かわたれどきの頁繰り

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【書評】辺見庸『瓦礫の中から言葉を――わたしの〈死者〉へ』(NHK出版、2012年)

2013年07月28日 | 読書

          

夜ふけの浜辺にあおむいて
わたしの死者よ
どうかひとりでうたえ
浜菊はまだ咲くな
畔唐菜はまだ悼むな
わたしの死者ひとりびとりの肺に
ことなるそれだけのふさわしいことばが
あてがわれるまで
   「死者にことばをあてがえ」(詩集『眼の海』毎口新聞社より)部分  (p. 11)

 著者は、「橋――あとがきの代わりに」で、本書のテーマは「言葉と言葉の間に屍がある」と「人問存在というものの根源的な無責任さ」であると述べている。この二つのフレーズは、ともに六章からなる本書の最終章で語られている。つまり、〈3・11〉を契機として、タイトルとサブタイトルに明示されている〈死者〉と〈言葉〉をめぐる思索が最終章において二つの主題に収束していくのである。辺見庸は、これまでも〈死者〉と〈言葉〉を主題として思索と著作を重ねてきて、〈3・11〉で一つの真摯な屈曲が言葉としてこの本に結実した、そんなふうに思う。

 著者は、宮城県石巻市の生れである。そこはもちろん、「わたしの感官の土台をこしらえ、触感、視感、嗅覚、予覚、発想、思考法、言葉の基本(母語の祖型)がつちかわれた大事な場所」 (p. 16) なのであったが、〈3・11〉によって「わたしが通っていた学校の三階建ての校舎(むろん昔の校舎ではありません)が、焼けただれて、校庭いっぱいに何十台もの自動車が黒焦げになって折り重なって」 (p. 49) いる写真が故郷の友人から送られてくる。

 震災当初は、カメラをむけたらいやでも屍体を撮ってしまうほどといわれた現場なのに、テレビや新聞は丹念に死と屍体のリアリティを消しました。なぜそうする必要があるのかわたしにはわかりません。あのような報道ならば、鴨長明の『方丈記』のほうが災厄というもののすさまじい実相をリアルにつたえていると言えるでしよう。
 いずれにせよ、マスコミによる死の無化と数値化、屍体の隠蔽、死の意味の希釈が、事態の解釈をかえってむつかしくしました。死を考える手がかりがないものだから、おびただしい死者が数値では存在するはずなのに、その感覚、肉感とそこからわいてくる生きた言葉がないために、悲しみと悼みが宙づりになってしまったのです。  (p. 56)


校庭の瓦礫は片付けられたが(2年後の石巻市立門脇小学校)。(2013/5/20 12:35 小野寺写)

 地震と津波、原発事故の想像を絶する破壊と災厄の規模、喪われた命の多さを前にした深い悲しみ、驚愕と恐怖、そして未来への不安に対して私たちはそれに見合う〈言葉〉を持たなかった。そのような〈言葉〉を持たないことが、いっそう不安を駆り立てる。
 しかし、テレビや新聞もまた〈言葉〉を持たないのだったが、私たちとは異なり「言葉なき報道」は溢れかえっていた。

 テレビや新聞で連日連夜、流されていたものはなにかというと、それは乾いたデータであり、死者の数、行方不明者の数、原発からでている放射線量の数値でしかない。おびただしい屍体をかき消した、薄っぺらな風景でしかありませんでした。死はそれぞれの重み、厚み、深み、リアリティを奪われ、風景はいわば漂白され除染され除菌され消臭されていました。 (p. 22)

 いずれにせよ、マスコミによる死の無化と数値化、屍体の隠蔽、死の意味の希釈が、事態の解釈をかえってむつかしくしました。死を考える手がかりがないものだから、おびただしい死者が数値では存在するはずなのに、その感覚、肉感とそこからわいてくる生きた言葉がないために、悲しみと悼みが宙づりになってしまったのです。  (p. 56)

 真なる言葉を持たない報道、言説は、悲しみやシンパシーを組織するように働き、連日、われわれの「絆」を連呼し、悲しみとシンパシーを国民の統一された感情、意識へ向かわせようと作用する。

この国が変わるべきだという意見には、どのように、という疑問がつきまといます。大体、国家や民族、文化などという巨大な言葉にはいつも警戒すべきです。3・11後、この国のありようは変わらなければならないとよく言われる。なりたちゆかなくなった経済状況ともからめて、3 ・11以降、しがない個々人の生活より国家や国防、地域共同体の利益を優先するのが当然という流れが自然にできてきている。
 「個人」は「国民」へ、「私」は「われわれ」へと、いつの間にか統合されつつあります。そして、この国は、われわれは、変わらなければならないと言われ、それが見えない強制力、統制力になって、個はますます影が薄くなっている。3・11以降、内心の表現は3 ・11以前よりさらに窮屈に、不自由になっています。そのことにわたしはとくに注目しています。 (p. 29-30)

 マスコミにおいてほとんど消えかかった「現状にたいする「否定的思惟」や根源的問題提起の情熱」を批判しつつ、著者は、「ありえないことは、もはやなにひとつない。かつてありえないとされたことも、これからはすべてありうる」 (p. 62) という世界認識を示す。

 この破壊の規模は、絶大という言葉を超えている。かぎりがないのです。とめどないと言ってもいいほどの破壊です。町全体がずれていく。ずれて山側に押し流されるなんていう風景はありえない。スライドして盛り上がる、揺れる、海鳴りと地鳴りがいっしょにする。水柱が立つ、火柱が立つ、土煙が立つ、舞い上がる。ああいう風景はありえない、impossibleとされてきた。原発はそれを前提して、事故はimpossibleだというふうに断定して成立しました。ところが、メルトダウンはprobableであったし、別の表現で言えばinevitableであったわけです。 (p. 68)

 原発溶融事故は、inevitableであった。起きてしまえば、これほど自明なことはない。これは、アドルノが「アウシュヴィッツの後」の世界を「アウシュヴィッツが可能であった世界」 [1] と評したことと共鳴している。かつて人々は、人間の本性、その倫理性に鑑みてアウシュヴィッツのような出来事を想像すらできなかったし、絶対的に不可能(impossible)だと考えていた。しかし、それがpossibleであったことに驚愕し、打ちのめされた。それが「アウシュヴィッツが可能であった世界」という哲学的認識の意味であって、事実問題からいえば実際に起きたことはprobableなのである。
 それでは、アウシュヴィッツはinevitableではなかったのか。グレゴリー・ベイトソンを引用しつつ安富歩が語ることによれば、第1次世界大戦を終結させるために開かれたヴェルサイユ会議から世界の歴史的発狂が始まったという [2] 。時のアメリカ合州国大統領ウッドロウ・ウィルソンは「領土の併合も、賠償金の徴収も、懲罰的措置も」一切含まない講和条約を提示してドイツを降伏に導いたが、実際にヴェルサイユで締結された条約にはすべてが含まれていた。「これは歴史的裏切りであり、人類の欺瞞の絶頂点であると言ってもよい」と安富は評している。過酷な経済状況が論理的必然としてナチスを生み出したと考えれば、アウシュヴィッツはinevitableであったと言えるだろう。

 アドルノに倣えば、私たちはすでに「原発溶融事故が可能な時代」、「放射能汚染による故郷喪失が可能な時代」、「内部被爆による子どもたちの未来喪失が可能な時代」を生きている。深い地下でプレートが複雑に交差する日本という国土にとって地震や津波が避けられない(inevitable)ことは、地震学のみならず歴史によって否定しがたく証明されている。したがって、地震や津波による原発の被害はinevitableである。そのような国土に54基もの原発を建設するという狂気ですら、さすがに人口密集地の東京や大阪、名古屋を避けて建設する。原発推進は、原発を推進する政治家も電力会社も、まぎれもなく原発事故がinevitableであることを前提にしているのだ。
 だから、今や私たちは次のように言い換えなければならない。私たちはすでに「原発溶融事故が避けられない時代」、「放射能汚染による故郷喪失が避けられない時代」、「内部被爆による子どもたちの未来喪失が避けられない時代」を生きている、と。

出来事の反復性ということでは、旧約聖書の「コヘレトの言葉」は示唆的です。

かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。 (p. 70)

 そして、「起きてしまった」ことに対して、私たちの〈言葉〉はどんな風であったか。政府はどんな〈言葉〉を国民に発したか。ジャーナリズムはどのような〈言葉〉で何を伝えようとしたか。それはこんな風であった。

 福島第一原発・.原子炉建屋のまぎれもない爆発を、政府がわざわざ「爆発的事象」と呼んだり、炉心溶融の発生中に「炉心の一部損傷」「炉心溶融の可能性」などと事態の重大性を薄めて発表し、大方のマスメディアもそれに追随していった経緯にはこうした社会心理的な要因も考えられます。
 東京のある放送局につとめるわたしの若い友人は、3・11発生後の局内の雰囲気を「まるで戒厳令下です」と語りました。言うまでもなく友人は戒厳令を経験したことがありません。ですから、ただの想像でそう言ったのです。  (p. 89)

 事故から二か月もへてから、東京電力と政府はやつと燃料は三月時点でメルトダウンしていたと発表しました。マスコミは驚きあわてたかのように、一斉に東電や政府の“メルトダウン隠し”を批判しはじめます。このなりゆきにそらぞらしさを感じたのはわたしだけではないでしょう。というのも、マスメディアの科学担当記者らの多くは事故発生後ほどなくメルトダウンの事実を知りえていたというからです。 (p. 96)

 福島原発から放出された放射性セシウム137は広島に投下された原チ爆弾の百六十八個分。このセンテンスはなにかとんでもないことを表現しているようです。ところが、語り手や記事の書き手が、数値と人間の間の恐ろしい真空を、生きた言葉で埋めようとしていないために(そのような意欲もないために)、数値と人間の関係を言いえず、結果、なにごとも表現しえてはいないのです
 そうであるなら、「こんにちワンありがとウサギ魔法の言葉で楽しいなかまがぽぽぽぽーん」と、どれほどのちがいがあるでしょうか。それはもはや主体の自覚的な意味作用を超えたエクリチュールでさえなく、ただの記号にすぎません。考える人ではなく、存在をほとんど記号化された役人や記者たちが臓腑から吐いたガスのようなものです。 (p. 103)

 絶望的なほど〈言葉が〉ない、というより言葉に対する信頼がない。国民に事実を伝えようとする意志がない政府・官僚の言葉は、そのままただの嘘、虚偽にすぎない。政府・官僚あるいはスポンサーである資本の気分を忖度するためか、本質的な無能力のためか分らないが、マスコミ・ジャーナリズムの〈言葉〉にも真実はなく、腐った言葉の端々から情報をつまみ出すのに苦労する。

 しかし、著者は峠三吉や原民喜に〈ヒロシマ〉という悲惨を生きる真性の〈言葉〉を見ている。

 「スベテアッタコトカアリエタコトナノカ/パット剝ギトッテシマッタアトノセカイ」。この二行は、そのまま大震災、原発メルトダウンにあてはめてもなんら違和感がありません。 (p. 116)

 ただし、原民喜の〈言葉〉と対極に位置する言葉もある。

 原爆投下に関する昭和天皇の言葉(一九七五年十月)もまた、いまでも考察にあたいする軽みがあると言わざるをえません。「原子爆弾が投下されたことに対しては、遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」。これでは言うまでもなく、「アカクヤケタダレタニンゲンノ死体ノキミヨウナリズム」と、釣り合うことも連なることもつながることも舫いあうこともないのです (p. 118-9)

 多くの国民が瞬時に死亡し、残された多くも被爆によって苦しみながら死につつあるときの残酷な〈言葉〉があるにも関わらず、原民喜や峠三吉がその場に存在したこと、彼らの〈言葉〉があったこと、著者はそのことに希望を見る。

 原爆投下というあの大虐殺じたい途方もない所業です。そうであるとともに、このように死のパノラマを短い詩としてあくまで言葉により黙示的に展開しえたことに、わたしはいまでも舌を巻いております。それは民喜その人とその言葉への驚きと敬意であり、また、言葉のもつ可能性への驚きでもあります。
 わたしは奈落の底で言葉がひらいた可能性について、後年いろいろと考えてみました。そして、ひとつの結論にたどりいたりました。それは、奈落の底で言葉がひらいた可能性とは、薄ら陽のような〈希望〉であり、言葉によって人である証しをたてたのだ、ということです。 (p. 113)

 〈3・11〉の後、日本の将来やその再生について著者はいくつかのマスコミにインタビューを受けるが、「この際いっそ滅びてみてもよいのではないか」「べつに再生しなくてもかまわないのではないか」 (p. 142) などとまぜかえす。もちろん、それは報道されない。

 わたしはいまさらなにも驚いてはいません。記者たちは無意識に現実の世界を、だれに命じられてもいないのに、修正しているのです。取材対象にたくさんしゃべらせて、自分の世界像に合う部分のみで、記事をつくります。新聞、テレビの「街の声」くらいいいかげんなものはありません。「日本はこの際いっそ滅びてみてもよいのではないでしょうか」。そのような声は、検閲制度がないにもかかわらず、あったとしても、ないことにされてしまいます。 (p. 142-3)

 著者は、だからこそ、民主主義を標榜する現在の日本が太平洋戦争敗戦以前の天皇制ファシズムの頃より〈言葉〉が不自由なのではないか、多様性を失っているのではないか、と疑う。「言いたい放題」のような自由な言説の例として、関東大震災に対する折口信夫の詩「砂けぶり」や、東京大空襲の焼け跡を描く川端康成の小説「空に動く灯」を挙げている。

憎い きらびやかさも、
繊細のもつたいなさも、
あ、愉快と言つてのけようか。
一擧になくなつちまった。
  (『折口信夫全集 第廿二卷』中央公論社より)  (p. 144-5)

……さうだ。都が炎上したのは、妖艶な女が天然痘で死んだやうなものだ。しかしね君、女優ナナが天然痘で死んだからと言って、彼女達の體を享樂してゐた男連の慾望は死にはしなかったらう。見給へ、古い都の屍の上に新しい都は蘇りつつある。そして人々はさかしげに言ふのだ。あたかも、ナナの情夫の一人がナナの死を見た時、色も香もない宿の妻に歸らねばならないと淚を流したやうなことをね。――
         (『川端康成全集第二巻』新潮社より)  (p. 149)

 文学的表現とはいえ、このような語り口で〈3・11〉に触れたら、「不謹慎」だと騒がれることは間違いない。いつでもtwitterなどのソーシャルメディアは、そのような弾劾で満ちあふれている。そしてなによりも、ジャーナリストにも、文学者にも、そして私たちにも「心的メカニズムが自動的に」 (p. 152) 作動して、〈言葉〉を殺しているに違いない。私たちは、自ら不寛容な社会を形成しつつ、その中へ我が身を投じているようだ。
 著者自身もまた、次のように自らを評している。

 そして、わたしが、「空に動く灯」を言いたい放題だなと感じることじたい、内面の機制がはたらいた結果だと気づくのです。 (p. 155)

 最終章で、著者の思索は濃密に〈死者〉と〈言葉〉に関わっていく。それは、著者が二十代からずっと心に思っていた〈言葉と言葉の間にカダヴルがある〉というフレーズに集約されている。そのフレーズは、堀田善衛の小説にインスパイアされて生まれたらしい。

 「フランス語でね、屍のことをカダヴルというわね。それでね、こんな言い方もあるのよ。Il y a un cadavre entre eux. っていうの。彼ラノアイダニ一ツノ屍ガアル、というのが直訳だけど、ほんとは、彼ラハグルニナッテ何カヤッテイル、って意味なのよ」
「それで……」
「それで、ってことは別にないけど」
「ワレワレデアル彼ラハグルニナッテ何カヤッテイル、ってわけか」
「まあ、ね」
「屍ってのは、つまり物でもなければ人間でもない、要するに始末におえないものなわけだ。ウサン臭いものなわけだ」
          (堀田善衛『橋上幻像』から) (p. 168)

 そして、著者は、「戦争もファシズムも、もろもろの革命も、言葉と言葉の間に屍を生むものではないのか」 (p. 166) と考える。そのような話を若い雑誌記者としていて、著者は、その記者を通して同じ堀田善衛の別の〈言葉〉に行きつく。それは堀田善衛の『方丈記私記』に出てくる「人間存在というものの根源的な無責任さ」という〈言葉〉である (p. 172) 。東京大空襲で「巨大な火炎地帯」となった本所深川に臨みつつ、作家は「大火炎の中に女の顔」をその死とともに思い浮かべながら他者の死に対する「人間存在というものの根源的な無責任さ」を思うのである。

 しかし、著者はそこにとどまらない。「人間存在」を「私」に置き換えて考えるのだ。

 「私の無責任」をただちに「人問存在の無責任」に一般化、普遍化することが、この場合、すなわち、「大火焰のなかに女の顔を思い浮べてみて」という個別主体的場面においてできるのだろうか――という一抹の疑りから、普遍化ではなく、「私」という個別存在に「無責任」の罪をいったん閉じこめるか背負わせるかしてみたわけです。
 「私の無責任」を「人間存在の無責任」に一般化し、罪を散らせたら、大火炎の中で黒こげになっているかもしれない親しい女性への体のよい“逃げ口上”みたいではないか。やはりそう思わぬでありません。このこともまた、〈言葉と言葉の間にカダヴルがある〉という謎のアフォリズムとなにかかかわりがあるような気がいたします。 (p. 177)

 さらに著者がおもむく先は、堀田善衛の恐ろしい(著者にとってではなく、私にとって恐ろしい)感慨に向かう。同じ『方丈記私記』のなかに書かれている。

……満州事変以来のすべての戦争運営の最高責任者としての天皇をはじめとして、その住居、事務所、機関、などの全部が焼け落ちて、天皇をはじめとして全部が罹災者、つまりは難民になってしまえば、それで終りだ、終りだ、ということは、つまりはもう一つの始りだ、ということだ、ということが、…(中略)…一つの啓示のようにして私にやって来たのであった。上から下まで、軍から徴用工まで、天皇から二等兵まで全部が全部、難民になってしまえば。……
 これはなんとすごいイメージでしょうか。上は昭和天皇から、下は二等兵まで、この国の全員がいっそのこと「難民」になってしまえば、それは終わりであると同時に、なにかまだ見たこともない新しい未来のはじまりなのだ――という啓示。堀田善衛にとって、それはこの国が「平べったくなる」という幻想とそこはかとない期待でもありました。
 堀田善衛は別の個所でも、「この分では日本国の一切が焼け落ちて平べったくなり、階級制度もまた焼け落ちて平べったくなる、という、無気味で、しかもなお一面においてさわやかな期待の感」について述べています。 (p. 179-80)

 〈3・11〉で流布された言葉の中に、このような圧倒的な変革へのイメージなどがあっただろうか。「未曾有の災厄」とか「言葉を失いました」とか、あるいは「絆」であり、ひたすら「復旧」、「復興」の繰り返しばかりで、「瓦礫のそのはるかむこうに新しい人と新しい社会を見たいという焼けるような渇望」 (p. 182) を感じる言説に出合うことは難しい。

 若い雑誌記者によって喚起された思考は、記者の「3・11後に読んだ文でいちばんよかったものはなんですか」という質問に答える形で結語に向かう。著者は、宮澤賢治の「眼にて云ふ」(疾中」所収)という詩にとても感動したという。〈死者〉からの〈言葉〉と〈眼差し〉である。

その詩の最後の十行はこうです。

血がでてゐるにかゝはらず
こんなにのんきで苦しくないのは
魂魄なかばからだをはなれたのですかな
たゞどうも血のために
それを云へないがひどいです
あなたの方からみたら
ずいぶんさんたんたるけしきでせうが
わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青ぞらと
すきとほった風ばかりです。 (p. 187-8)

 

 

[1] 渡名喜庸哲の引用、ジャン=リュック・ナンシー(渡名喜庸哲訳)『フクシマの後で――破局・技術・民主主義』(以文社、2012年)p. 176。
[2] 安富歩『幻影からの脱出』(明石書店、2012年)p. 172。