城郭 長谷川博美 基本記録

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美濃の前方後方墳 象鼻山一号墳見学記

2022-02-12 14:41:00 | 古代史
美濃の前方後方墳 象鼻山一号墳見学記
◆2019年の記録より
 
◆長谷川
古墳に強く興味を持っ私は美濃の小糠山古墳
(前前後方墳)を見学して大変感慨深かった。
さて以前私は関ヶ原合戦で長宗我部氏が布陣
した美濃象鼻山1号墳を再度見学したいと強く
願った。私は自分の心の中に欲する所の前方
後方墳見学を希望し象鼻山は古墳群や地震の
断層や関ヶ原合戦古戦場もも同時に見学可能
な歴史的地理要因に恵まれた尾濃への入口だ。
▼岐阜県象鼻山より尾濃の平野部を展望する。
 標高142mの象鼻山に到着すると岐阜、名古屋が
遠望された昔は歴史講師として名古屋に4何年も通
ったものだが今の私は孤独に山野を一人で行き仕事
もなく淋しい境遇である。そもそも、美濃垂井町の
粉糠山古墳古墳の伝承は所謂古墳に派生する伝説の
類であるが不破郡青墓の遊女が化粧で使った小糠を
捨ててそれが山となり積り、小糠山古墳への名称起
源となった事に特に興味を抱いた。小糠山古墳には
珠翠銀や水銀が過去に出たのではないのかと?小糠
山古墳の周溝の跡も気になった。尾濃の隘路垂井の
平野部に巨大な前方後方墳を盛土して塚を築く美濃
の勢力に改めて驚くと同時に強く私の前方後方墳見
学の興味を強く、そそるものがあった。
↓美濃粉糠山古墳と周溝の痕跡写真▼不可思議な遺跡
 
さて私が象鼻山古墳群に至ると下の様な古墳墳
丘図が掲示されていた。しかし私には何故か?
合点が行かなかった。
現地を観察すると前方後方墳の周囲には私が作成
したような周庭?が残されていて古墳の規模実際
には大きい。
▼長谷川博美 象鼻山一号墳「ラフスケッチ図」
 2019年作 東面よりの図
 
▼長谷川博美 2020年 象鼻山1号墳 点描鳥瞰図
2022年作 東面よりの図
 
以下の写真は象鼻山一号墳の前方部から後方部を
撮影したものだが実に墳丘の形状が調っていて美
しい。▼写真1号墳の手前が前方部、後が後方部
◆長谷川
2020年も残雪ある中を3度目の見学をした。
 
規 模:全長約42.80m、後方部長22.95m、
後方部幅25.86m、後方部高さ4.23m、前方
部長17.15m、前方部幅14.40m、前方部高さ
2.96m、くびれ部幅8.70m、くびれ部高さ
0.95mとあるが周庭?を含めると本格的な
古墳遺跡であろう。
被葬者:不明
築造時期:古墳時代前期
墳 形:前方後方墳
埋葬部:構築墓抗(水銀朱で被覆した箱形木棺
を盛土で積み上げた墓式。)
出土遺物: 青銅鏡(双鳳紋鏡)
玉(琴柱形石製品)
細身鉄刀
鉄刀2点、鉄剣5点、鉄槍1点 琴柱型石製品
(北陸の碧玉質の石(緑色凝灰岩))
★朱入りの壺
備考 二重口緑壺形土器、S字状口緑台付形
土器、高杯形土器、小形器台形土器。
 
★山頂を削り取りその上に8段階もの工程を
経て完成されていることから見栄えも重視し
たと考えられる。従って濃尾平野が見渡せる
だけではなく濃尾平野からモ見られることも
念頭に置いた築造思想が読み取れる。
 
墳形及び埋葬方法が東海様式を採用しているが、
埋葬物・埋葬様式は畿内様式を採用しているこ
とから、被葬者は地元豪族であるが、畿内との
関係を持ち、その影響力を利用していたことが
うかがえる。
さてさて私が大変驚いた現地案内版の解説には
★山頂を削り取りその上に8段階もの工程を経て
完成されていることから見栄えも重視したと考
えられるのである。普通山中にある古墳は地山
を削りながら墳丘を整えるのが常套であるが。
一度山頂を平らに削平した後に8段階もの
工程を経て完成した事である。これは土木工事の
常識から言えば無駄で二度手間だ。しかし古代
祭祀において土を何重にも突き固める古墳築造の
行程や行為こそが神聖な葬祭の重要な意義があった
と私は推定する。神事から発展した相撲の土俵は
神聖な斎場でもある。今でも力士達が塩と土と水を
使って土俵を固め作る行為が繰り返されるが土を固
める行為自体が神聖な神事である事は忘れ去られて
いる事であろう。
 

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