城郭 長谷川博美 基本記録

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松江城天守 佐和山城天守 おもしろ対話

2019-11-08 10:55:01 | 城郭
この記事のおおすめ度
五段階★★★★★★星6

松江城天守 佐和山城天守 おもしろ対話
対談者
虎塚古墳のチキリ模様どうおもわれますか?
私は天界と地上人間の契約「うけい」を表現
していると思います。天空の神と地上の人の
絆つまり天と地の結節「連結」を意味するも
のと思いますが?



長谷川
あなたは来るべき大嘗祭の事を連想されて
いる事のですか?大嘗祭は元来おおなめの
祭りと読まれ、豊かな水稲と国土の安泰
を祈念する行事?日本は水穂の国「みずほ
の国」と古くから解釈されいます。銅鐸に
も多くのトンボや水に関わる亀が象形されて
いて水稲栽培に関わる祭器と言う説がありま
す。日本列島の古称は秋津島つまり「秋津」
とは前進して飛んで行くトンボの姿と言われ
ています。

対談者
フオークシンガー長淵剛さんが「とんぼ」を
創作され歌われていました。幸せのトンボよ!
どこえ飛んで行くのか?令和日本国が真に幸福へ
と向かつ欲しいものです。世の中の人が幸福へ
向かう事を祈ります。

長谷川
本当に貴方の洞察力、慧眼と気付き力に感心
致します。この投稿を、繰返し繰り返し読ま
れる人は更に慎重で冷静な読者様でしよう。
今回は古代のお話ではありませんので誤解が
無いようにお願い致します。チキリとは一般
材木と材木を連結させる為の建築用資材です。

▼佐和山城城郭で出土したチキリ符丁


対談者
最近国宝松江城が千鳥城の別称の如く千鳥
破風が築城当初は多かったと言われてます。
また米子城の外観も元来は破風が多かった
と言われていますが?



長谷川
貴方がおっしやってるのは八棟造りと呼ぶ
天守閣の事でしょうか?八棟造りは複雑な
形状に配置された棟を多数配置それぞれの
棟に破風を備えた豪奢な屋根を重ねて配置
する建築様式を指した総称で、「八棟」の
「八」は「多数」の意味であって棟の数が
必ず八棟と決まっている訳ではありません。
その様な意味で現在の彦根城を観ると広い
意味で言う一種多数の破風を用いた様式に
です。


対談者
そう言う意味なら幻の佐和山城も広い意味
で八棟造りだったのではないでしょうか?


長谷川
さあ何とも言えません!私には
話題を少し変えてもらえますか?

縄張者
突然会話に入って宜しいか?

長谷川
どうぞお気楽におもしろく!

縄張者
1987年『滋賀県中世城郭分布調査5』に収録
さてれている長谷川先生の佐和山城本丸図の
正確さには非常に驚いております。この図だ

長谷川
別に驚く事はありません。平凡な図面です。

縄張者
昭和55年の日本城郭体系の第11巻には
彦根城天守閣の全身建物の推定図面が
収録されています。これですね?


長谷川
だれでも知ってらっしやいます。6間に
11間の細長い彦根城の前身建物の推定
建物で彦根城天守に残された過去の木材
から柱いの一番から順次想定された推定
復元図ですね?

縄張者
1987年『滋賀県中世城郭分布調査5』に収録
さてれている長谷川先生の佐和山城本丸図の
Aの低い土塀痕跡やBの段築線は現在も存在
しますか?

長谷川
残念ながらハイキングの人に踏まれて現在は
確認できません。1987年当時の図面なんです。
私にとり真の城郭の先生や師は現地城郭の現実
です。警察の鑑識課でも現地を最優先します。

縄張者
一度彦根城天守全身建物図を長谷川先生の図面
に落とし込んでみて下さい!

長谷川
▼こんな感じですか?

▼こんな感じになりますね?

縄張者
私は足が震えて来ました!私の知らない世界だ!
こんな事が有るのだろうか?私は信じられない!

対談者
あるのか?ないのか?

長谷川
それは私が知りたい事!

長谷川
こんな風に城に縄打したのか?
私が知りたい事は城の縄張です。


縄張者
長谷川先生!僕もう一度縄張図を勉強
しなおします。根本的にもうやり直し!

長谷川
地道に真面目に観察する事の積み重ね!
▼安土城長谷川博美ビスタ線


対談者
長谷川先生?堀尾吉張晴と彦根犬上や多賀
町の関係は私は極めて稀薄だと思いますが?

長谷川
そうでしょうか?以下の様な記録もあります。



また佐和山城の桐紋瓦を考える上で羽柴姓を
秀吉から下賜された武将は天正15年(1587年)
4月9(九州出陣の際の陣立書(『松下文書』)
堀秀政(羽柴左衛門督)があります。
また村川浩平氏の羽柴姓リストに
天正10年(1582年) 堀秀政があり
佐和山城の桐紋瓦は羽柴姓を下賜された
堀秀政の頃の瓦の可能性もあると思います。

対談者
長谷川先生のブログ記事のバックナンバー
スゴイ事が書かれているので私はじっくり
読む習慣が付いてきました。以前の記事
も修正や新資料が織り込まれて驚きます!

長谷川
今回は、面白対話と言う事で行きましょう。
しかし投稿を最期まで再三読んで下さい。
最後の方で縄張者さんが突然登場して強烈
な城址見学者の身に染みる言葉を言われる。

対談者
長谷川先生の投稿は油断ができません。軽い
記事かと思ったら是が非常に深い事が書いて
あり軽く読み流した投稿記事に是を見逃さず
すかさず「良いね」やコメントを入れる人に
驚きます。私自身は鋭く鋭敏であると思って
たのに更に深く看破洞察している人がいる事。

長谷川
今回は楽しさ!や面白さ!の中に研究の糸口
やヒントが無いのか?柔軟思考で対話します。

対談者
最近松江城の天守閣の話題が盛り上がってる。
堀尾氏の松江城天守は元来、松江城の別名が
千鳥城と呼ばれて創建当時は千鳥破風が多い
天守ではなかったのか?解体調査でも現在の
天守閣か破風のホゾ穴、つまり千鳥波風が
過去に存在した可能性が指摘されている事!



1644〜48年に描かれた出雲国松江城
絵図(正保城絵図)。1〜3重目に千鳥破風
がある=松江市史料編纂課提供
(国立公文書館所蔵)
千鳥破風や唐破風が描かれ、白漆喰が目立つ
「出雲国松江城絵図」(国立公文書館蔵)

長谷川
それ夢のあるロマンある楽しい話題ですね?

対談者
また昭和10年の記録には
「松江城ハ堀尾吉晴の築キシ所ニシテ慶長
十二年起工慶長十六年功ヲ竣ヘタ其天守ハ
慶長十五年落成セシモノニシテ本城現存唯一
ノ遺構デアル五層天守ニシテ(屋根四層)
形態荘重頗ル安定ノ観を呈シテイル」とある。

長谷川
昭和の記録らしい時代を感じさせる記述です。

対談者
今日はおもしろ対話です楽しく対話しようね!
さて我々がイメージする国宝松江城は千鳥破風
が少ない黒壁の城なんですが創建時は千鳥破風
の多い城「千鳥城」だった可能性なんですが?
近江にもこの様な天守閣を持つ城郭は無かった
のでしょうか?



長谷川
『滋賀県中世城郭分布調査4』1987年版には
参考資料として湖東三山の西明寺の奉納額が
収録されています。これが果たして佐和山城
天守の本当の姿なのかは断定や決定は学門的
にはされていません。おそらく経年をへた時
参考資料になるのではないかと収録されたの
だと私は推定しています。将来の研究の為の
参考資料と言う意味です。

対談者
湖東三山の西明寺の奉納額が真実の佐和山城
天守閣を伝えているかは別にして本日の対話
に相応しい興味をそそる楽しい唐破風を多用
した独特の個性ある層塔型の天守閣が楽しい。
松江城が千鳥城ならば近江佐和山城は唐破風
城とでも言えるのでしょうか?これは楽しい!

長谷川
さて、秀吉の家臣、堀尾吉晴の事なのですが
天正11年(1583年)賎ケ岳の戦いでは桑山
氏、羽田氏らとともに、賎ケ岳城に秀吉方
として布陣しております、私の賎ケ岳砦図
では特に丸の部分に注目して下さい。寄せ
来る敵に横矢を掛ける一種の横矢桝形と思わ
る城郭遺構です。羽柴豊臣系の城郭に見られ
るひとつの特徴とも言えます。羽柴方として
はこの賎ケ岳城は秀吉方として、勝敗の趨勢
を握る天王山の役目を認識していたと思います。

▼賎ケ岳陣城 作図 長谷川博美 円印注目

▼県立岐阜博物館蔵
賎ケ岳合戦図屏風図
賎ケ岳城の円形に注目!

対談者
堀尾吉晴は天正13年(1585年)佐々成政征伐
に従軍。田中吉政・中村一氏・山内一豊・一柳
直末らとともに近江八幡山城主の豊臣秀次付の
宿老に任命されますが、近江八幡山城にも勿論
羽柴系の出桝形や出櫓が存在した可能性がある
と思いますが?

長谷川
そもそも近江八幡山城は秀吉が織田政権の残影
安土の町を移動させて、秀次に作らせた城です。
私の『滋賀県中世城郭分布調査1986年版の図
にも、円形の部分の縄張図に反映されていると
思います。城址からは、秀次の家紋もオモダカ
澤瀉紋の瓦が出土しております。

▼長谷川博美 八幡山城縄張図

▼長谷川博美 八幡山城俯瞰図

ブログ質問者様より
先生の八幡山城縄張図を拝見しました。
私が生まれる前に(1961年)に本丸跡には
村雲御所が建てられていて、もう本丸の地表
を見るすべがありません。2017年に八幡山城
は続日本百名城に選ばれ、本丸跡の村雲御所
には復元図が設置されました。ところがその
復元図では本丸の中心に天守閣が建っている
のです。秀吉の跡継ぎの城なので天守閣が
あったのは確実だとは思いますが、天守閣は
中央ではなく北東の隅の出っ張った辺りに
あったのではないかと思っています
(根拠の無い想像です)。先生のお考えを
お教え頂ければ非常に嬉しいです。(専門家に
タダで情報を出せと言うのは厚かましいとは
思いますが、自分が子供の頃からの謎ですので
ご無礼を承知であえてお聞きしています。
申し訳ありません)。
長谷川
これです。近江八幡の皆様よく御存じです。
絵画では長桝形を小さく絵画表現しており
絵画のデフォルメが見受けられ絵画資料と
しては注意が必要とおもいます。

長谷川
すみません。私は八幡山城の本丸に天守が
存在したのか天守閣でなく八幡山城詰めの丸
の櫓だったのか?良質の資料を持ってません
ので解りません。

長谷川
2008年私の八幡山城論文では以下の如く
解説しています。参考にして下さい。

長谷川
近江八幡市の皆様各位に御礼
南津田の皆様には昔私に講演の依頼を賜
りました。水茎岡山会館にもお招き頂き
ました八幡図書館で城郭講演もさせて頂
来ました、数々の御厚情に対して改めて
改めて御礼を申上げます。

対談者
堀尾吉晴は天正13年の閏8月には近江国
佐和山(滋賀県彦根市周辺)に4万石を
与えられて移封されてます。(『堀尾家
記録』)私としては長谷川先生がブログ
で取り合上げている多賀大社社頭絵図の
「澤山城」の千鳥破風が非常に気になる。

これ堀尾吉晴時代の佐和山城の
天守閣ではと一瞬私は思ってしまう!


対談者
また松江城の外観にも何故か似ている?

▲長谷川
それは夢と妄想とロマンと幻想が入って
いてとても、本当に、楽しいと思います。

しかし佐和山城本丸周辺にはコビキA
コビキBなど二種の城郭瓦が採取され
ていますので、少なくとも二種類の
天守が存在した可能性はゼロで無いと
思います。
さて
文禄慶長の役に築かれた豊臣秀吉の城の
肥前名護屋城絵図には、本丸に層塔型の
天守閣が山里丸には、欄干が巡らされた
望楼型の櫓が描かれております。

長谷川
つまり二種類の天守建築が絵画資料から
伺えます。豊臣秀吉の肥前名護屋城から
伺えます。少し問題提起しておきますと
文献上この肥前名護屋城は天正19年より
築かれたのに現地の城址からは天正18年
の年号が記された瓦が、発見されており
秀吉と言う人間の根回しと言うか下準備
が早く進められていたのかもしれません?

対談者
佐和山城址から太閤五三の桐紋の瓦や
城下からは桐紋金具も出土しています。
また彦根城からも桐紋瓦が採取されて
います。これ等は一体誰の為に何の為
に桐紋を使ったのでしょうか堀尾吉晴
でしょうか?

長谷川
私は答える事が出来ません。佐和山城
は織田信長も約8カ月「在佐和山」して
おりましたし、本能寺後も佐和山城は
信長の孫に相当する三法師の持ち物と
して認識されており天正11年の堀秀政
の賎ヶ岳出陣も、堀秀政が佐和山城を
三法師の代理として治める役目をして
おり堀秀政の湖北各地に発給した書状
は天正11年の賎ケ岳合戦以後の事です。
また堀尾吉晴は慶長9年(1604年)に
豊臣姓を下賜されているので桐紋瓦は
一体誰が何の為に使っていたか私には
答える事が出来ません。今後の冷静な
研究の進捗を期待したいと思います。

対談者 堀尾吉晴は
慶長16年(1611年)、松江城を建造し
本拠を移したが、間もなく6月17日に
死去した。享年69。との事ですが?
一つ長谷川先生に佐和山城で質問した
い事があります。長谷川先生は縄張図
に関しては常人の域を超えた人と噂に
聞いてますが1987年頃の『滋賀県中世
城郭分布調査4』1987年版の佐和山城
の遺構イラストを是非教えて下さい。

長谷川
この古い佐和山城の鳥瞰図の事ですか?


対談者
なんと言う事なんでしょう!1987年頃
にもうこれだけ進歩的な図が存在したの
ですか?世間や一般の人は、長谷川先生
の事を見逃されてます!しかし一部の人
が長谷川先生を洞察する力量がある事に
私は驚いています。もう一つ質問です!


正直言って長谷川先生と縄張者さん対談
にある長谷川先生の野々口丹波城の図面
や和田山城の図面の精度に追いつけない
と縄張者さん自身が悩まれているように
思いました。長谷川先生が遊びで描かれた
と思っていた佐和山城本丸の飛び出した
櫓は何を根拠に推定復元されてますか?
イラストの円の部分です!


長谷川
ああ!あれ~ね?あれは
1987年頃の『滋賀県中世
城郭分布調査4』1987年版の
佐和山城主郭部調査のもです。
飛び出した部分は斜面にはなって
いますが、現在でもその地形は
観察出来ます!また御一緒に私と
その場所を見学しましようね?

対談者
おそらく縄張さん、たちどころに長谷川
先生の御教示を理解されると思いますが
私に遺構を看破する遺跡を観察する目が
養われていないのかも知れませんが?

長谷川
私に数人良いねを頂いている人は解った
と思います。またこのブログを盗むので
はなく学んでいる人は見学能力がアップ
すると思っています。あせらず一歩一歩
麦の芽を飛び越える練習した人が高跳び
をいつのまにかマスターしてしまう事と
同じです。ただ最初から俺には解らんと
か私には解らんと城址を観察する気力や
信号を誰かに注入されてしまったら終り!
城址を見学する気持ちが失せる事を誰かに
消された注入された事に気が付かない場合
も全てが終りです。自動車学校でも踏切を
渡る時には左右の確認を実践しましょうと
言う教官が普通で、左右確認しなくも良い
よと言う教官はいないと私は思いますよ。

対談者
それじや今日の図版もう一度見ますね!
先ず松江城天守絵図

その次に佐和山城と思われる奉納額縁!

その次に多賀大社社頭絵図!ううん良い!

対談者
松江城天守 佐和山城天守 おもしろ対話
を楽しめたような気がします。
長谷川
楽しめて良かったですね! おもしろ対話
しかし松江城の千鳥破風が多い云々よりも
佐和山城もしかして千鳥破風唐破風多いの
幻想論よりも国宝彦根城天守の破風の多さ
さにももう一度再注目致しましよう!

長谷川
彦根城は彦根市金亀町『滋賀県百科事典』
によると、概要は「彦根城は井伊氏歴代の
居城で1603年(慶長8)起工1606年
(慶長11)には天守ができ、1622年
(元和8)には城郭がほぼ完成している。
井伊家年譜には天守は大津城からうつし、
1606年(慶長11)大工浜野喜兵衛が
格好よく造りなおしたとある。1960年
(昭和35)の修理時に慶長11年大工喜
兵衛の墨書銘を発見するとともに、前身の
天守(四重五階)の材料を利用してたてら
れていることが調査で判明した。独立天守
で北西隅に附櫓がつき、さらに長い多聞櫓
がつらなる。また北面の東寄りには玄関が
あって石垣内の地下入り口につうじる。附櫓
は天守と同年につくられたものであるが、
多聞櫓はそれらより若干おくれてたてられた。
天守の外観は複雑なかたちをしているが、
構造的には入母屋造の上に二重の楼をのせた
かたちで、これに千鳥破風や唐破風をつけて
屋根を変化させたもの。2、3階に火灯窓を
つけ、唐破風の金具や鯱瓦に金箔を押し、
下階の柱を内転び(内側に傾斜)にするなど
はなやかな装飾のなかにも巧妙な建築技法を
とりいれた代表的な天守であると。

対話者
しかし長谷川先の先生のスゴイところは
やはり気付き力なんですよね?通過する
んじやなく本当に立止り本当に見学して
るか研究してるかなのです。

長谷川
あれまあ?あなたまだ居たんですか粘り強い?

対話者
はいはい延長戦とは野球にも城郭にもあると!
彦根の城前進建物は五階であったと推定復元
されましたね?世の中の人すべてがチギリ符丁
が彦根城天守にある事を一部の人は知ってます。

しかし三角を逆に重ねた符丁が、まさか、まさか
佐和山城の城下町から出土するなんて誰も考え
てません。みんなの頭は彦根城の前進は大津大津
と思ってた。長谷川先生が優れてると言いません!
その長谷川先生の『気付き力』に気付いた一部の
数人のスゴイ読者様がいる事に私は驚きましたよ。

対話者
また平成24年に所在不明であった慶長16年の
年号が記された松江城の祈祷札2枚が再発見
されてます。これらは柱に残された釘穴及び
痕跡から、地階中央の2本の通し柱に付けら
れていた事も佐和山の符丁と松江城の因果に
ついても興味があります。

長谷川
その話は止めましょう!今日はおもしろ対話です!

縄張者
あのう~長谷川先生!佐和山城本丸の遺構の見方を
御教示願いたいんですが?私は長谷川先生の図の様
に、佐和山城を正直言って観察できるだけの力量が
備わっていません。



縄張者
もし将来私が城郭研究家として人々を正しく導く
立場になれる日が到来した時に佐和山城の本丸に
は何も残っていませんと人々に無責任に言ってし
まう恐れがあります本当は遺構が残っているのに



縄張者
これは学究者として本当は私に実力が無いと言う
事が大衆の面前で白日のもとに晒され、私が生き
る近未来の社会では、全く信用を無くす事になり
ます。研究家や学者とは誠実や真実が根幹です。

対話者
そんなに厳格にならなくて良いでありませんか?
お気楽な、お城ハイキング、こそが、令和の城郭
ブームの本命にして本道です。貴方はその、大衆
に合せて、忖度して、賢く生きる事が利口ですよ。

縄張者
私は長谷川先生の和田山城図や野々口丹波城図面
の精度を見て、今一度最初から勉強し直します。

長谷川
無理しなくて良いと思います。今回はお気楽対話!

原作・吉川英治「宮本武蔵」の最終章の言葉『
波騒(なみさい)は世の常である 波にまかせて
泳ぎ上手に雑魚(ざこ)は歌い 雑魚は踊る   
けれど 誰ぞ知ろう 百尺下の 水のこころを 
水の深さを』

初心者
あのう私は全く初心者です。以前長谷川先生と
彦根城の天守閣に付け櫓のほえから階段を登り
天守閣へと登った時に天守閣の狭間が付櫓室内
に向けて存在した事を思い出しました。

長谷川
城内戦の事ですね?出雲松江城も天守閣から、
付け櫓に侵入した敵を狙撃する典型的城内戦
の施設としてよく知られています。一説には
何度と身体に身の危険の及ぶ身の危険を体験
した堀尾氏が松江城天守から附け櫓内を銃撃
する用心の為とか戦国乱世の天守の現実をも
伝えるとも言われています。
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9 コメント

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Unknown (Unknown)
2019-11-09 18:56:11
・いつも感服しております。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-11-09 19:01:48
・城郭見学会の再開を心待ちにしています。
返信する
がんばれ先生 (すがきや)
2019-11-10 09:24:09
がんばれ先生!
先生とは?
万人の知らない事
に気付く事の人を
言います。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-11-10 09:39:58
信じられません。
返信する
重い (出雲)
2019-11-10 16:59:59
この投稿軽いと思った人
は軽い人、重いと感じた
人は重い人の様です。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-11-11 06:24:19
この投稿はすごい内容
繰り返し読んで
今回の投稿の意味
を深く考えている
人々は少ないと
思います。それが
世間の節穴の目と
言えると思います。
返信する
深かった (ほずみ)
2019-11-11 12:56:12
やはり
長谷川先生は
深かった。
私は
浅かった。
そんな長谷川
先生を見抜いた
数人の人に
驚きました。
返信する
Unknown (Unknown)
2019-11-11 15:51:58
先生の八幡山城縄張図を拝見しました。私が生まれる前に(1961年)に本丸跡には村雲御所が建てられていて、もう本丸の地表を見るすべがありません。2017年に八幡山城は続日本百名城に選ばれ、本丸跡の村雲御所には復元図が設置されました。ところがその復元図では本丸の中心に天守閣が建っているのです。秀吉の跡継ぎの城なので天守閣があったのは確実だとは思いますが、天守閣は中央ではなく北東の隅の出っ張った辺りにあったのではないかと思っています(根拠の無い想像です)。先生のお考えをお教え頂ければ非常に嬉しいです。(専門家にタダで情報を出せと言うのは厚かましいとは思いますが、自分が子供の頃からの謎ですのでご無礼を承知であえてお聞きしています。申し訳ありません)。
返信する
いいね一名様 (長谷川博美)
2019-11-12 06:27:06
いいね一名様
ありがとうございます。
返信する

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