かわたれどきの頁繰り

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津田大介『ウェブで政治を動かす!』(朝日新書、2012年)

2013年01月08日 | 読書

            

 これは政治についての本である。しかし、政治思想の本ではない。政治参加の手続き、方法、手段に関する著作である。政治家になろうとも社会運動家になろうともけっして思わなかった私が、政治に関する本として思い浮かべるのは、たいていは政治の歴史的考察や創出するべき政治、社会、国家を論じるような政治思想の本だ。だから、この本はある種の新鮮な感じで私には読み進められたのである。

 「大きな物語」としての政治思想が潰えてしまった一九八〇年代以降、政治システムとしては二大政党制を目論みながら、現実のありようとしては、政党は四分五裂の様相をさらけ出していて、信頼に足る政治思想を掲げたメジャーな政党は存在しない。民主党のバカ勝ちも、揺り戻しとしての自民党のバカ勝ちも、ふらふらする無定見層に強く依存する選挙システムの所為であって、けっして受容されるべきコンテンポラリーな政治思想があったわけではない。
 中道リベラルらしい雰囲気を醸し出して登場して政権奪取に成功した民主党はあっという間に政党の存在要件であるべき政治思想の欠如を露わにしてしまった。民主党は選挙に負けたのではない。現実に対処するべき政治思想を欠いていたために当然のように自己崩壊したのだ、と見るべきである。右翼を抱え込んでいることは知ってはいたが、その民主党にたった一瞬といえどもリベラルらしい匂いがあると思い込んだ私の愚鈍を、今はいたく恥じている。

 こうした細分化された政治党派が群れている状況だが、新自由主義的な資本の論理は「グローバリゼーション」を標榜しながら厳しく貫徹されていて、「9・11」に象徴されるように《帝国》と周辺国化された地域との利害の国際的矛盾が激しくなっているばかりではなく、国内的には「国際競争力」を強化する名目で新しい若年貧困層(非正規雇用層)を増大させつつその労働力の搾取が激しくなっている。
 湯浅誠にしたがって言えば、“溜め”を失った社会で「へとへとになって九時十時に帰ってきて、翌朝七時にはまた出勤しなければならない人には、……一つひとつの政策課題に分け入って細かく吟味する気持ちと時間」 [1] は失われ、政治に参加する時間も空間も確保する困難に見舞われている。つまり、無定見層も浮動票層も現代日本の政治・社会システムの結果として生みだされてきた、とも言える。政治への不参加は、政治不信と相俟っていると、湯浅は次の用に述べている。

 政治不信はこれまでも根強くありました。しかしそれは、個々の政治家の「政治とカネ」やスキャンダルの問題、また個々の政党の体質への批判や内紛(派閥闘争)、にうんざりしたといった性質のものでした。それがこの間、急速に政治システムに対する不信に発展していきました。その意味で、政治不信の質が変わったのではないか、と私は感じています。
 私は、これはかなり重大で、決定的な変化ではないかと考えています。政治不信が、個々の政治家や政党に留まっているかぎりは、システムは信認されているということです。しかし、システムそのものが不信の対象となったとすれば、不信感の底流が変わったことを意味します。 [2]

 『ウェブで政治を動かす!』の著者である津田大介は、政治不信の一因はマスメディアにもあると見ている。

 情報リテラシーが高い層は、新聞やテレビといつた既存の伝統的マスメディアに否定的な人が多いとも言われる。それはこうしたマスメディアの政治報道が政局中心の報道に終始していることも一因になっている。
 これでは政治的無関心になるのも仕方がない。われわれは「無関心になっている」のではなく、メディアによって「無関心にさせられてきた」のだ。 (p. 5-6)

 その上で、著者は、マスメディアに対する私たちの側のメディアとしてのウェブ、ソーシャル・ネットワーキング・サーヴィス(SNS)の重要性、とりわけ政治参加、政治的意思表明の手段としての有用性を訴えている。ただし、誤解のないように言っておけば、著者は単純にマスメディアへの対抗メディアとしてSNSを推奨しているわけではない。マスメディアもまたソーシャルメディアを活用することでよりすぐれた報道に資することができることも著書の中で明示している。

 著者も指摘するように、チュニジアから始まった「アラブの春」における叛乱する若者たちのメディアとしてフェイスブックが用いられたことをはじめ、ニューヨークから始まったアメリカの「オキュパイ運動」 [3] でも「3・11」後の反原発運動の活発な盛り上がり [4] においても、その大衆動員に果たしたツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアの役割は計り知れないものがあったし、現在もあり続けている。
 そのようにソーシャルメディアを通じて動員された(自主的に集まった)人々のごく平和的なデモの意義について、著者は次のような国分功一郎の言を引いて強調する。

 デモにおいては、普段、市民とか国民とか呼ばれている人たちが、単なる群衆として現れる。統制しょうとすればもはや暴力に訴えかけるしかないような大量の人間の集合である。そうやって人間が集まるだけで、そこで掲げられているテーマとは別のメッセージが発せられることになる。それは何かと言えば、「今は体制に従っているけど、いつどうなるか分からないからな。お前ら調子に乗るなよ」というメッセージである。 (国分功一郎『熱風』2012年2月号)

 「今は体制に従っているけど、いつどうなるか分からないからな。お前ら調子に乗るなよ」というメッセージは、デモだけが発するわけではない。ネット世論もまた同様のメッセージを強く発することができる。 著者は、多くの実例を挙げながらソーシャル・メディアを優れた政治参加の手段として用いることを強く勧め、政治不信を乗り越え、政治を動かしていこうと主張しているのである。
 なかでも、民主党の原口一博衆議院議員や蓮舫参議院議員がマスメディアとソーシャルメディアに見る世論の差を感じていて、「ソーシャルメディアにこそ国民のリアルな世論が表れるのではないかと考えている」という記述は重要だろう (p. 110-2) 。政治家の側にも、世論、国民の政治的意見をソーシャルメディアから汲み取ろうという動きがあるのだ。私たちばかりではなく、政治の側でもマスメディアへの不信が拡がりつつあるのだろう。だとすれば、私たちの政治的意志をソーシャルメディアを通じて発信することを強く主張する本書は妥当性というレベルを越えて論理的必然ですらあるだろう。

 当然のことながら、ソーシャルメディアを通じて政治的意見の表明をしたからといって、何事かがすぐさま実現するように政治システムが出来上がっているわけではない。いまのところ、それは政治家の恣意性に委ねられている。例えば、ソーシャルメディアを積極的に政治活動に取り入れている自民党の世耕弘成参議院議員を次のように紹介している。

 世耕議員のツイッターの使い方は、実に多彩だ。ツイッターの特徴である強力なリアルタイム情報発信力を生かすだけでなく、一般市民の政治的思考が自然に表出される性質に着目し、自らの政治活動に生かしている。具体的には、世耕議員はツイッターを「ミニ世論調査」のツールとして利用しているそうだ。
 「自分のフォロワーのなかから、冷静で有用な意見をツイートしている人をピックアップして、プライベートリストに入れています。自分の発言や行動に対して、そうした人たちがどんな反芯を返してくるのか。それが、とても参考になるんです」  (p. 174)

 つまり、ピックアップされるかどうかにかかっているのだ。とはいえ、ある事象についてネット世論が強く形成されればピックアップせざるを得なくなるだろう、ということは確かだ。

 著者はまた、自民党の橋本岳前衆議院議員(執筆当時、2012年12月の選挙で当選)の考えを次のように紹介している。

 政治に興味のあるインターネットユーザーたちの多くは「政局よりも、政策」「政策単位で政治家は選ばれるべき」という考えを持っていることが多い。筆者もシンプルに言えばその考え方だ。しかし、橋本前議員はこうした考え方に対して「『政治家は政策で選ばれるべきだ』という考え方はフィクション」と、手厳しい。彼のなかには「政策をつくるのは、政党でいい」という、確固たる信念があるようだ。
 「政治家個人が『こういう政策を実現するんだ』と、具体的な公約や政治理念を掲げることは、メディアとしての信頼性、誠実さを保つ意味で重要ですが、採るべき政策は状況によって変わるものです。交渉相手が存在する外交安保の問題などを考えればよくわかりますが、相手や状況に応じて刻々と変化するだろう部分までマニフェストに書いても、初めから実現できるはずがない」
 橋本前議員は「個別の政治家にとっての政策は『現時点ではこうしたいと考えている』という程度で構わないと思う」という。まずは多方面から情報を収集し、さまざまな手法でリサーチを行って、将来予測をする。そうして現状を踏まえた上で、政策以前に「日本は今後、こうあるべきだ」というビジョンを描く。それがブレなければ、有権者の声を集約し、代弁するメディアとしての信頼性は担保されるだろうというのが、橋本前議員の主張だ。
 「そうした考え方をべースにして、政党が財務的な裏付けや国内外関係各所との調整を行い、具体的な政策に落とし込む。それができれば、説得力と信頼性のあるマニフェストができるはずです」 (p. 221-2)

 こうした橋本議員の考えは、12月の総選挙での日本維新の会の橋下徹大阪市長の政治的発言の推移に見られた姿勢と通底するものがあるのではないか。具体的な政策は2転3転しながら、具体策は役人が作ればいい、本質は何もぶれてはいないと言いつのっていた。このような政治姿勢は結局ポピュリズムに回収されてしまうのではないかと危惧するのである。
 とまれ、ポピュリズムに結果するかどうかは政治思想の問題である。本書が目指す活用すべき政治手段の議論とは直接結びついているわけではない。ソーシャルメディアを通じて形成される世論は、右も左も、革新も保守もあり得るだろう。いずれにせよ、選挙における投票率が低い若年層は、一方でソーシャルメディア・リテラシーが高いのだから、みずからの政治的意志の実現可能性が高まることで政治的無関心を乗り越えることが可能になるのではないか、ということだ。
 この本は、そのような人々へのサジェッションに溢れている。繰り返すが、この本は政治思想の本ではない。政治参加のための手段の本である。しかしながら、著者はソーシャルメディアを通して見続けてきた政治世界から、次のような分析を示す。そして私はこれを著者の正しい「政治思想」だと思うのだ。これは、現代の政治家が保持すべき正しい姿勢なのであり、すべての政治思想の前提となるべき理念のことなのである。

 あらゆる政治や社会にまつわる情報が可視化される現在、政治家が「きれいごと」を言うことの意味は実のところ、日増しに大きくなつている。政治家は「きれいごと」を多くの人に共感される言葉で語る必要がある。なぜならば「きれいごと」の実現は、理想の政策を実現するということだからだ。「きれいごと」を具現化するには、われわれにどのような痛みが必要なのか、自分たちにとって不利な情報も含めて公開し、それを現実のものにしていく過程をつぶさに公開していく――情報社会における政治家の透明性は、そのような形でしか担保されない。「きれいごと」を実現することでしか「政策実現者としての政治家」への信頼を上げることができない時代になりつつあるのだ。 (p. 290)

 

[1] 湯浅誠『ヒーローを待っていても世界はかわらない』(朝日新聞出版、2012年) p. 85。
[2] 同上、p. 58-91。
[3] ノーム・チョムスキー(松本剛史訳)『アメリカを占拠せよ!』(ちくま新書、2012年)。
[4] 糸圭(すが)秀実『反原発の思想史――冷戦からフクシマへ』(筑摩書房、2012年)。