かわたれどきの頁繰り

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【書評】絓秀実『反原発の思想史――冷戦からフクシマへ』(筑摩書房、2012年)

2012年12月19日 | 読書

         

 

 

 詳細を究める歴史記述本の書評というのは難しい。よくある書評のようにごく大雑把にけなすか褒めるかすることなら可能だろうが、読書後の自分の思考の整理を兼ねようとすると途端に難しくなる。
 いつものように重要と思われる部分の抜き書きをするのだが、この本ではこの抜き書きそのものが多くなってその作業に手を焼いた。抜き書きが大量になってしまうのは、結局、要約そのものが私には難しいということである。歴史記述は往々にしてそうなる。ある一点を押せば、歴史関連を持つ事象が次々に反応してしまう。私にはフィルタリングの才能がないのである。

 

 言い訳から始めるしかないほど困っているのだが、強引に進めることにしよう。誤解、誤読なんてしょっちゅうなのだから、何をいまさら、ということである。過不足なく史的内容をなぞったり、まとめたりすることなど不可能なのだから、興味深かった二つ、三つについて記すことにする。

 佐藤卓己(『八月十五日の神話』)を引用し、著者は「唯一の被曝国・日本」という認識は、「主にメディアによって、「起源」として捏造された」ものだという。反原発の運動は、けっして広島、長崎の原爆投下によって始まったわけではないのである。反原発運動のA1954年のビキニ環礁における第5福竜丸の被爆と乗組員の死を受けて始まったとして、著者はAZAからZ、ではない)に触れてこう書いている。

杉並区の公民館長・安井郁(国際法学者、法政大学教授•当時)を囲むミドル・クラスの主婦グループを中心に開始された原水爆禁止を求める署名運動を発端として、運動は全に広まっていく。八月二三日には原水爆禁止国民大会が東京で開催され、九月には「原水爆禁止日本協議会」(原水協)が、社会党・共産党という当時の左派勢力をバックにして結成されていくのである。二〇一一年三月一一日の福島第一原発事故の後、四月一〇日の、ツイッターその他電子メディアをつうじて、一万五〇〇〇人(主催者側発表)が自然発生的に集まった高円寺デモを皮切りに、五月一一日、六月一一日、九月一一日と反原発の大衆的なデモンストレーションを組織したのが、やはり杉並区高円寺を拠点とする「素人の乱」であるのは、何か因縁めいたものを感じさせる。 (p. 15)

 これが「まとめ」というわけにはいかないが、ごくごく乱暴に言えば、高木仁三郎や津村喬の動きを加えれば、「AからZ」を尽くすのではないか。つまり、現在の反原発運動Zを支える思想の問題として考える限り、「「原水爆禁止日本協議会」(原水協)が、社会党・共産党という当時の左派勢力をバックにして結成されていく」流れを中抜きにすると、歴史的見通しはずっとすっきりする。もちろん、それはあくまで後知恵としての現在からのまなざしということであって、私たちを絡め取っていた時代のイデオロギーを見ておくことは重要であろう。

 「68年」以前、既成左翼に担われる反核運動は、「大きな物語」としてのマルクス・レーニン主義の枠組み、というよりレーニン的な生産力理論の枠組みを超えることはできなかった。その点では、第5福竜丸事件以前の「反核」の科学的支柱であった理論物理学者の武谷三男も例外ではない。理系の学生(実際に原子力工学を専攻していた)であった私にしてみれば、後に『原子力発電』(岩波新書、1976年)の編著者であった武谷は、あこがれの物理学者であった。その対極にあったのが、伏見康治だった(あくまで、私にとって、である)。

 マルクス主義者で著名な理論物理学者の武谷三男の影響下にあった若手学者たちは、政府主導で原子力研究が進められた場合、それが軍事転用される可能性が高いことを指摘して反対した。学会総体も、それに同調するものであった。一九五〇年には朝鮮戦争が勃発しており、日米安保のもと、核戦争に日本が巻き込まれるのではないかという危惧が、広く社会をおおっていたのである。

ただ、武谷らの主張も、原子力の平和利用自体は否定しないという枠組みの議論であったことに注意しなければならない。武谷理論は、茅誠司(後に東大総長)や伏見康治(物理学者、後に公明党参議院議員)が主導して日本学術会議が示した原子力の平和利用三原則(「原子力の研究と利用に関して公開、民主、自主の原則を要求する声明」一九五二年)に反映された。 (p. 22)

 原子力の平和利用としての原発を容認するというのは、当時の反核平和運動に宿痾のようについてまわる。日本共産党が311東電福島第1原発事故のあとでようやく反原発に党是を変更したのだし、社民党は誇らしげにずっと反原発だったと言いつのっているが、社会党・総評が「ソ連邦や中国のイデオロギーを踏襲してい」たために、福竜丸事件当時は反原発には至っていなかった。それは、「時代的・歴史的な制約」であった。
 当時の支配的イデオロギーとしての科学的唯物論、レーニンの「生産力理論」が、現在の資本主義国家もまた援用していると、次のように述べている。

 ロシア革命の指導者レーニンは、「共産主義はソヴェト権力+全国の電化である」という高名な言葉を残した。悪名高い「生産力理論」である。もちろん、レーニンは核兵器も原発も知らなかったのだが――。
 
生産力理論は、「福島」以降も――中国やヴェトナムなど旧社会主義国を含めた――資本主義のなかに健在である。なおも原発を推進しようとする勢力は、原発がなければエネルギーが不足する、GDPが落ちると、繰り返し資本主義の危機を煽ることで、それを正当化しているからである。それは、安価な労働力を保有する旧第三世界諸国への原発輸出として実現されていくだろう。もちろん、旧第三世界諸国も、原発の建設を積極的に推進しょうとしている。
 
レーニン以後の社会主義国の指導者たちは、戦争において核兵器を使用したアメリ力合州国を非難しえたとしても、原子力の平和利用については、それに反対する論拠を持たないどころか、むしろ積極的にコミットして行くほかなかった。マルクス主義は「科学」であると標榜する当時のコミュニストにとって、原子力エネルギーの開発にまで進埗した科学は、客観的に正しいものだからである。 (p. 29)

 既成左翼陣営では、「ソ連や中国の原爆は「きれいな原爆」だ」だとか「ソ連邦を中心とする社会主義ブロックが平和勢力である」と信じられていて、反核=反米としてのみ語られ、社会主義圏の核兵器すら容認される中で、反原発は夢のまた夢であった。
 したがって、武谷の主張に譲歩する形でまとめられた「民主•自主•公開の三原則」をベースにした原子力三法による原発の開発が「国民的コンセンサス」になったのである。

 日本において反原発という方向が芽生えるのは、後にやや詳述するように、一九六〇年代になってからであり、原発建設に反対する地域住民闘争を通じて、それに「科学批判」という新たる学問的認識が交差することによってであった。
 
しかも、そのためには「一九六八年」の世界的な学生反乱という巨大な切断がなければならなかったのである。 (p. 30-1)

 著者には『1968年』(ちくま新書、2006年)、『革命的な、あまりにも革命的な――「1968年の革命」史論』(作品社、2003年)の著作のほか、編著である『思想読本11 1968(作品社、2005年)があって、〈68年〉の持つ意味、その後の運動や思想地図については詳細を究める。とくに「68年」前後に勢いを増していた新左翼諸党派の「自民族中心主義への、華青闘」(華僑青年闘争委員会)による告発として知られる……一九七〇年の七・七集会(於:日比谷野外音楽堂)が、日本の「六八年」の質を決定的に転換するターニングポイント」(「一九六八/一九七〇」『思想読本11 1968p. 3だとする主張は著者がつとに述べてきたことだ

 「68年」は政治闘争であり、文化闘争であった。大学を中心とする闘いは、科学の権威に挑戦する形で「反科学主義」の一面を露わにする。この流れは、全人的救済を求めるようなエコロジー思想としての反原発の流れの一つとなる。
 「反科学」はまた、中ソ論争、文化大革命を通じて第3世界論影響を受けてもいたのである。しかし、それは次のように語られる相においてであった。

 毛沢東中国の第三世界論を積極的に「誤読」し、科学批判へと接続するためには、文化大革命についての、心情的な「誤解」が必要だった。それは、科学を含む「文化」に対する革命であると宣言されていたからである。 (p. 44)

 反科学的な運動のなかで、高木仁三郎を中心とする科学者グループはあくまで科学的な立場から反原発運動を展開する。私の個人的な立場から言えば、高木の反原発の立ち位置を最も注目し、評価している。著者は、高木の思想が現在まで持ち込んでいる意味と意義を次のように的確に記述したうえで、その後の高木の思想に批判も加えている。

 「福島」以降、高木に対する賞賛は高まる一方だが、高木を「市民科学者」とした「六八年」という問題系は振り返られることがない。それは、高木は記憶されても、彼に「影響の不安」(ハ口ルド・ブルーム)をもたらした菅谷規矩雄が、詩壇の一部を除いては全く想起されないことにもあらわれている。もちろん、詩壇における話題は菅谷の詩や詩論に限られている。しかし、高木が菅谷から受け取った問題は、一言で言えば「産学協同」への批判と言い換えうる。それは、「原子力ムラ」を作り上げたものでもある。
 
現在、「原子力ムラ」に住む学者への場当たり的な批判は聞かれても、彼らを存在せしめた産学協同への批判は皆無である。世論は、相変わらず大学・研究所や資本に産学協同の拡大を求めるばかりである。広重徹らの科学批判が提起した問題など、今や一顧だにされない。もとより、産学協同と無緣な、「純粋な」学問など存在しえない。それは、自然科学系に限らない、全ての「学問」について言える。しかし、それは不断に問い直されなければならないのである。  (p. 83-4)

 一九八六年にチェルノブイリ原発事故が起こった時、その「チェルノブイリ」という言葉がウクライナ語で「ニガヨモギ」の類種を意味するところから、それを「ヨハネの黙示録」と結びつけた言説が横行した。黙示録には、巨大な「ニガヨモギ」という名の星が川の水源に落ち、川の水の三分の一がニガヨモギのように苦くなって、多くの人が死んだという記述がある。
 
武田徹も指摘しているように、科学者高木仁三郎さえ、このレトリックを採用した。つまり高木にとつても、チェルノブイリ事故はエコロジカルな宮澤賢治的宇宙を破壊する終末論的な危機と捉えられたのである。
 
それは、それ自体でニューエイジ的な発想であり、同じ時期に、ユダヤ陰謀史観と終末論で扇動する『危険な話』を上梓し、一九八八年から八九年の反原発「ニューウェーブ」の巨大なうねりを現出させることに寄与した、広瀬隆と選ぶところがない。もちろん、高木も反原発「ニューウェーブ」の先頭に立った。その運動の正負の評価は後の第6章に譲るが、終末論も一種の脅迫であり、「安全」という「統治テクノロジー」に奉仕する。終末論は、必ず「安全システム」に回収されるからである。  (p. 193-4)

 著者が語るように、現在の大学を中心とする自然科学の領野では「産学協同」は議論の対象にすらならない当然の基底のようになっている。国立大学法人における大学の充実とは、工学系分野の充実と等価のようにすら見える。にもかかわらず、著者は「それは不断に問い直されなければならない」というのである。
 これはおそらく反原発運動のZというべき現在の運動への極めて重要な示唆、批判となっている。たとえば、「シングル・イシュー」によって運動をまとめあげようとすることに対して強い異論が出されていることも、その一つであろう。


 原発推進というのは自民党、正力、読売、原子力村などの枠組みを大きく超えている。アメリカの原子力の平和利用という世界戦略から、IAEA(International Atomic Energy Agency、国際原子力機関)ICRP(International Commission on Radiological Protection国際放射線防護委員会)が設立されたが、これらの国際機関は原発推進ための組織であることを忘れてはならない。原発は《帝国》(ネグリ&ハート)とも呼ぶべき国際体制のもとで推進されている。つまり、原発政策は選択可能な一政策としてあるわけではない。したがって、反原発運動は、グローバル化している世界資本主義への対抗的視点を獲得しなければならない、という理路が成り立つだろう。そうであれば、「シングル・イシュウ」は運動のスタイルとしては力不足になってしまう。

 一方で、ドイツが原発ゼロを目指すという決定をしたことは、一国主義的に世界資本主義の弱い環を立ちきるという運動の方向がありうる、とも言える。既成左翼がこの問題に関してまったく無力なのは歴史が明らかにしている。著者が「ニューエイジ」、「ニューウェーブ」、左派的「ドブネズミ」の運動と思想に大部を費やしていることは、そのままでは無理だが、深く検討することを通じて、そこから世界システムに対置しうる運動思想が生まれる可能性を予感しているからではないか、と私は勝手に想像している。
 とくに、津村喬の思想を詳細に検討しているが、それは彼が正しく反原発の思想を立ち上げていたと信ずるゆえであろう。そこには、冷静に史的事象を記述していながら、著者の津村喬への愛惜のようなものを感じるのは、私の思い過ごしだろうか。

 

資本主義批判としての反原発。この視点こそ、今日もっとも必要なものにほかならない。そうでないとすれば、反原発の論調は、せいぜい「安全な」クリーン•エネルギーというベンチャー・ビジネスに回収されていくだけだろう。そして、ベンチャーこそ、本質的に新自由主義的なものであることは、リーマンショックに帰結したこの一〇年の経験で、誰もがウンザリするほど知っていることではないだろうか。

津村の反原発論のアクチュアルな政治的核心は、ここにある。それは、ロッキード事件という契機に触れて、「安全」という統治テクノロジーの批判にいたったところにあるのだ。先進資本主義国の「安全」は、第三世界の「犠牲」によって担保されているというのが、津村の前提である。このことは、何度も強調しておくが、日本や旧先進資本主義国の脱原発化のプロセスが、同時に、旧第三世界における原発の爆発的な増発として帰結するだろうことを、すでに予想している。

しかし、津村の先駆的な提言は、ほとんど浸透しなかった。 (p. 129-30)

 

 しかし、「提言」として「浸透」するような現在の時点での「資本主義批判としての反原発」が如何なるものであるのか、私には想像が付かない。運動の先に生まれることを期待しているが、思想の準備なく進める反原発運動を強固に維持できるのかも私にはわからない。もっと重要なことは、「日本の原発(だけ)がなくなればよいというのは、端的にナショナリズムでしかない」と著者が指摘するように、そのよう形の運動が「ナショナリズム」に回収される危険性も大きいのだ。
 「シングル・イシュウ」問題に関して言えば、次のような指摘も重要であろう。

 

たとえば、今日の反原発運動において、右派の相当部分も、「山河を守れ」、「生命を守れ」という立場から行動をおこなっており、それ自体では左派の大方と変わらない。ドブネズミたるネットウヨクのかなりの部分にとっても、エリートが支配している大ジャーナリズムは、それ自体で欺瞞的であり、ウソを言っていると見なされる。それゆえ、大ジャーナリズムが、相対的に原発推進派であることは許しがたいのである。ネットウヨクの相当部分は反原発派である。小林よしのりは「脱原発論」の連載を開始した(SAPIO」二〇一一年一二月七日号)

しかしまた、別の右派は、原発を撤廃すれば、国民の生活が守れない、国民の生活を守れ(生命を守れ!)として、それに反対している。左派の原発「安全」批判は、反原発右派と立場を共有する。それは同時に、国民の生活を守れ、ということでもあるからだ。右派も左派もネットウヨクも、すべてホンネからの運動のわけだ。しかし、ホンネは本当に「正しい」のか。本書が歴史的な検証をとおして、繰り返し指摘してきたのも、そのことである。 (p. 327-8)


〈ホンネは本当に「正しい」のか〉。これは、深い考慮を要する。ホンネを組織する、それは大事だ。問題はそこから先だ。運動である以上、多数性は重要だ。しかし、「反原発」という一点からは、どのような社会を目指すのかという多数の合意は取り出せない。「原発のない社会」と表明したとき、シングル・イシュウでは社会そのもののイメージが描けないのだ。

著者はまた次のよう指摘して、福島以降の思想状況、思想家たちの危うさをも指摘している。

 

右派の「生命を守れ」というスローガンとリベラル左派の「生命を守れ」というスローガンは、日本の原発だけを問題にしている限り、何の差異もない。この時、ニューエイジ的・ロハス的なエコロジー主義が回帰してくる。日本的「自然」こそ、守るべき「生命」であり、原発を生み出した西欧的近代科学主義をこえる代替知――天皇制――を内包していたとさえ見なされかねないからだ。かつて、大東亜戦闘戦時に詩人の高村光太郎が「天皇あやふし」と叫んで天皇制に目覚めたように、「福島」に際しても多くのポストモダニストたちが「天皇を中心とした神の国」に目覚めたと言っている。 (p. 338-9)

 

現在、きわめて多数の人間が反原発デモに参加している。そして、現在のデモの態様を著者は危惧しているのだ。

 

かつて日本の左派の伝統芸であったスクラムデモは、一緒にデモをしている人間を警官による逮捕から相互に守るという意味があつた。ところが、「ニューウェーブ」以降のデモスタイル(パレード!)は、そのスクラムをほどいたのである。それは「過激な」スクラムデモをやめて官憲による逮捕を避けるという即時的な意図であつたが、全く逆の効果をももたらすものでもあった。どんな穏健なデモでも、官憲は逮捕したければ逮捕する。ところが、官憲との対応は端的に「自己責任」となったのである (p. 331-2)

 

救援組織が必要だということだろう。実際に、2011年の新宿「911反原発デモ」や大阪の反原発・反瓦礫処理運動では20121210日に逮捕者が出ている。それを「自己責任」化することはけっして許されないだろう。反原発運動が長丁場になるに違いないことを考えれば、準備することはたくさんあるのである、思想においても、方法論においても。