かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

湯浅誠『ヒーローを待っていても世界は変わらない』(朝日新聞出版、2012年)

2013年01月23日 | 読書

                   

 

 湯浅誠ほど日本社会における格差・貧困問題について「実質的」な活動を行っている人間はいないのではないか、というのが私の湯浅誠の理解である。湯浅誠は、社会運動家というより社会活動家と呼ぶべきだろうと思う。
 かつて(いまでも?)社会運動家は、本質的、根源的な社会改革を求めることに急で、改良主義的な行動に批判的だったという印象がある。結果として、得られるものが少なくても潔しとして、自己満足ないしは敗北の連鎖をたどってはいなかっただろうか。しかし、近年の貧困化、特に若年層の非正規雇用をグローバル化した経済システムに組み込むことによる貧困層の増大は、そのような潔さをよしとするわけにはいかないほどに急を要しているように見える。

 貧困・格差問題に対する湯浅の立ち位置は明確である。民主党政権が発足したとき、請われて内閣府参与となった湯浅は、後に参与を辞することになる。その経緯を説明した文章(本書巻末資料)に、彼のスタンスが明瞭に示されている。

 政府が、自らの判断で、それらを取り組むべき"課題"と位置づけ、かつアドバイスを求めてくれるなら、再びその"課題"を遂行するために喜んで協力させていただくし、他の"課題"を設定して、その"課題"の遂行のために他の人のアドバイスを必要とするなら、それもそれでまったくかまわない。私にとって大事なことは貧困問題が改善することであり、在野であろうと政府の立場であろうと、それぞれにできることとできないことがある以上、またどちらの立場になろうと社会活動も政策提言もともにやっていく以上、参与であるかどうかが決定的な意味を持つとは思えないからです。

 最近、どんな立場になっても、やっているのは結局「隅(コーナー)のないオセロのようなものだ」と感じるようになりました。オセロでは、隅(コーナー)を取れば、一気に多くの石(コマ)をバタバタとひっくり返すことができます。外にいるときは中に入れればそれができるような気がし、中にいるときは外に出たほうがもっと思い切ったことができるような気がする。しかし、おそらくはどちらも幻想で、現実はどこにいようと「隅(コーナー)のないオセロ」なのだと思います。一気にどんとひっくり返せるような魔法はなく、一個ずつ地道に反転させていくしかない。

 現在、私はそのように思っています。 (p. 164)

 1個ずつしかひっくり返せないと特別に厄介なオセロを続けるしかない、という現実認識がそのまま覚悟となる、そんなふうに表明しているのだ。
 ひっくり返すべき1個ずつのオセロの、その手続きを次のようにまとめている。

(1) ともすると「取るに足らない問題」と片付けられがちなこの課題を、実態に見合った大きさで理解してもらい、向き合ってもらうために、より多くの入たちに働きかけていくこと。一対九の世論を二対八、三対七に転換していくこと。最善を求めて一歩ずつ進んでいくイメージです。
(2) 同時に「十分な世論形成ができるまでは、何もできません」では話にならないので、たとえ一対九だとしても一割分、あわよくば二割分、二対八だとしても可能なら三割分というように、現実の調整過程にコミットして、一歩でも半歩でも実態に追いつくように政策を実現させていくこと。
(3) 上記二つの派生型として、八割九割の世論をバックに、何か自分が望ましくないと感じられる政策が進められようとするときに、「政府が悪いことをやろうとしている」で済まさないこと。その八割九割の世論に働きかけるとともに、それが容易に変わらないときには、一割でも二割でも自分たちの意見を残すように、調整過程にコミットすること。最悪を回避するために、わずかでも自分たちの主張を「すべりこませる」イメージです。
 一億二千万の相異なる「民意」があり、その中には自分と異なる意見を持っている人のほうがはるかに多いということを前提に、最善を求めつつ同じくらいの熱心さで最悪を回避する努力をすることが必要です。 (p. 20-1)

 ここには「正しい」政治思想に導かれて社会変革、革命に向かおうとしてきたかつての社会運動とは別種の思想がある。というよりは、具体的に苦しみつつ生きている人間に寄り添って立ち上がる社会運動のもっとも純粋な初発の契機、政治党派や政治イデオロギーに汚される前の形だけがある、というべきか。 

 オセロを一個ずつひっくり返すように社会を変えようとする湯浅にとっては、現実の日本社会はまったく対極的な意思に満ちているように見えているに違いない。小泉純一郎や石原慎太郎、そして橋下徹の選挙に典型的に見られる「ヒーロー願望」としての投票行動である。ヒーロー願望とは、ぐだぐだ言ってないでばっさりと改革を断行してくれ(「利害調整の拒否」 (p. 24) )、という願望なのだ。結果として、強い言葉で煽り立てるタイプの政治家に票が集まる。それは、民主主義という政治システムが抱え込んでいる欠点のなかでも絶対に忌避すべき最悪のケース、ポピュリズムの台頭と全体主義への転落へと進むのだ。

 だから、その心理は二つの点で問題があります。
 一つには、直接にか間接にかはともかく、私たち自身の、ひいては社会の利益に反すること。気づいたら自分がバッサリ切られていたという、その話です。
 二つには、多くの人が大切にしたいと思っている民主主義の空洞化•形骸化の表れであり、またそれを進めてしまうという点です。
 そしてこの二つの問題点は相互に深く結びついている、と私は考えています。両者を結びつけているものが格差・貧困問題の深まりです。 (p. 69)

 湯浅は、ヒーロー願望の蔓延には根底には、やはり拡大する格差・貧困があると見ている。前著を引用して日本社会を次のように捉えている。

 少なからぬ人たちの"溜め"を奪い続ける社会は、自身の"溜め"をも失った社会である。アルバイトや派遣社員を「気楽でいいよな」と蔑視する正社員は、厳しく成果を問われ、長時間労働を強いられている。正社員を「既得権益の上にあぐらをかいている」と非難する非正規社員は、低賃金・不安定労働を強いられている。人員配置に余裕のない福祉事務所職員とお金に余裕のない生活保護受給者が、お互いを「税金泥棒」と非難しあう。膨大な報告書類作成を課されて目配りの余裕を失った学校教師が子どものいじめを見逃す。財政難だからと弱者切捨てを推し進めてきた政党が、主権者の支持を失う。これらはすべて、組織や社会自体に"溜め"が失われていることの帰結であり、組織の貧困、社会の貧困の表われに他ならない。 (拙著『反貧困』岩波新書、二〇〇八年)  (p. 71)

 日本型民主主義の貧しさとしての格差・貧困が、いっそう民主主義を困難にしている。そして、格差・貧困問題から湯浅的民主主義理解が立ち上がって来るのだ。

 単純に言って、朝から晩まで働いて、へとへとになって九時十時に帰ってきて、翌朝七時にはまた出勤しなければならない人には、「社会保障と税のあり方」について、一つひとつの政策課題に分け入って細かく吟味する気持ちと時間がありません。
 子育てと親の介護をしながらパートで働いて、くたくたになって一日の家事を終えた人には、それから「日中関係の今後の展望」について、日本政治と中国政治を勉強しながら、かつ日中関係の歴史的経緯をひもときながら、一つひとつの外交テーマを検討する気持ちと時間はありません。
 だから私は、最近、こう考えるようになりました。民主主義とは、高尚な理念の問題というよりはむしろ物質的な問題であり、その深まり具合は、時間と空間をそのためにどれくらい確保できるか、というきわめて即物的なことに比例するのではないか。 (p. 85)

 ヒーロー願望現象の典型として、著者は〈第2章 「橋下現象」の読み方〉という章を立てて論じている。そこで語られるのは政治システムに対する不振としての「政治不信」、「議会制民主主義や既成政党そのものがダメなんだ」というふうに問題の設定が変わってしまったような政治不信についてである。橋下徹は、「現在の政治システムや既成政党そのものがダメなんだ」と煽る政治家であることはよく知られており、彼の支持はいわばヒーロー願望に落ち込むように、つまり民主主義を否定的に利用するように進められた結果としてある。著者は、問題点の在りようとしての橋下現象に関心を示しつつも「最終的には私は橋下さん個人には興味はありません」 (p. 62)と断言する。

 本書は、自ら政治過程に参加せず、つまり自らの思考を放棄して(そうなってしまう切実な理由があるとしても)、ヒーロー願望に落ち込んでしまうマジョリティを抱える日本社会への切実な危機意識に突き動かされて書かれている。そして、その私たちへの篤実な呼びかけ、説得にあふれている。

 介護に追われているからこそ、介護サービスや介護制度のことなど考えられない――その人の抱えている問題を改善するのが「私の仕事」かと問われれば、多くの人は「私のせいじゃないよ」と答えるでしよう。
むしろ多くの人たちは、「それは制度の問題だろ」「役所の問題だろ」と答えるのではないかと思います。
  ………
 だから改めて確認しておきたいのですが、「制度の問題だろ」「役所の問題だろ」という言い方は、つまり自分が払うか、誰かに払わせるか、それを決着させられなければ、結果的には誰かにしわ寄せをしたままの状態を放置することになる、ということです。 (p. 108-10)

 社会とは、そもそも巨大な無縁社会です。日本社会は、血縁を異にし、地縁を異にし、社縁を異にする人たちで構成されています。それ以外でつながる方法が思いつかないという社会が分裂してしまうのは、いわば当然です。そこで要請されてきたのがナショナリズムです。
 しかしナショナリズム(国民主義、民族主義)は、無縁の縁づくり、人々の関係調整と合意形成のスキルとノウハウの蓄積に基礎づけられていなければ、容易に単なるナショナリズム(国家主義)に転じ、ときに人々を抑圧するものになってしまいます。
 だからそれは、「大変な人にやさしくしてあげましょう」という単なるモラルの問題ではない。社会を社会として機能させる、民主主義を民主主義として機能させるために必要不可欠なものです。そして創造的生産性とも対立しない「小さいこと」のはずがありません。  (p. 149-50)

 ヒーローを求めず、小さな事柄でも自ら政治過程に参加し、それぞれの参加意思と創意工夫の繋がりがまた新しい力と工夫を生み出し、「自分たちで調整し、納得し、合意形成に至る」ようになる。
 そして、著者は次のように結ぶ。 

 「決められる」とか「決められない」とかではなく、「自分たちで決める」のが常識になります。
 そのとき、議会政治と政党政治の危機は回避され、切り込み隊長としてのヒーロー待ち望んだ歴史は、過去のものとなります。
 ヒーローを待っていても、世界は変わらない。誰かを悪者に仕立て上げるだけでは、世界はよくならない。
 ヒーローは私たち。なぜなら私たちが主権者だから。
 私たちにできることはたくさんあります。それをやりましょう。
 その積み重ねだけが、社会を豊かにします。 (p. 156)



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