城郭 長谷川博美 基本記録

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剣熊考 №13 鼠とは人の事!

2019-06-16 04:44:20 | 剣熊考
剣熊考 №13 鼠とは人の事!

凡例◆は長谷川解説 ★は重要点

◆そもそも「鼠」ねずみとは中国の殷「商」王朝を支えていた12の部族に起源が
あるのではないだろうか?そもそも干戈「かんか」による暦法とは中国起源である。

◆驚くべき事に干戈「かんか」とはアジアユーラシア大陸に広範に伝播している。
干戈の筆頭が「子」つまり「ネズミ」である。

◆日本神話のネズミ
『古事記』根の国に鼠ネズミが登場し大国主命を地下穴に案内して助ける出雲神話がある。
樹木の根の如く地下世界の根の国に、根を張るネズミ族を連想させて何か不気味に感じる。

◆『日本書紀』の「鼠」は人間移動の事であり倭族の日本列島移住や遷都や築城
「造柵」を暗示する。同書の「孝徳紀」には「鼠」を含む文言が五回も登場する。
①~⑤の項目を上げる。

①「老人等相謂之日、自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也」★(大化元年冬十二月条)
◆老人達(物知りや分別ある人)が互いに言い合う。春から夏に至りネズミが難波に向かった
遷都の兆候である。★皇極天皇4年6月19日(ユリウス暦645年7月17日)の孝徳天皇即位した
年の12月の事。

◆大化期の日本国内情勢※とは?大化期に起きた事件とは?
※645年(大化元年) 古人大兄皇子を中大兄皇子(天智天皇)が攻め殺す。
東国などの国司に戸籍の作成、田の調査を命じる。★難波長柄豊碕宮へ遷都。
◆難波への正式な遷都が記されている。遷都は宮殿やその宮殿を守衛する★城柵や兵糧を
貯蔵する倉庫が不可欠である。

※646年(大化2年) 改新の詔(大化の改新の詔)★薄葬令を発する。高向玄理を新羅に派遣
★新羅から任那への調を廃止させる。◆★薄葬令は古墳時代の終焉を意味する。
★新羅から任那(倭の経営する、みまな)への調つまり税を廃止している。
※647年(大化3年) 七色十三階の官位が製定される。
※648年(大化4年) 磐舟柵を造る。
◆『続日本紀』によれば、文武天皇2年(698年)12月21日に越後国に石船柵を修理させた。文武天皇4年
(700年)2月19日には越後国と佐渡国に石舟柵を修営させた。越後と佐渡2国に同じ名前の柵(キ)を作ら
せた事は意味が深い。『日本書紀』(神武天皇、即位前紀)には『東方に美しい国があります。四方を青山
が囲んでいます。その中に、天/あまの磐いわ船ふねに乗って飛び降くだった者がおります』とあるように
倭族は神武東征以前から日本列島に集団で移住して入植し、コロニーを形成する伝統的な習俗を持っている
事である。弥生期の環濠集落の伝統は楕円形であるが矩形の条坊や条理を思わせる律令的な官衙は方八と呼
ばれる一町109mの八倍の数値「方八丁」が東北で使われる事が多い。
またこの石船柵は矩形平面を持つ、つまり四角四面の条理区画の方形とは異なる、楕円形の舟型や船舶を
連想させる城柵と私は想像する。また磐は岩石だけではなく水稲、稲作の民「倭族」の稲作の祭りを暗喩
する磐「いわ」「祝」を、暗喩するものと私は、推定する。践祚祭に相当する新嘗の祭祀も執り行われて
いた事と推定する。日本の朝廷には重祚と言う2度天皇の位についた人も記録されているが現代の皇室も
即位儀式として践祚大嘗祭を執行されている。
◆城郭と神社は違うのか?都城と民間城柵とは違うのか?
◆デジタル大辞泉 - 城狐社鼠の用語解説 - 《「晋書」謝鯤伝から。城にすむ狐(きつね)と社( やしろ)に
すむ鼠(ねずみ)を除くためには、城や社を壊さなければならず、手を下しがたいところから》主君のそばに
仕えている、よこしまな家来。また、それが除きにくい事」とある。何か考えさせる「城狐社鼠」である。

②「越国之鼠、昼夜相連、向東移去」(大化二年是歳条) 646年(大化2年)
◆越の国「北陸」のネズミ(水稲耕作移民)が昼夜連続して、つまり(寝不身/ねずみ)となり東国に向かって
移動した。

③「数年鼠向東行、此造柵之兆乎」 (大化三年是歳条)647年(大化3年)
◆数年に渡りネズミが東国に向かっている。これは造柵(倭族移民の築柵)の兆候である。

④「鼠向倭都而遷」(白雉五年春正月朔条)
◆ネズミがヤマトの遷都にともない倭都に移っている。

⑤「老者語之曰、鼠向倭都、遷都之兆也」 (白雉五年十二月条 )白雉5年(ユリウス暦654年)◆老人が言うにネズミがヤマトの都に移っている。これは遷都の兆候である。
◆日本書紀岩波版の注例では、「北史巻五・魏本紀」に「是歳二月、・・・群鼠浮河向鄴」とあって、北魏の鄴への遷都の兆としている、と述べており。日本書紀の「鼠が移動する」記事は北魏史に倣った表現をしていると解説している。

◆越国の海岸に着いて東へ向かったのは誰か?
大化元年冬十二月条には孝徳帝の難波長柄豊碕宮遷都が出ているので、同条の「自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也」が孝徳帝の遷都のことを言っていると考えて見過ごしてしまう。
しかし、その直後に、「越国言、海畔枯査、向東移去、沙上有跡、如耕田状」と書いている。
この文章は孝徳帝の遷都との関連が不明だが?当時の倭族の入植移民に関するものか?
またこの記述は当時の班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)に関する文言か?田状とある
「状」が「伏」の誤記ならは「田布施」と関係のある言葉ではないだろうか?

「枯査(いかだ:ボロ船の事か)が海岸に着いて、東に向かって移って行き、砂浜には田圃の畝のような跡が残った、と越の国では言っている。」◆畝は上陸時の臨時築城の陣地の土塁か?水田の畝か?この文章は大化二年是歳条の次の文章と一組ではないかと思われる。「越国之鼠、昼夜相連、向東移去」
◆越国の二つの文章を合わせて解釈すると、「越国の海岸に船で着いた「鼠/ねずみ」連中が、昼も夜も次々に東に向かって移動して行っている」倭族の入植移民の暗喩であろうか?
652年(白雉3年) 班田終わる。戸籍作成。班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)に関する文言か?
◆日本書紀に見える鼠/ネズミの不思議な記述
皇極二年十一月条に、「鼠伏穴而生、失穴而死」
◆皇極2年「643年」古人大兄皇子が、「鼠は穴に伏れて生き、穴を失ひて死ぬ」と言う。
一説によると蘇我入鹿の滅亡の比喩か?蘇我氏は元は国神の系譜の人「ねずみ」なのか?
天智元年夏四月条に、「鼠産於馬尾(鼠、馬の尾に産む)」
◆天智元年「662年」原文は夏四月鼠産於馬尾、釋道顯占曰、北国之人將附南国、蓋高麗破而屬日本乎。「北国の人は南の国に服属するという意味。高麗が敗れて日本に服属するのではないでしょうか」
天智五年是冬条に、 「京都鼠、向近江移」
◆天智5年「666年」の事。次に近江大津京遷都は翌年天智6年「667年」の事。京都「当時の倭京」から近江に向かうネズミの姿が不気味だ。さてさてネズミとは何なのか?

◆デジタル大辞泉 - 城狐社鼠の用語解説 - 《「晋書」謝鯤伝から。城にすむ狐(きつね)と社( やしろ)にすむ鼠(ねずみ)を除くためには、城や社を壊さなければならず、手を下しがたいところから》主君のそばに仕えている、よこしまな家来。また、それが除きにくい事」とある。城狐社鼠の意味合いは私に意味合いが深いと思わせるものがある。

★「壬申の乱」の疑問符!「関ヶ原合戦」の疑問符!
この乱で近江朝側は盟主とされる大友皇子が首を吊って自決しても乱は簡単には収束していない事である。瀬田川の決戦に敗れて大津宮が落ち、大友皇子が首を吊って自決したのだから乱は全て収束すべきはずである。近江朝側に属していた人々は、なおも抵抗している。天智五年是冬条に「京都鼠、向近江移」は意味が深いと思われる。また小子部 鉏鉤(ちいさこべ の さひち)は 672年の壬 申の乱の際、尾張国司守として大海人皇子(天武天皇)に味方したが、内乱終結後に自殺している。現代の感覚で言えば「勝ち組」筆頭として大海人皇子(天武天皇)に誉められた人物であるはずなのに?小子部 鉏鉤(ちいさこべ の さひち)は謎の自害をしているのである。「関ヶ原合戦でも西軍から東軍に寝返った小早川秀秋は家康に誉められているのに後年謎の死を迎えている事である。勝利に大いに貢献したのに謎の窮地に追い込まれる両者!大海人皇子(天武天皇)は
小子部 鉏鉤(ちいさこべ の さひち)謎の自害を聞いて、何故小子部が自殺したんだろうと?
惚けている。なかなか本心を現さない人物、人傑である。近江朝側の人は大海人皇子(天武天皇)
の事を翼の有る虎を野に放つと表現している。これは中国の政治軍学書『陸稲』の影響であろう。

◆聖人行くとき、必ず愚色あり。
織田信長は「たわけ/うつけ」と蔑視されたが本心を現さず愚行を装った、恐ろしい人物。
大石内蔵助は「ひるあんどん」と蔑視されたが武士の本懐を成就させた軍学に通じる人物。
長宗我部元親は「姫若子」と一見軟弱と蔑視されたが四国を切り従えた稀代の英傑。
中国の政治軍学書『陸稲』なんと恐ろしい兵書であろうか?長谷川博美。


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