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剣熊考№12 驚愕 大彦命

2019-06-14 07:22:37 | 剣熊考
剣熊考№12 驚愕 大彦命(意富比危)おおびこ
◆稲荷山古墳の銘文発見の経緯
 1968年の稲荷山古墳の後円部分発掘調査の際、画文帯環状乳神獣鏡や多量の埴輪とともに鉄剣が出土した。
1978年、腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線による検査が実施された。鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌
で表されている事が判明。(新聞紙上でスクープとなり社会に広く知れ渡ったのは1978年9月)。その歴史的・
学術的価値から、同時に出土した他の副葬品と共に1981年に重要文化財に指定、2年後、1983年には国宝指定。
◆銘文の内容(原文)
(鉄剣表面)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(鉄剣裏面)
其児名加差披余其児名世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
書かれている文字に読点を打って解釈すると、
◆読み下し文
「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。
其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表) 其の児、名はカサヒヨ
(カサハラ[4])。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(「ワ、ワク、カク
」+「カタ」+「ケ、キ、シ」+「ル、ロ」)の大王の寺、シキの宮に在る時、吾[、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、
吾が奉事の根原を記す也。(裏面)」

◆刀剣によるヲワケの臣の系譜
①上祖、(初代)名はオホヒコ「意富比垝」とは皇族の大彦と推定される。
『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の1人の鉄剣銘文にある「意富比垝」つまり「大彦命」と推定する人もある。

②タカリのスクネ「多加利足尼」

③テヨカリワケ「弖已加利獲居」

④タカヒシ(タカハシ)ワケ「多加披次獲居」

⑤タサキワケ「多沙鬼獲居」

⑥ハテヒ「半弖比」

⑦カサヒヨ「加差披余」

⑧ヲワケノオミ「乎獲居臣」

西暦471年説をとるとヲワケノオミが仕えた獲加多支鹵大王「ワカタケルのオオキミ」は、日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、すなわち21代雄略天皇となる。 銘文に獲加多支鹵大王が居住した宮を斯鬼宮として刻んでいる、雄略天皇が居住した泊瀬朝倉宮とは異なるものの、当時の大和の磯城郡には含まれていることになり、この通説に従えば21代雄略天皇の考古学的な実在の可能性もある。
◆雄略天皇は『日本書紀』の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)に相当すると考えられる?。また中国の記録にある倭王「武」とも言われる。
★「倭王武」とは?
武(ぶ)または倭 武(わ ぶ、生没年不詳)は、5世紀後半(古墳時代中期)の倭王。「倭王武」とも言う。
済の子、興の弟で、「倭の五王」の最後の1人。第21代雄略天皇に比定する説が有力視される。また『宋書』
『梁書』における「倭の五王」中の武にも比定され、以上のことから5世紀末頃に在位していた天皇と推測される。
稲荷山古墳の象嵌文にある。獲加多支鹵大王「ワカタケルのオオキミ」は雄略天皇と仮定し、その王を補佐して
いたのが稲荷山古墳鉄剣の銘文にあるヲワケノオミ「乎獲居臣」と言う事になる。
◆宋書には
『宋書』列伝夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、兄の興が死んで弟の武が王に立ち、武は「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」と自称したとする。また順帝の昇明2年(478年)には、武は宋に遣使して上表文を奉り、これに対して順帝は武を「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に除すことを詔したとする。
◆倭王武を「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」とした事に余りにも驚く?

倭王「武」の上表文の内容は次の通り。
封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道逕假授百濟,裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,掠抄邊隸,虔劉不已,每致稽滯,以失良風。雖曰進路,或通或不。臣亡考濟實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。居在諒闇,不動兵甲,是以偃息未捷。至今欲練甲治兵,申父兄之志,義士虎賁,文武效功,白刃交前,亦所不顧。若以帝德覆載,摧此強敵,克靖方難,無替前功。竊自假開府儀同三司,其餘咸各假授,以勸忠節。

「封国は偏遠にして、藩を外に作す。昔より祖禰躬ら甲冑をツラヌき、山川を跋渉し寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓き、畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆ず。臣、下愚なりといえども、忝なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遙て、船舫を装治す。しかるに句麗無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉して已まず。毎に稽滞を致し、以て良風を失い、路に進むというといえども、あるいは通じあるいは不らず。臣が亡考済、実に寇讐の天路を壅塞するを忿り、控弦百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄に父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇にあり兵甲を動かさず。これを以て、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁文武功を効し、白刃前に交わるともまた顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は咸 な仮授して以て忠節を勧む」とある。
◆東征毛人五十五國,「関東の毛人55国を制した。」
西服眾夷六十六國,「西の衆夷の66国が服従した。」
渡平海北九十五國,「海を渡り北の95国平定した。」などと倭王「武」は極東の覇王の姿を強調し表現している。
しかしここに表わされた国が日本の郡県単位なら大袈裟ではなく納得する。
◆ヲワケノオミ「乎獲居臣」の七代前の先祖が(意富比危)つまり大彦であると鉄剣銘文から考えられる。
崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日)は日本の第10代天皇
(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。3世紀後半頃に実在した大王と考えられている。
即位10年、四道将軍を派遣して全国を教化すると宣言した。大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、
吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし従わないものを討伐させる事となった。
従って、大彦命は崇神天皇「ミマキイリヒコ」の時代3世紀後半頃の人と推定される。
◆時代感覚の整理
崇神天皇「ミマキイリヒコ」の時代3世紀後半の人。彼の臣下に大彦「意富比垝」が居た事になる。
↓日本の時代は経過して↓
領土拡大した倭王「武」こと。日本の追号は雄略天皇。日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇
と言う事になる。雄略23年を機械的に西暦に換算すると479年となりヲワケノオミ「乎獲居臣」は大彦「意富比垝」
の七代末孫であり雄略天皇を補佐した人物。ヲワケノオミ「乎獲居臣」と言う事になる。

◆以下は対話式の超短編小説です。どうぞ宜しく小説として御理解下さいませ。長谷川博美
崇神天皇 大彦よ!(意富比危)よ!貴君を北陸道の将軍に命じる!行って参れ!
大彦命
 ハハーッ大君(おおきみ)様!ヤマトの北陸道将軍として恥ずかしくない武功を立てて、まいります!
崇神天皇
 武渟川別「タケヌナカワケ」よ!貴君をヤマトの東海道将軍として派遣する東北の会津にて「大彦命」と合流せい!
武渟川別命
 承知いたしました。「オオキミ様」に対して私は忠誠を尽します。
崇神天皇
 よいか!会津は相津でもあり合図でもある。双方が同士討ちしない様に矢羽根や合言葉は両軍事前に統一せよ! 
大彦命
 ところで!北陸道とは何と読むのですか?
崇神天皇
 北陸道と書いて「角鹿」つのが「敦賀」への道「くねがのみち」と読むのだ!よく覚えておけ!
【くね】 くね とは? 塀、生け垣 の事じや!ヤマトと越の国「こしのくに」の境を遮断する壁の事じや!
大彦命
 その道とはマガリクネル、天ノ曲「テンノクマ」や嶮熊「ケンクマ」の道つまり越前と近江の荒知の道の事でしょうか?
崇神天神
 汝が真のヤマトの四道将軍ならば、剣難の地を乗り越えてでも「くねがのみち」北陸道を安泰、鎮護、すべし!
大彦命
 天下の剣「天ノ曲」を乗り超えて越の国に至り、ヤマトと、大君の世を安泰とならしめて、まいりまする!
崇神天皇
 よう言うた大彦!ヤマトの四道将軍として恥ずかしくない大功を打ち立てて帰るて来るのじやぞ!

◆四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、
『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)
武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)など
◆崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日)は日本の第10代天皇
(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。3世紀後半ごろに実在した大王と捉える見方が少なくない。
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