクへと、アメリカによる「惨事便乗型資本主義」は進化しているのである。世界の多くの国において、その国家資産を搾取する手段としての「惨事」そのものは、クーデターであれ政変であれ曲がりなりにもその国民が表に立って遂行されてきたのだったが、イラクではその「たてまえ」もかなぐり捨てられ、アメリカの直接的軍事侵略によって「惨事」を生み出すという事態に至った。これが未来のアメリカ型惨事便乗型資本主義のモデルになるとすれば、身の毛のよだつような世界が私たちを待ちうけているということだろう。

 惨事便乗型資本主義の顕在化した例は私たちの日常にも溢れている。クラインが描く一つの例は、2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震による大津波で二五万人もの命が失われた。被災地の一つスリランカのアルガムベイ地区では被災地の再開発計画は例のごとく大資本による観光開発で、その土地で暮らしてきた漁民の生活を一挙に奪うことになった。
 似たようなことは東北地方太平洋沖地震、いわゆる〈3・11〉大地震後の宮城県で起きた。宮城県は被害を受けた漁業復興の名目で、県漁連・漁民の反対を押し切って漁業権を企業に売り渡すことを可能にする特区構想を強行した。被災地に限らず日本の漁民の暮らしのよりどころである漁業権が漁民から取り上げられるという事態が、未曾有の災害に便乗して生じたのである。松下政経塾出身の宮城県知事らしい新保守主義的「惨事便乗型資本主義」なのである。

 自然災害を好期の「惨事」とした例は、他にも例証されている。2005年のハリケーン・カトリーナの被災後のニューオーリーンズでも起きた。どさくさに紛れて州の公教育システムが民間に売り渡されたし、〈3・11〉後の日本と同様に復興のための膨大な資金のほとんどが被災者ではなく惨事便乗会社に流れていった。被災者はいっそう貧しく、便乗した者はいっそう豊かになる。クラインはそれを「災害アパルトヘイト」と呼ぶ。イラクと同様、被災地に豊かな地区と放置された広大な貧しい地区とが豁然と分離されて存在しているのである。 

 激しいショックを与え、気絶状態の国や国家から収奪するというアメリカ型新保守主義はイラクの現在に見るように成功し続けているかのようだ。しかし、クラインは「ショックからの覚醒」と呼ぶ新しい抵抗が生まれていることも告げている。

 まずひとつは、「ショック療法」に携わった政治家、経済学者が罪に問われ始めたことである。チリのピノチェト元大統領は,汚職と殺人の罪で裁判にかけられた。ウルグアイのボルダベリ元大統領は殺人容疑で逮捕された。アルゼンチンでも、ホルへ•ビデラ元大統領とエミリオ•マセラ元提督に終身刑、軍政下の中央銀行総裁で経済的ショック療法を導人したドミンゴ・カバーロも「行政詐欺」罪で起訴された。

 アメリカの世界経済支配の先兵であったIMFもまた救援融資元として一方的に尊重される時代は終りつつあるようだ。

膨大な債務のせいで長期にわたって米政府に縛られてきたブラジルは、IMFとの融資協定を更新しないことを決めた。ニカラグアはIMFからの脱退を交渉中で、ベネズエラはIMFと世界銀行の両方から脱退した。かつてはワシントンの「模範生」だったアルゼンチンでさえ、同じ流れに加わっている。キルチネル大統領は二〇〇七年の一般教書演説でこう述べた。海外の債権者たちは、「「負債を返済するためにはIMFと協定を結ばなければだめだ」と言ってくるが、私たちはこう答える。「わが国は主権同家だ。負債はお返ししたいが、金輪際IMFと協定を結ぶつもりはない」と」。こうして八〇〜九〇年代には絶大な力を振るったIMFは、南米ではすっかり影響力を失った。二〇〇五年、IMFの融資総額のうちラテンアメリカ諸国への融資は八〇%を,占めていたが、二〇〇七年にはわずか 一%に激減している。たった二年で潮の流れは大きく変わった。「IMFと縁を切っても生きる道があります」と、キルチネルは高らかに宣言した。「しかも、素晴らしい生き方ができるのです」  (下、p. 667-8)

  「わずか三年問で、IMFの世界各国への融資総額は八一〇億ドルから一一八億ドルに縮小し、現在の融資の大部分はトルコに対するもの」 (下、p. 668) というほどIMFの凋落は著しい。

 レバノンでも反乱が起きた。2006年のイスラエルによる侵攻後の復興に際し、「ショック・ドクトリン」として国際金融機関から押しつけられた自由主義経済「改革」をレバノン政府が飲まざるを得ない状況で、レバノン国民は激しく抵抗を始めたのである。
 あるいは、2004年3月に起きたスペインの列車爆破事件をバスク分離主義者のテロと決めつけ、テロへの戦争としてイラクへ派兵したスペイン政府を支持するよう求めたアスナールに対して、スペイン国民は爆破事件から3日後の総選挙でノーを突きつけた。「フランコ時代の恐怖を記憶する国民」は、「過去のショックに対する国民の記憶」によって「新たなショックへの抵抗をもたらした」 (下、p. 676) と言うことができよう。

 アメリカが世界中で遂行した「惨事便乗型資本主義」が、そのショック・ドクトリンが世界の人々にショックそのものを記憶させたこと自体が、反転して世界の希望になるかも知れない、いや、希望そのものでなくてはならない、ということなのだと思う。

 

[1] ノーム・チョムスキー(鈴木主税訳)『覇権か、生存か――アメリカの世界戦略と人類の未来』(集英社、2004年)。
[2] 同上、p. 7。
[3] 同上、p. 11。
[4] アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート(幾島幸子訳、水島一憲、市田良彦監修)『マルチチュード/〈帝国〉時代の戦争と民主主義(上)』(NHKブックス、2005年)p. 282。