かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『DOMANI・明日展2013』 国立新美術館

2013年01月21日 | 展覧会

 「DOMANI・明日展」は、文化庁による海外派遣事業によって派遣された作家の成果発表の場としいて開催され、今年で15回目になるという。今回は、近年、美術部門で派遣され、これまでの「DOMANI・明日展」に未出品の作家から、曽根裕、米正万也、塩田千春、神彌佐子、橋爪彩、行武治美、澤田知子、糸井潤、平野薫、青野千穂、池田学、小尾修の12名の研修の成果発表として開催されている。もちろん、どの作家も私には未見の芸術家である。
 分野、表現手法が多様なので、私の受容範囲を超える作家が多いということもあって、ここでは印象に残ったいくつかの作品だけに限って触れてみる。引用の中のページは、図録『DOMANI・明日展2013』(文化庁、2013)に掲載されている箇所を示す。

 会場は、作家ごとに区割りされた小部屋に展示されている。最初の部屋は、神彌佐子(日本画、派遣年/2006年度、派遣国/フランス、1962年生まれ)の作品群で、そのほとんどは華麗な印象を与える抽象画である。抽象画ということから、神は洋画部門の作家だろうと思っていたが、分野は日本画ということであった。
 たしかに、画材は紙本、墨、顔料など日本画のそれを用いている。考えてみれば、洋画に抽象と具象があるように、日本画にも抽象と具象があってもよいはずだが、理由もなく日本画は具象と思い込んでいた。

          
          神彌佐子 《stride 2012》 2012年、麻製蚊帳、楮紙、墨、顔料、箔、他、400.0×730.0cm [p. 57]。

 紙本着色の作品群の最後に、蚊帳に楮紙を貼り込んだインスタレーシヨン作品《stride 2012》が展示されている。50年前の蚊帳だそうである。蚊帳という透ける素材のせいか、紙本着色の作品より一段と幻想的な華麗さが表現されていて、目を引いた。

 橋爪彩(油彩、派遣年/2006年度、派遣国/ドイツ、1980年生まれ)は、私には不思議な作家である。 

       
         左:橋爪彩 《Toilette des Filles》 2011-2012年、油彩、パネル、112.0×162.0cm、個人蔵 [p. 65] 。
         右:橋爪彩 《Toilette des Filles 2》 2012年、油彩、パネルにエマルジョン地、130.3×194.0cm [p. 63]。

 はじめに左の《Toilette des Filles》を見て、マネキンと人間を写した写真作品だと思ってしまったのである。そして、《Toilette des Filles 2》は、同じ二人の違った構図の作品だろうと見当をつけたのだが、どちらがマネキンか生身の人間か、わからなくなってしまった。愚かなことに、作品脇に「油彩、パネル」と明記されていたにもかかわらず、しばらく二つの作品を見比べながら考え込んでしまったのだった。

 マネキンのような皮膚感、目は必ず隠されていてけっして人間らしい表情というものが表出されない顔、それでいて極度にリアリティの高い身体の陰影、そういうことがらのすべての不思議に惹かれる作品群である。図録解説に「不安とエロティシズムを圧倒的な描写力で描き異彩を放つ」 [p. 58] とある。

        
         糸井潤 《Cantos Familia》 2011-2012年、アーカイバルピグメントプリント、90.0×90.0cm [p. 87]

 糸井潤(写真、派遣年/2009年度、派遣国/フィンランド、1971年生まれ)の写真作品群は、フィンランドという緯度の高い北欧の闇、あるいは闇の中のかすかな光を表現しようとしているように見える。
 《Cantos Familia》は、高度の低い太陽が月に見えるほどに弱い光をさしている森の写真である。焦点は手前の草に厳しく制限され、幻想性を際立たせている。

 《Kaamos》は、人の住む空間の写真で、なかでも下の写真に心を奪われる感じがした。とりわけ、珍しい光景ではない。闇の中の人が通る圧雪の道、街灯でスポットライトで照らされているように浮かびがる雪をまとった潅木、向こうには一部に暖かそうな火影を宿した建物。そう、とりたてて何かではなく、人が暮らす場所にこのような美しい光の配置があることを描き出していて見事である。
 なお、作者によれば、Kaamosとは極夜の事で、太陽が全く昇らない時期を指すフィンランド語だという[p. 90]。

         
          糸井潤 《Kaamos》 2011-2012年、アーカイバルピグメントプリント、65.7×97.5cm [p. 90]。

 細部を徹底的に描きこむ緻密な描写は、池田学(ペン画、派遣年/2010年度、派遣国/カナダ、1973年生まれ)の特徴で、そのモティーフには社会や歴史に対する批評性に満ちているように見える。

                      
                      池田学 《巌ノ王》 1998年、ペン、インク、紙、195.0×100.0cm、
                         おぶせミュージアム・中島千波館蔵 [p. 114]。  

 《巌ノ王》は、芸大卒業制作でまだ社会や歴史へのコミットメントが希薄な時代のようであるが、描法はすでに確立されている。山岳部で登った山々の記憶をもとに描かれた空想の岩山ということだが、岩の〈王〉であるということは、岩の多種、多様性を内包しつつ自ら体現する〈巌〉でなければならないという〈王〉概念に基づいていると思えるほど、さまざまな岩の形態と質が細密に描きこまれている。 

            
  池田学 《漂流者》 2011年、ペン、インク、紙、61.0×61.0cm、個人蔵 [p. 121] 。

 《漂流者》は幻想的で美しい作品だが、作者はこう記している。

震災後、バンクーバーで優雅に漂うクラゲを見た。津波で流された人達が巨大なクラゲの体内で生き延び、生活を再建している。悲しすぎる現実に、せめて絵の中だけでも希望をとの願いを込めて描いた作品 [p. 121]

 〈3・11〉で何人かの知人、友人を失った東北で生まれ育った私には、美しいが切実な作品である。

          
 小尾修 《跡》 1992年、油彩、テンペラ、キャンバスにエマルジョン地、162.0×194.0cm [ p. 124] 。

 小尾修(油彩、派遣年/2010年度、派遣国/フランス、1965年生まれ)は、極めて写実性の高い画家である。本人の言によれば、「現実と作品とが明らかに異質なものである以上、完全な再現というものはあり得ない。そこには必ず「置き換える」、「切り取る」といった作家の意思、解釈が伴う。それは全く機械的な作業とは異なる領域を持つものだ」[p. 124]という。

 《跡》の前に立つと、こちらを見つめている少女の顔から目が離せなくなる。これは《空き地》という作品でも同じであった。茶褐色に塗られた波板トタンで囲まれ、フォークリフトが置かれた工場の裏手のような空き地で、青年が低い椅子に腰掛けてこちらを見つめている。その青年の顔から目が離せなくなる。青年も少女も取り立ててなにがしかの感情を表しているわけではない。かといって無表情でもない。そこにいて生きている人間がただ普通にこちらを見つめているだけである。これが、優れた写実の持つ力というものであろうか。

          
 小尾修 《休息》 2004年、油彩、キャンバスにエマルジョン地、97.0×162.2cm、倉吉博物館蔵 [p. 125] 。

 《休息》は寓意に満ちた作品のように思えるのだが、私には何の寓意なのかはまったくわからない。頑丈そうな編上げ靴、無造作に置かれた上着とバッグ、1個の林檎、そして渡りの途中のような1羽の鳥。人はこのような狭い不安定な岩上で安らぐのか。なにもかも寓意的で心惹かれる美しい絵である。
 ありていに言えば、私はこういう絵が好きだ。

 


『会田誠展:天才でごめんなさい』 森美術館

2013年01月21日 | 展覧会

 面白い。「面白い」という形容は多義的で、何かを言った気がしないが、今はこの言葉しか思い浮かばない。会田誠は面白い。会田誠の作品群は面白いのだ。
 じつのところ、「現代アート」などと形容されたり、括られたりする芸術作品には幾分腰が引けてしまうのだ。なぜかと問われても困るのだが、青少年期の芸術の受容環境と受け手の受容能力の発達に問題があったと言えば、おそらく間違いはないが、これまた何事かを語ったことにならない答えである。
 しかし、会田より上の世代の「具体」という抽象芸術グループの展覧会のときもそうだったが、恐る恐るそのような展覧会会場に足を踏み入れたときでも、感動したり驚いたりして、幾分の興奮を抱いて会場を後にすることになる、そういうことがたまにある。今回も、それを期待して新幹線に乗ったのだ。

 会田誠の「面白さ」の源泉はどこにあるのだろう。展覧会の主催キュレーターである岡真実は、それを「混沌」だと言う [1] 。「それはそのまま、日本社会の文化の複雑さ、多面性、矛盾、多義性のマイクロモデルのようにも見え」てくるというのである。
 じつに多種多様なイメージが会田誠の想世界に詰め込められているのだ。ヴァラエティに富んでいる。それは想世界が広いというのとは少し違う。1歩、歩を進めれば見える世界が一変する。そして。そのイメージの変化は断絶といってもいいほど激しい。だから、その変化するイメージを全部集めてみると「取り止めがない」のだ。
 私の中で最もしっくりする表現は「diversity」である。それは多様性と言ってもいいのだが、多時間性、多次元性あるいは発散を含むようなイメージである。私たち鑑賞者は、会田のひとつのイメージ世界からもうひとつのイメージ世界へ(作品から作品へ、あるいは作品群から作品群へ)空間的に、時間的に歩を進める。異なった二つの作品(群)のイメージには鋭い断絶のような変化があって、いわば世界が1次の相転位を起こしているように変化する。だから、私たちの歩みに沿って位置微分しても時間微分しても相境界では発散するのだ。このような比喩でもまだ十分ではない。そもそも、作品群が微分可能な関数系になっていると仮定していいのだろうか。うまく説明がはまらないが、それほど「diversity」が激しいということだ。

            
            《あぜ道》岩顔料、アクリル絵具、和紙、パネル、73×52 cm、1991、豊田市美術館蔵 [2] 。 

 断絶だとか1次相転移だとかは作品間(作品群間)の話であって、ひとつの作品の中にはありうべからざる連続が描かれることがある。たとえば、《あぜ道》である。
 いつだったか思い出せないのだが、この作品はどこかで見たことがある。山下裕二が指摘するように、個展のポスターに使用されたらしいので、それを見たのかもしれない。きわめて自然に見える「異常な連続性」なのである。その不思議な自然さは、おそらく無批判に受容してきたごく常識的な(つまり、評価の定まった)絵画の構図を密輸入のようにしてはめ込んでいるからであろう。山下は、《あぜ道》を評して、次のように述べている。

 《あぜ道》は当時、彼が所属するミヅマアートギャラリーの所蔵だったが、その後、豊田市美術館が購入し、いまでは美術の教科書にも掲載されているという。なんと、アルチンボルド(1527-1593)の作品と並べて、トリックアート的な作品として掲載されているらしい。
  ……
 私は、このチラシの画像を見て、すぐさま戦後における「国民画家」という呼称を与えられ、最高の権威として奉られている日本画家、東山魁夷(1908-1999)の《道》(1950年)のパロディーであることを了解した。だが、いわゆる現代美術の世界の人たちが、このある意味単純なパロディーの基本を、発表当時にどれほど理解していたか [3]

 ウイーンかどこかでアルチンボルドの絵をいくつか観たことがあるが、アルチンボルドと会田誠に共通性はないと思う(いや、彼のdiversityのどこかにアルチンボルド的イメージ世界があって、私がそれを見つけられないということかもしれないが)。

    
      
《美しい旗(戦争画RETURNS)》襖、蝶番、木炭、大和のりをメディウムにした自家製絵具、
          アクリル絵具、各169×169 cm、二曲一隻屏風、1995、個人蔵 [4] 。 

 「戦争画RETURNS」と名づけられたシリーズ作品を見ていて、もうひとつ、会田誠作品を形容する言葉を思いついた。「脱構築」である。右からであれ左からであれ、戦争ほどその物語性、思想性、情緒性などが激しく構築されてきた事象はないだろう。そうした事柄、心性をいっさいチャラにして、戦争を知らない世代として戦争画を描く。そうして、無視されてきたのか拒絶されてきたのかは措くとして、異様に見える「あたりまえさ」が見えてくる。
 たとえば、《美しい旗(戦争画RETURNS)》における侵略する国と侵略される国の等価性(逆転可能性と言ってもいい)である。この絵は、明らかにドラクロワの《民衆を導く自由の女神》のパロディーだが、日本と朝鮮(どの国名を指定すればよいのか私にはわからないが)の等価性である。ゼロ地点から眺めれば、この絵は新しい物語を生み出すだろう。可憐さと凛々しさの対比から、たとえば私は、内向きのナショナリズムが持つ脆弱さと大陸での相互侵略に明け暮れた歴史が生み出す強靭なナショナリズムを見たりするのだ。しかし、この絵がそう語っているわけではない。私という鑑賞者がそのように感受する契機としてこの絵はある。たぶん、多様な感受の契機としてこの絵は働くのではないか。

    
     
《紐育空爆乃図(戦争画RETURNS)》襖、蝶番、ホログラムペーパーにプリントアウトしたCGを白黒コピー、
        チャコールペン、水彩絵具、アクリル絵具、油性ペン、事務用ホワイト、鉛筆、その他、169×378 cm、
        六曲一隻屏風、1996、個人蔵 [5] 。

 《紐育空爆乃図(戦争画RETURNS)》もまた、恐るべき等価性の表現である。太平洋を挟んでアメリカ合衆国と日本が戦争する。東京大空襲があったように、ニューヨーク大空襲があってもおかしくないはずだ(本来、一方だけが攻撃する戦いは戦いとすら呼べないのだから)。
 山下によれば、この絵は「マンハッタンの情景をかなり忠実に、しかし、パースペクティブによらず、奥行きの線を平行に描く構成は、明らかに《洛中洛外図屏風》を下敷きにしたもの」であるらしい [6] 。会田の絵は、このような仕掛けがあって、古今東西の絵画に詳しくない私は悩まされるのだが。 

 《紐育空爆乃図(戦争画RETURNS)》は、当然のことながら、アメリカ合衆国が発狂したのではないかと思えるほどの結果をもたらした〈9.11〉を思い起こさせる。〈9.11〉に関連してデヴイッド・エリオットが興味深い事実を記しているので、少し長いが引用しておく。 

 会田の次なるニューヨ一クとの出会いは、ローレンス•リンダーがキユレーターを務めた「アメリカン・エフェクト:アメリカについてのグローバル的視点1990—2003」に参加した2003年である。展覧会は、〈9.11〉以降のアメリカに広がる保守的な動きへの反応を表したものだった。リンダーが選んだ「戦争画RETURNS」シリーズの中でも最も大きい作品のひとつ《紐育空爆之図(戦争画RETURNS)》(1996年、pp. 68-69)は、観客に確かな衝撃を与えた。1945年の大空襲によって破壊された東京を思わせる、幅約4メートル、六曲一隻で作られた完璧な屏風絵には、200機にも及ぶ輪郭だけの影のような第二次世界大戦時の零戦が、爆撃され炎を上げるマンハッタンのダウンタウンの上空を、際限なく8の字を描いて飛んでいる。会田はこの作品をワールドトレード・センターのテロ事件が起こる5年前に制作しており、見当違いのナショナリズムを表した作品ではないことをはっきりと明言した。しかしそのイメージの強さとアンチ・アメリカ主義的な批判は、批評家たちによって展覧会全体と関連づけられ、会田の主張はかき消された。 [7]

 書き難いこともあるのかもしれないが、この文章の最後のあたりは少しあいまいである。当時(今も続いているかもしれないが)のアメリカ合衆国における言論の状況については、ジュディス・バトラーが次のように書いている。そのようなことから、会田誠の絵がアメリカでどのように受容されたか、されなかったか、ある程度の想像はできよう。

「九月一一日にはどんな口実もありえない」という叫びが、こうしたテロ行為を可能にした世界を作るのにアメリカ合州国の外交政策がどう手助けしてきたかについての真摯な公的議論をすべて押し殺してしまった。このことをもっとも如実に示す例が、よりバランスのとれた国際紛争の報道の試みが放棄され、アメリカ合州国の軍事政策に対するアルンダティ・ロイやノーム・チョムスキーのような重要な批判が、アメリカの主要新聞から軒並み追放されてしまったことだ。(……)きわめて深刻なことに、異議申し立てを現代アメリカ合州国の民主主義的文化の重要な価値と見なす考え方そのものが疑われるようになったのである。 [8]

     
       
左:《火炎縁雑草図》岩顔料、アクリル絵具、インスタントコーヒー、和紙、パネル、木材、
          190×218 cm、1996、個人蔵 [9] 。
       右:《火炎縁蜚蠣図》金箔、墨、岩顔料、和紙、パネル、木材、190×218 cm、1996、
          個人蔵 [10] 。

 

  《火炎縁雑草図》は、構図は異なるものの琳派の絵を意識しているのだろう。しかし、空白を重用する日本画をパロディー化すると《火炎縁蜚蠣(ごきぶり)図》になるのであろうか。金箔が全面に張られ、あたかもそのすべてを空白とするかのように、小さな(ほぼ実物大の)ゴキブリが精密に描かれている。全面金箔張の江戸趣味的な豪勢さに極小の黒ゴキブリ1匹である。唖然としながらも心惹かれるのである。
 だから、《火炎縁ごきぶり図》と《火炎縁雑草図》を並べて置くと、日本画としてどこかにありそうで、それでいてそんな日本画は思いつかない、そんな《火炎縁雑草図》を、どう観ても日本画のど真ん中ではないかと思い込みそうになるのである。

             
              
《高過ぎる日の丸(「みんなといっしょ」シリーズより)》紙にインクジェットプリント、
                    c. 150×110 cm、2003/2012、豊田市美術館蔵 [11] 。

 あっさりと単純な構図の《高過ぎる日の丸》は、きわめて刺激的である。「高過ぎる日の丸」は何の寓意だろう。左上の人物は、どこにロープを引っ掛けて自殺をしているのだろう。日の丸が高ければ高いほど、人は高みで自死できるのだろうか。それとも、日の丸がどんなに高すぎても、所詮、首吊りロープを引っ掛ける梁の高さほども高くはなれない、という暗示だろうか。
 あまり、構図のシンプルなこの絵に饒舌としての言葉を無用だろうけれども、激しく多弁な反応を呼び起こしそうである。

              
                   
《37階のママチャリ(「みんなといっしょ」シリーズより)》 
                     紙にインクジェットプリント、c. 150×110 cm、2005/2012 [12] 。 

 《37階のママチャリ》もとても気になる絵である。高層マンションにも人が住み、暮らしがある。何の不思議もない。住人は車にも自転車にも乗るだろうし、時としては乗らないだろう。どちらであっても「普通」である。それでも、37階の玄関脇にママチャリが「在る」というのは、やはり気になる。せいぜい2階程度のイメージを37階にすっと置き換えて見せる。そこで生まれる異和が現代社会なのだ、ということか。

     
        
《人プロジェクト》アクリル絵具、キャンバス、インクジェットプリント、紙、197×89(×2) cm、
                 197×259 cm、2002、広島市現代美術館蔵 [13] 。

 作者の意図はどうであれ、《人プロジェクト》は至極まじめな所業としてあるのではないか。左右に英語と日本語で書かれたプロジェクトの進め方は熟読しなければならない。単純なプロジェクトの工程であるが、これはまた、人間が自然に加えてきた全歴史的工程の再現でもある。この工程をありとあらゆる場所で極限まで進めようとする資本とそれに対抗するエコロジストたちが等価に突き放されている。 
 「6 作品は完成後すぐに撤去しても、永久に設置しても、どちらでも構わない」。これはシニシズムではない、あるニヒリズムである。

 それにしても、私が受容しきれなかった作品はたくさん残った。会田誠の主要なモティーフのひとつである「美少女」というのが、さほど響かなかった。いや、《シンプル・オブ・100フラワーズ》 [14]  は美しいと感じたし、美少女の身体性についても考えされられた。躍動する裸の美少女たちの身体が部分的に毀れるとそこから無数の花(花であり、コインであり、宝石であり、菓子であったりはするが)が飛び散る。毀れた身体はと見れば、硬質の薄い皮膚1枚だけで身体は空洞なのであった。「器官なき身体」ですらないのだ。
 しかし、スクール水着姿(1部は制服姿)の美少女たちが滝のいたるところで遊んでいる《滝の絵》には、ほとんど感慨というものが湧かなかった。まず、中学生くらいの美少女にあまり私は感動しないらしい。まして、スクール水着にもセーラー服タイプの制服にもどうも何がしかの感情を際立たせられない。私のエロティシズム受容に欠陥があるのであろうか、と疑ってしまうのだ。
 美少女で哲学するビデオ《イデア》という作品もある。美少女のイメージを徹底的に昇華させる、徹底的に抽象化を行うと「美少女」という抽象概念になる。それは、「美少女」という文字だけで表象されることになる。ならば、私たちは「美少女」という言葉で性的刺激を受けるのではないか。そこで、壁に「美少女」と大書して、それを眺めながら芸術家は自慰にふけるのである。この作品を見て、大笑いした(展覧会場内なので声を出さずにだが)。そして、家に帰って、「なかなか勃起せず、撮影に時間がかかった」という意味のことが図録に書いてあったのを読んで、今度は声を出して笑ったのである。

 いずれにせよ、面白かったし、楽しかった。

 

[1] 岡真実「混沌の日本の会田誠」『会田誠展:天才でごめんなさい』(以下、図録)(森美術館、2012) p. 21。
[2] 図録、 p. 84。
[3] 山下祐二「偽悪者•会田誠――日本美術史からの確信犯的引用について」 図録、p. 186。
[4] 『会田誠第二作品集 三十路』(以下、作品集二)(ABC出版、2002) p. 21。
[5] 作品集二、 p. 12。
[6] 山下祐二、図録、p. 188。
[7] デヴイッド・エリオット「ものごとの表面――会田誠のドン•キホーテ的世界」図録、p. 199。
[8]  ジュディス・バトラー(本橋哲也訳)『生のあやうさ 哀悼と暴力の政治学』(以文社、2007) p. 22。
[9] 図録、 p. 94。
[10] 図録、 p. 95。
[11] 図録、 p. 149。
[12] 図録、 p. 173。
[13] 作品集二、 p. 24。
[14] 図録、 p. 51-4。