かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【書評】ジョルジョ・アガンベン(岡田温司、多賀健太郎訳)『開かれ――人間と動物』(平凡社、2011年)

2015年11月10日 | 読書

 

あらゆる眼で生きものは見ている
開かれた世界を。ただ 私たちの眼だけが
まるで逆さまのようだ そしてまったく生きもののまわりに
彼等の自由な外出を囲んで 罠として置かれている
外にあるものを 私たちはただ動物の顔から
知るだけだ なぜなら既に幼な児を
私たちは振り向かせ 無理に背後に向って
物の姿を見させているからだ それは動物の眼のなかで
あんなに深い 死から解放されている 開かれた世界ではない
死を見ているのは私たちだけだ 自由な動物は
その没落をいつも背後にして
まえには神をのぞみ見ている そして彼等が歩むときは
永遠の中へ歩んでゆくのだ ちょうど泉がそうであるように。
私たちはいちどもただの一日(ひとひ)たりとも
花がそのなかへ無限に立ちのぼって開く
純粋な空間をまえにしたことはない あるのはいつも世界
そしていちども否定のない「何処でもないところ(ニルゲンツ)」であることはない
     ライナー・マリア・リルケ「ドゥイノの悲歌 第八の悲歌」より [1]

 

 「開かれ」は、「ドゥイノの悲歌」の第八の悲歌でリルケによって詠われたものをハイデガーが哲学的に転倒してみせた概念である。アガンベンは、世界や環界への存在の「開かれ」のありようで人間と動物のあいだの異同を論じようとしている。
 人間とは何か、人間はいかなる根拠で人間たり得るか、という設問はヒューマニズムのもっとも根源的な主題である。それは、ナイーヴには、人間は他の動物とは違うということを強調することで語られることが多かった主題でもある。『ホモ・サケル』や『アウシュヴィッツの残りのもの』で「人間ならざる人間」の存在を問い続けてきたアガンベンが、本書ではヒューマニズムの系譜で語られてきた人間と動物を同時に俎上に載せている。

 アガンベンが最初に取り上げるのは、きわめて暗示的な「アンブロジアーナ写本の細密画」である。ただし、多賀健太郎による「解題」には、「巻頭と第一九章に挿入された二枚の絵をあらためて眺めてみよう」(p. 181) と記されているものの実際には掲載されてない(第一九章の絵は挿入されている)。残念なことだが、アガンベンの描写から想像するしかない。

 ミラノのアンブロジアーナ図書館には、貴重な細密画を含む一三世紀のヘプライ語聖書が一冊保管されている。第三写本の最後の二頁全面に描き出されているのは、神秘的かつメシア的な霊感に充ちた情景である。(……)最後の頁(136r)は、二つの部分に分かれ、上部には「三匹の太古の動物たち」が置かれている。(……)
 しかし、とりわけわれわれの興味を惹くのは、写本を閉じるという意味でも、人類の歴史を締めくくるという意味でも、最後のものとなる情景である。そこには、最後の審判の日における義人たちのメシア的な宴が描かれているのである。二人の楽人の音楽に活気づいた楽園の木陰で、冠をつけた義人たちは、豪華な御馳走を並べた食卓についている。メシアの世において、トーラーの淀を一生涯遵守した義人たちが、適正な方法に則って屠られたかどうかを一切気にすることなく、レヴィヤタンやべへモー卜の肉の御馳走にありつける、という考えは、ラビ伝承ではきわめておなじみのものである。だが、驚くべきは、今日にいたるまで言及されることがなかった部分にある。細密画家は義人たちを、冠の下に人間の姿としてではなく、見紛いようもない動物の頭部をもった姿で描いていたのである。この絵の右手にいる三人の義人たちには、終末論的な動物たちのなかでも、鷲の獰猛な嘴、牛の赤茶けた顔、獅子の頭部が認められるだけでなく、図中のそれ以外の二人の義人も、一人は驢馬のグロテスクな特徴を、もう一人は、豹のような横顔を見せている。さらに、二人の楽人もまた動物の頭を戴いている――とくに右側の人物がいっそうわかりやすいだろうが、彼は猿のような神妙な面持ちでヴィオールとおぼしき弦楽器を奏でている。 (pp. 11-2)

 最後の審判で生き残るのは「完全な人間性を体現する義人たち」であり、「イスラエルの生存者を代表する人々」(p. 13) である。メシア到来の時、その義人たちが「動物」の頭部を持つ「人間」、動物人(テロモルフォ)として描かれている意味を、アガンベンは「最後の審判の日、動物と人間の関係が新たなかたちへと和解され、人間そのものがその動物的な本性との宥和を告げるだろう、ということだった」(pp. 14-5) と推測している。
 究極の世界で人間と動物が宥和を遂げるという考えは、近代哲学にも存在する。ヘーゲル-コジェーヴ的な歴史の終焉における人間の完結の姿である。歴史が終焉を迎えた後、つまり歴史以後(ポスとストリコ)とは、「ホモ・サピエンス種という動物が人間になるという忍耐強い労働と否定の過程を経て、それがついに完結を迎える暁のこと」(p. 17) で、次のようなコジェーヴの一文を引用している。

歴史の終焉における〈人間〉の消滅は、全宇宙的な終末(カタストロフ)ではない。すなわち、自然界は永遠に値するものでありつづけるのである。それは生物学的な終末ですらない。すなわち、〈人間〉は、〈自然〉や所与の〈存在〉と一致する動物として生きつづけるのである。消滅するものとは何かといえば、それは、本来の意味での〈人間〉、すなわち所与を否定する〈活動〉であり〈誤謬〉であり、総じていうなら、客体に対立する主体なのである。実際、人間的〈時間〉の終焉、もしくは〈歴史〉の終焉、つまり、本来的な意味での〈人間〉、もしくは自由かつ歴史的な〈個人〉の決定的な根絶は、端的にいえば、語の強い意味における〈活動〉の廃棄を意味している。このことが実質的に示しているのは、血腥い戦争や革命の消滅である。さらにまた、それは〈哲学〉の消滅でもある。〈人間〉がもはや本質的な仕方で自分自身を変革しなくなるや否や、〈世界〉と〈人間〉自身の認識の基底にある(真の)諸原理を変革する動機もなくなってしまう。だが、それ以外のものすべて、いいかえれば、芸術、愛、遊びなど、要するに人間を幸福にするものすべては,際限なく継続してゆくのである。 (Kojéve [2]、p.18)

 この主張に対し、コジェーヴの年長の弟子であり、象徴的な誌名の『アセファル(無頭人)』という雑誌を発行していたジョルジュ・バタイユは、「芸術、愛、遊びなど」が「ただたんに動物的実践へと送り返されてしまった」(p. 20) ということが受け入れられず、「用途なき否定性」として人間は存続すると反論する。それはあたかも、アンブロジアーナ写本の細密画に描かれたメシア到来後の世界を生きる動物人に対応するような、歴史の終焉以後を生きる無頭の人間「アセファル」を措定しているかのようである。
 しかし、動物人(テロモルフォ)や無頭人(アセファル)には人間と動物の存在論的な象徴的関係性ないしは魅力的なアレゴリーが含意されているように思うものの、私自身はメシアの到来や歴史の終焉にどのようなリアリティも感じることがない。
 さて、おそらくほとんどの人間はいつもナイーヴに自己の中に動物性を見ている。

 ビシャによれば、あらゆる高等的な有機体において、あたかも二匹の「動物」、すなわち内部に存在する動物外部に生きる動物が同居しているかのようである。前者、つまり、内部に存在する動物の生――ビシャの定義では「器質的(オルガーニュ)な生」――は、いわば盲目で意識を欠いた一連の諸機能の反復(血液、呼吸、消化、排泄などの循環)にほかならない。かたや後者、つまり、外部に生きる動物の生――ビシャにとって「動物的な生」という名称に値する唯一の生――は、外部世界との関係を介して規定される。この二匹の動物は人間のなかに同居してはいるが、一致してはいない。内部の動物の器質的な生は、胎児にあっては、動物的な生に先立って始まり、老化や臨終の際にあっては、外部の動物の死後まで生きつづける。 (pp. 34-5)

 意識を欠いた諸機能の反復としての「器質的な生」は、植物的な生の機能を担っている。近代医学は、この器質的な生を人間から分節化できることをよりどころとしていたし、近代国家の生政治はこの植物的な生を統治すべき人間に置き換えてしまったのである。

かくして、植物における生と関係からなる生、器質的な生と動物的な生、動物的な生と人間的な生の分割線(チェズーラ)は、動く境界線として、とりもなおさず生きた人間の内部に移動するのであり、このような内的な分割線を欠くならば、人間的なものと人間的でないものとを決定するということ自体、おそらく不可能になろう。 (p. 36)

 人間の内部に動物と人間の分割線があるとすれば、「新たな仕方で提起されねばならないのは、まさに人間――そして「ユマニスム」――という問題」(p. 36) だとアガンベンは言う。

もし万が一にでも、動物的な生と人間的な生とが完全に重なり合うとすれば、人間も動物も――そして、おそらくは神でさえも――もはや考察されえないだろう。だからこそ、歴史以後(ポストストーリア)に到達するということは、人間と動物の境界線が画定されていた、歴史以前(プレイストリコ)の閾をふたたびアクチュアルなものにする、ということを必然的に意味しているのである。  (p. 44)

 アクチュアルな歴史以前の認識論に立ち至ることに、私はもちろん賛成する。そして、アガンベンはまず手始めとして、トマス・アクィナスの「人間たちが動物を必要としたのは、おのれの本性から経験的認識を導き出すためだった」という認識を強く批判する。

おそらく強制収容所や絶滅収容所もまた、この種の経験=実験、すなわち、人間か間かを決定しようとする極端かつ途轍もない企てといえるだろう。そして、この企ては、最後には、人間と間とを弁別する可能性そのものを破局へと巻き込んでいくのである。 (p. 46)

 動物から人間を弁別する思考・概念を、アガンベンは、人間を生み出す装置と見なして「人類学器械」と呼ぶ。たとえば、近代生物学における分類学の泰斗リンネのそれは、「人間の持つ種としての特性は、ただおのれを認識できるということだけである」(p. 52) という考えである。

人類(ホモ)とは、「人間の形をした(アオントロポモルフォ)」(リンネが『自然の体系』第一〇版まで一貫して使用した用語にしたがうならば、「人間に類似する」)ものとして構成された動物であり、この動物が人間的たりうるためには、人間ならざるもののうちにみずからを認識しなければならないのである。  (p. 54)

 生物学に対して、人文主義(ユマニスム)もまた人類学器械となる。しかし、「人文主義のマニフェスト」(p. 56) と呼ばれるピコ・デッラ・ミランドラの演説が示したものは、人類を動物と人間の間に宙づりにしたままであった。

汝自身のいわば自由意志を具えた誉れ高き造形者にして形成者として、汝は、汝が望むような姿で汝自身を模(かたど)ることができる。汝は、下位の存在にある獣へと頽落することもできるだろうし、また心がけしだいでは、上位に存する神的なもの、と転生することもできるだろう。 (Pico della Mirandola [3]、p. 58)

 人類が宙づりのまま、動物と人間の端境に置かれていることを明確に述べたミランドラの文言をジグムント・バウマンも引用している。神は人間をどのように仕立てたかを、ミランドラは次のように語る。

〔神は人間を〕明かされていない自然の創造者に仕立て、人間を宇宙の真ん中に据え、人間にこう告げた。「お前には、既定の場所もお前だけの形も特別な機能も与えていない。おお、アダムよ。そういうわけだから、自分の欲望と判断にしたがって、お前が望むどの場所でも、どの形でも、どの機能でも持つがよい。何の制約も受けないお前は、自分自身の性格を自分で決めるがよい……」。 (Pico della Mirandola [4])

 つまり、ユマニスムという人類学器械が生み出したものとは、「人間そのものの不在の発見なのであり、人間の尊厳=序列(ディグニタース)の取り返しようのない欠如の発見」(p. 54) だったのである。ここでは、人間と動物は宥和することもなく、分割線を隔てて隣接する存在同志でもない。人間は、「動物」と「ヴァーチャルな人間存在」とに引き裂かれた時空に「何ものでもなく」吊り下げられているだけだ。
 次なる「人類学器械」は、人類学そのものである。「人間と動物を隔てるものは、人間が言葉を持っていることだ」という言説は、いまや巷にありふれている。しかし、言葉を人類学器械に導入しても、アポリアは残される。
 進化論的には人間は言葉を獲得した猿であるが、進化系列の途中で人間が発生するが、そのとき言語の発生と機を一にしていたとは考えにくい。

 人間と動物を区分するのは言語である。しかし、言語は人間の心的構造のなかに先天的に具わる自然的な所与ではない。それどころか、言語は歴史の産物なのである。したがって、そういうものとしては本来、言語は動物にも人間にもあてがうことはできない。もしこの要素を捨象するならば、話さない人間――まさしく言葉をもたない人(ホモ・アラルス)――を想定しないかぎり、人間と動物の差異は無効になってしまう。ここでいう話さない人(ホモ・アラルス)は、動物から人間への橋渡しの役割を果たすはずであろう。しかしながら、言葉をもたない人が、たんに言語の投射する影、言葉を話す人間にとっての前提条件にすぎないことは明白である。われわれはむしろ、言葉を話す人間を介して、つねに人間の動物化(ヘッケルの猿人のような動物人)か、動物の人間化(人猿)かのいずれか一方だけを抽出してくるのである。動物人と人獣は、それらのいずれによっても埋めることのできない同じ断絶の二つの顔なのである。 (pp. 67-8)

 なぜ人間だけが言葉を獲得し、動物は言葉を獲得しなかったのか、その答はない。この答がなければ、いつ、どうして動物から人間が始まったかにも応えられない。
 こうしてみると、人間が歴史的に駆使してきた「人類学器械」そのものを問題にするしかない。人間と動物、あるいは人間と人間ならざるものという対立する二項によって人類学器械を作動させるかぎり、それは常に排除と包摂に寄って機能するしかないとアガンベンは主張する。

 おそらくこれは、近代人の人類学機械だろう。人類学機械は――これまで見てきたように――すでに人間であるものを(いまだ)人間ならざるものとして自己から排除することによって作動している。つまり、人間を動物化し、人間のうちから非人間的なもの、すなわちホモ・アラルス、あるいは猿人を分離することによって作動しているのである。また、われわれの研究領域を数十年先にずらしてみるだけでいい。そうすればわれわれは、こうした無害な古生物学の発掘資料の代わりに、ユダヤ人を、いいかえるならば、人間のうちに生み出された間を、あるいは新死体(ネオモール)や過剰昏睡状態を、すなわち、同一の人体のうちで分離された動物を手にすることだろう。  (p. 70)

 この近代の人類学器械は、「人間ならざるものが人間を動物化」するように作動しているのに対して、古代の人類学器械では、人猿や獣人のように「人間ならざるものは動物の人間化によって獲得される」(p. 70) のである。古代と近代の二つの人類学器械は、ともに人間と人間ならざるものの間に「まったくの空洞」である未確定の領域を設定している。その領域に「真に人間的なもの」を作り上げては更新し続けているのである。

したがって、いずれにせよ、獲得されるべきものは、動物的な生でも人間的な生でもなく、ただ自己自身から分断され排除された生――剥き出しの生――だけなのである。
 剥き出しの生という、人間と人間ならざるもののこの極端な形象を前にすると、双方の機械(あるいは、同一の機械の二つの異種)のうちのどちらのほうが良くていっそう有効なのか――あるいはむしろ、どちらのほうがより血腥くなく穏当なのか――と問うことなど、どうでもいいことである。むしろ重要なのは、それらの機械がどのように機能しているのかを把握し、いざとなったら、それらの機械を停止できるようにしておくことなのだ。 (p. 71)

 人類学器械を理解したうえで停止できるように準備しておくこと、それが人類の中から人類を排除するという悲劇を止める手立てを生み出すだろう、というのが本書の前半におけるきわめて重要なアガンベンの主張である。

 本書の後半はタイトルの「開かれ」を主題として、いわば哲学におけるもっとも近代的な人類学器械としてハイデガーの「形而上学の根本概念――世界・有限性・孤独」[5] という講義録を取り上げている。動物学者ヤコブ・フォン・ユクスキュルの「環世界(ウムベルト)」という概念に基づく存在論的動物論を踏まえて、人間の「倦怠」から人間と動物の異同を説き起こすハイデガーの理路をアガンベンは追うのだが、どことなく一度どこかで見た(読んだ)ことがあるのだった。数年前に読んだ国分功一郎『暇と退屈の倫理学』[6] の中で、そのハイデガーの論述が詳細に議論されていたことを思い出した。
 全二〇章からなる本書のうちで五章(前提となるユクスキュルの環世界論を含めれば七章)でハイデガーを論じているが、その最後に近いところでアガンベンのハイデガー評が述べられていて、ありていに言えば、私にはそれがもっとも興味深い記述なのであった。

 ハイデガーは、ポリス――隠匿性と非隠匿性、人問の動物性(アニマリタス)と人間性(フマニタス)のあいだの葛藤を統べる天蓋(ポロス)が、いまだなお実践可能な場であると、善意から信じることのできた、おそらくは最後の哲学者だった。ポリスという危険な場に身を置くことで、いまだなお人々――ひとつの人民(ポポロ)〔民族〕――は、みずからの歴史的な宿命を見出すことができるというわけだ。つまり、疑念や齟齬もないわけではないが、すくなくともある程度までは、ハイデガーは、人頃学機械が、人間と動物、開かれと開かれざるものとのあいだの闘争をたえず裁決し再編することによって、ひとつの人民にとっての歴史や命運をいまだなお生み出すことができると信じのかもしれない。そして、存在の歴史的企投に応えるような決断など誰にもできないことはわかっていたのではないだろうか。  (pp. 132-3)

 ハイデガーをもって、ルネサンス以来の長い伝統を持つヨーロッパのヒューマニズム(人文主義、人間中心主義)は終わり、人間を人間ならざるものへ排除する近代的人類学器械も終焉を迎えたということだろう。しかし、西欧の人間中心主義が終わり、人類学器械も正体を暴かれたにせよ、その人類学器械の作動を真に止めることができていると断言することは難しい。いま、人類学器械の作動に関わっているのはもちろん哲学者ではない。政治を消費すべき商品としか受け取らない無数の消費者集団が器械に取り付いている。彼ら(私たち)は、近代「生政治」によって「器質的な生」(植物的な生)を持つだけの統計的存在と見なされていることを無自覚に受容しているのである。
 とまれ、ユクスキュル-ハイデガーの章に戻ろう。さまざまな動物にとって、共通の世界というものはない。ある動物には固有の時間、空間を持つ「環世界(ウムベルト)」があるに過ぎないというのが、ユクスキュルの主張である。たとえば、ダニの環世界は、次のようなものである。

〔ダニの〕環世界は、たった三つの意味の担い手もしくは標識の担い手に還元される。(1) すべての哺乳類の汗に含まれている酪酸の匂い。(2) 哺乳類の血液と同じ三七度の温度。(3) 総じて、体毛を具え毛細血管に覆われている哺乳類に特有の体皮の類型。しかし、ダニはこれら三つの要素と、切っても切れない関係でじかに結びついている。人間の世界が外見上はどんなに豊かに見えようとも、その世界と人間とを結びつけている関係は、おそらくこれほどまで強烈な関係ではありえないだろう。ダニとは、この関係そのものである。そして、ダニが生きるのは、この関係のなかでしかなく、この関係を介してでしかない。  (pp. 83-4)

 そして、「実験室で、一八年ものあいだ、餌もないのに、つまり、環境から完全に隔絶された状態で、一匹のダニが、生きたまま飼われていた」という特異な事実から、時間においても空間においてもダニはわれわれの世界(人間の環世界)とは異なった世界で生きているのである。ユクスキュルは、「生きる主体を抜きにして時間は存在しえない」という帰結を導き出すのである。
 「酪酸の匂い」、「三七度の温度の液体」、「哺乳類特有の体皮」のたった3種の事物だけに反応して生世界を形づくっているダニのような状態を、ハイデガーは「世界の窮乏」と名付ける。3種の存在はダニの活動を「抑止解除」する。
 しかし、ダニは3種の存在を存在として知覚することはない。ただ、3種の刺激に捕われ、刺激によって抑止が解除され、動物として生きるのである。そのときのダニの動物としての反応を「放心」とハイデガーは名付ける。

動物にとって、存在者は、開かれ(アペルト)てはいるが、近づくことができる(アッチエツービレ)ものではない。いいかえるならば、存在者は、接近不可能性(インアッチエツシビリタ)と不透明性のうちに、つまり、いうならば、非関係性のうちに開かれているのだ。人間を特徴づけるのが世界の形成であるとすれば、動物における世界の窮乏を規定するのは、まさに、この露顕なき開示〔apertura senza svelamento〕なのである。動物はたんに世界を欠いているばかりではない。なぜなら、動物は放心のうちで開かれているがゆえに、――石が世界を剥奪されてしまつているのとはちがって――世界を差し引き、世界なしですます(entbehren)ことを余儀なくされるからだ。すなわち、その存在において動物は、窮乏や不足によって規定することができるのである。  (p. 98)

 存在者は動物に「開かれ」てはいない。こうして、ハイデガーはリルケの「開かれ」を転倒する。リルケにおいては、世界は動物だけに開かれている。「ヴェールを剥ぎ取られた存在を名指す開かれを見ることができるのは、人間だけ、いやむしろ、真の思惟の本質的なまなざしだけである。逆に、動物は、この開かれをけっして見ることがない」(p. 102) のである。
 ハイデガーは、「人間は世界を形成する」と言う。しかし、ハイデガーは、人間に深く根ざす「深き倦怠」という根本的気分が動物の放心と共鳴しているとも指摘している。「深き倦怠」という概念も(ハイデガーらしく)やっかいである。倦怠の第1の契機は、「拒まれている存在者に引き渡されて」(p. 113) 空虚のままに残されていること、第2の契機は、「宙づりのまま保持され」(p. 117)、「不活性のまま滞留する」(p. 119) ことである。この第2の構造的契機は、「現存在に特有の可能性、現存在があれこれすることができる可能性」(p. 119) を意味している。

 かくして、深き倦怠の第二の本質的な特徴である宙づりのまま保持されてあることとは、特定の具体的可能性すべてを宙づりにし、奪取するなかで、根源的な可能化(すなわち純粋な可能態=潜在性(ポテンツア))がその真価を露わにしてくるという体験にほかならない。
 可能性の不活性化(Brachliegen)においてはじめてそれ自体として立ち現われてくるものとは、すなわち、可能態=潜在性の起源そのもの――さらには、現存在の、つまり、存在可能性の形式のうちに実存する存在者の起源そのもの――なのである。だが、この根源的な可能態(ポテンツァ)や可能化(ポシビリタツィオーネ)は――まさにそれゆえに――否定の可能態、つまり、無能性を構成する。というのも、できないこと、人為による個々の特定の可能性を不活性化することから出発してのみ、この根源的な可能化は可能だからである。 (p. 121)

 環世界で放心している動物は、その動物特有の抑止解除するものとの関係を宙づりにすることはできないので、純粋な可能性も立ち現れてはこない。ハイデガーの「深き倦怠」は、「世界の窮乏から世界へ、動物環境から人間世界のへの移行が実現される形而上学的操作のように思える」(p. 122) とアガンベンは指摘する。つまり、近代哲学における人類学器械である。そして、アガンベンは断言する。

現存在は、退屈することを習得した動物、自己の放心から自己の放心へと覚醒した動物にすぎない。生物がまさに自分が放心した状態へと覚醒すること、自己を開かれざるものへと――苦しくとも決然と――開くということこそが、人間にほかならないのである。 (p. 126)

 ハイデガーは、人類学器械によって生み出された(ヒューマニズムに適った)人間によって「人民にとっての歴史や命運をなお生み出すことができる」と信じていたとアガンベンは評したが、じつは、「人民の歴史的実存の大いなる震撼の可能性は消えてしまった。神殿も図像も衣装も、人民の鹿史的召命を帯びて、これを新たな使命へと衝き動かすことは、もはやできない」(p. 133) とも語っているのである。

 ヨーロッパの国民国家がもはや歴史的使命を帯びることができず、人民たち自身もいずれは姿を消すべく定められていたということは、ある意味では、第一次世界大戦の終結以来すでに疑いの余地のないことだった。もし二〇世紀の全体主義に、一九世紀の国民国家の最後の大きな使命の継続、つまりはナショナリズムと帝国主義しか認めないとするならば、この大規模な経験の性格は、完全に誤解されることになる。二〇世紀のさまざまな全体主義で賭けられているものは、そういったものとはまったくちがうものなのであり、もっと過激なものだ。なぜなら、そこで問題になっているのは、人民という人為的な存在そのもの、すなわち、結局のところは、人民の剥き出しの生を使命として引き受けることなのだから。こうした視点のもとで、二〇世紀の全体主義諸体制は、へーゲル—コジェーヴ的な観念とはまったく別の相貌を帯びた歴史の終焉をかたちづくることになる。すなわち、人間はその歴史的な目標=結末に到達してしまい、ふたたび動物と化した人類には、家政=管理を無条件に拡張することによって、あるいは、生物学的な生そのものを最高の政治的(あるいはむしろ非政治的)な課題に格上げすることによって、人間社会を脱政治化する以外に、何ひとつ残されていないということである。 (pp. 133-4)

 ハイデガーの人類学器械を批判的に検討することで、20世紀の政治を語り出すアガンベンは、じつにアガンベンらしい口調に達する。

 自己の動物性の統轄をみずからに引き受ける人類が、人間と動物とをそのつどそのつど決定づける=分断することによって人間性(フマニタス)を産出する人類学機械という意味において、なおも人間的であるとしても、人間的であるのか動物的であるのかもはや判然としない生の幸福が、充ち足りたものと感じられるのかどうかは、簡単には断言することはできないし、明確でもない。なるほどたしかに、ハイデガーの見也からすれば、このような人類は、動物の露顕されざるものへと開かれたままに保持されるという形式をもはやもたず、むしろ、あらゆる分野で、開かれざるものを開き、確保しようとしている。また、それとともに人類は、その同じ開示に自閉することで、みずからの人間性を忘却し、存在をもって、人類特有の抑止解除するものへと変貌させている。動物の完全な人間化は、人間の完全な動物化に符合しているのだ。 (pp. 135-6)

 アガンベンは、第一八章でベンヤミンにおける自然と人間の関係、自然と歴史の関係を取り上げているが、「そこでは、人類学器械は、まったく念頭に置かれていないように見える」(p. 140) としている。また第一九章では、ウィーン美術史美術館所蔵のティツィアーノの《ニュンフと牧童》を呈示して「人間と動物の無活動や無為」(p. 151) を論じている。
 しかし、ここでは深入りをせず、次のようなアガンベンの文言を持って、読書のまとめとしたい。

現代の文化にあって、あらゆる他の闘争を左右するような決定的な政治闘争こそ、人間の動物性と人間性のあいだの闘争である。すなわち、西洋の政治学は、その起源からして同時に、生政治学なのである。 (p. 138)

 

[1] ライナー・マリア・リルケ(富士川英郎訳)『リルケ全集 第4巻』(彌生書房、昭和36年) pp. 42-3。
[2] Kojéve, Alexandre, 1979, Introduction à la lecture de Hegel, Gallimard, Paris (la ed. l947) p434-35.〔アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』上妻精・今野雅方訳,国文社,1987年〕
[3] Pico della Mirandola, Giovanni, 2000 Oratio/Discorso, a cura di Saverio Marchignoli, in Pier Cesare Bori, Pluralitd delle vie. Alle ongini del «Discorso» sulla dignità umana di Pico della Mirandola, Feltrinelli, Milano.〔ジョヴアンニ・ピコ・デッラ•ミランドラ『人間の尊厳について』大出哲,阿部包•伊藤博明訳,国文社,1985年〕。
[4] ジグムント・バウマン(伊藤茂訳)『リキッド化する世界の文化論』(青土社、2014年)p. 86。〔原典:Giovanni Pico delk Mirandola, Oration on the Dignity of Man, trans L. Kuczynski, in Przeglad Tomistyczny vol.5,1995, p.156.〕。
[5] Heidegger, Martin, 1983 Gesamtausgabe, XXIX—XXX: Die Grundbegnffe der Metaphysik. Welt—Enditckkett—Einsamkeit, Klostermann, Frankfurt a.M. (trad. it. I concetti fondamentali della metaftsica. Monde—Finitezza—Solitudine, II Milangolo, Genova 1999). 〔ハイデガー全集第29/30巻,『形而上学の根本諸概念世界有限性孤独』川原栄峰,セヴュリン・ミュラー訳,創文社,1998年〕。
[6] 国分功一郎『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社、2011年)


 

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