剣熊考№15 私は伊香郡人 黒山 1
私は伊香郡人である。
今は米原に仮住しているが
根っからの伊香郡人である
私は友達も城見学の支持者も
相談相手も講師の仕事も
全くない孤独な伊香郡人だ
永原村に行ってくる!
黒山に行って来るわ!
とそんな事を言っても
誰も関心を示さない。
もう今は令和と言う全く別の時代なのだ!
平成の時代が終り
令和の時代が始まっても
永原村から出て
滋賀県知事となられた
谷口久次郎先生の様な滋賀の行く末を切実に
思う真の滋賀男児の英傑が何処におろうやと!
嘆く真面目な老人も過去には居た記憶がある?
この発想は、昭和生まれの古い老人の
伊香郡人の発想であろう?
それは路頭に迷う悲しい運命の「失笑」私かもしれない?「微笑」
滋賀県長浜市西浅井町黒谷を
冷静に歴史記録を考察すると
歴然たる近江国浅井郡なのだ。
平安初期の延喜式(えんぎしき)にも「敦賀津より塩津に運ぶ、塩津より大浦に漕ぐ」
とあり、この文言は非常に重要である。何故なら延喜式は当時の日本国の公式文書で
現代で言うなら国土交通省の文書にも匹敵する公式記録なのである。さて私は東近江
の和田山の西麓で以下の石造美術を見て痛く感激したものだ。
またある時、私は長浜市西浅井町の集福寺に迷い込み延喜式内神社の石造美術にも
感激したものだ。。↓河野通治と一族の供養塔とも考えられる石塔。
さて今回の私の剣熊考は『太平記』にある「見の曲/けんのくま」のに着眼した
ものであり大浦庄の歴史や賎ケ岳合戦に関わる考証は今回は極力避けたい。前回
の投稿では地図上のマキノ町の野口にある剣熊関碑の写真を使ったが、当該地図
には野口から黒山に峠越えする山道が描かれている。これこそが私の探究している
「見の曲/けんのくま」天熊や万字峠に関するものかもしれない。しかし私は即断
しない。研究とは30年40年50年と継続すべき地味で慎重なものだ。
『太平記』北国下向勢凍死事 ★に注目
河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、★見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、熊谷と、取篭て討んとしける間、相がゝりに懸て、皆差違へんとしけれ共、馬は雪に凍へてはたらかず、兵は指を墜して弓を不控得、太刀のつかをも拳得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。千葉介貞胤は五百余騎にて打けるが、東西くれて降雪に道を蹈迷て、敵の陣へぞ迷出たりける。進退歩を失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集て自害をせんとしけるを、尾張守高経の許より使を立て、「弓矢の道今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ出られ候へ。此間の義をば身に替ても可申宥。」慇懃に宣ひ遣されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属しける。
河野・土居・得能は三百騎で後陣に付いていましたが、★見の曲(嶮の曲?)で前の勢に遅れ、行くべき道を失って、塩津(現滋賀県長浜市)の北で足を止めました。佐々木一族と、熊谷が、取り籠めてこれを討とうとしたので、相懸かりに懸かって、皆刺し違えようとしましたが、馬は雪に凍えて動かず、兵は指を落として弓を引き得ず、太刀の柄も握ることができなかったので、腰の刀を地に突いたまま、うつ伏しに貫かれて死にました。千葉介貞胤(千葉貞胤)は五百余騎で馬を打っていましたが、東西暮れて降る雪に道を踏み迷い、敵陣に迷い出ました。進退歩みを失い、前後の味方と離れて、一所に集まって自害をしようとするところに、尾張守高経(斯波高経)の許より使いを立てて、「弓矢の道今はこれまででございます。曲げて味方に出られよ。今までの義をこの身に替えても申し宥めまする」。と慇懃に申し遣わしたので、貞胤は心ならずも降参して高経の手に属しました。
さて黒山の石造美術です。鎌倉や南北朝の特徴を備えていて驚くべきもの
私は黒山が昔から湖北の小さな一寒村の黒山とは昔から思っていません。
日本の交通史に燦然と輝く極めて重要な天嶮の地であると考えています。
私は伊香郡人である。
今は米原に仮住しているが
根っからの伊香郡人である
私は友達も城見学の支持者も
相談相手も講師の仕事も
全くない孤独な伊香郡人だ
永原村に行ってくる!
黒山に行って来るわ!
とそんな事を言っても
誰も関心を示さない。
もう今は令和と言う全く別の時代なのだ!
平成の時代が終り
令和の時代が始まっても
永原村から出て
滋賀県知事となられた
谷口久次郎先生の様な滋賀の行く末を切実に
思う真の滋賀男児の英傑が何処におろうやと!
嘆く真面目な老人も過去には居た記憶がある?
この発想は、昭和生まれの古い老人の
伊香郡人の発想であろう?
それは路頭に迷う悲しい運命の「失笑」私かもしれない?「微笑」
滋賀県長浜市西浅井町黒谷を
冷静に歴史記録を考察すると
歴然たる近江国浅井郡なのだ。
平安初期の延喜式(えんぎしき)にも「敦賀津より塩津に運ぶ、塩津より大浦に漕ぐ」
とあり、この文言は非常に重要である。何故なら延喜式は当時の日本国の公式文書で
現代で言うなら国土交通省の文書にも匹敵する公式記録なのである。さて私は東近江
の和田山の西麓で以下の石造美術を見て痛く感激したものだ。
またある時、私は長浜市西浅井町の集福寺に迷い込み延喜式内神社の石造美術にも
感激したものだ。。↓河野通治と一族の供養塔とも考えられる石塔。
さて今回の私の剣熊考は『太平記』にある「見の曲/けんのくま」のに着眼した
ものであり大浦庄の歴史や賎ケ岳合戦に関わる考証は今回は極力避けたい。前回
の投稿では地図上のマキノ町の野口にある剣熊関碑の写真を使ったが、当該地図
には野口から黒山に峠越えする山道が描かれている。これこそが私の探究している
「見の曲/けんのくま」天熊や万字峠に関するものかもしれない。しかし私は即断
しない。研究とは30年40年50年と継続すべき地味で慎重なものだ。
『太平記』北国下向勢凍死事 ★に注目
河野・土居・得能は三百騎にて後陣に打けるが、★見の曲にて前の勢に追殿れ、行べき道を失て、塩津の北にをり居たり。佐々木の一族と、熊谷と、取篭て討んとしける間、相がゝりに懸て、皆差違へんとしけれ共、馬は雪に凍へてはたらかず、兵は指を墜して弓を不控得、太刀のつかをも拳得ざりける間、腰の刀を土につかへ、うつぶしに貫かれてこそ死にけれ。千葉介貞胤は五百余騎にて打けるが、東西くれて降雪に道を蹈迷て、敵の陣へぞ迷出たりける。進退歩を失ひ、前後の御方に離れければ、一所に集て自害をせんとしけるを、尾張守高経の許より使を立て、「弓矢の道今は是までにてこそ候へ。枉て御方へ出られ候へ。此間の義をば身に替ても可申宥。」慇懃に宣ひ遣されければ、貞胤心ならず降参して高経の手にぞ属しける。
河野・土居・得能は三百騎で後陣に付いていましたが、★見の曲(嶮の曲?)で前の勢に遅れ、行くべき道を失って、塩津(現滋賀県長浜市)の北で足を止めました。佐々木一族と、熊谷が、取り籠めてこれを討とうとしたので、相懸かりに懸かって、皆刺し違えようとしましたが、馬は雪に凍えて動かず、兵は指を落として弓を引き得ず、太刀の柄も握ることができなかったので、腰の刀を地に突いたまま、うつ伏しに貫かれて死にました。千葉介貞胤(千葉貞胤)は五百余騎で馬を打っていましたが、東西暮れて降る雪に道を踏み迷い、敵陣に迷い出ました。進退歩みを失い、前後の味方と離れて、一所に集まって自害をしようとするところに、尾張守高経(斯波高経)の許より使いを立てて、「弓矢の道今はこれまででございます。曲げて味方に出られよ。今までの義をこの身に替えても申し宥めまする」。と慇懃に申し遣わしたので、貞胤は心ならずも降参して高経の手に属しました。
さて黒山の石造美術です。鎌倉や南北朝の特徴を備えていて驚くべきもの
私は黒山が昔から湖北の小さな一寒村の黒山とは昔から思っていません。
日本の交通史に燦然と輝く極めて重要な天嶮の地であると考えています。