チャレンジ

楽しく、自然体で生活しながら、チャレンジし、感じ続ける記録です。

夜道の怪しい声

2012-03-02 23:14:45 | 何気ない時間
組織にいたアメリカ人がロシアに転勤になり、会社で英語を使う機会がほとんどなくなった。

落ち放題の英語力を少し回復しようと、会社の行き帰りで英語を聞くようになった。
Everyday EnglishかSpeed learningを以前ならこの目的のために購入していたと思うものの
今回は、いつまで続くかわからない学習にお金をかけるのはやめた。

もうかれこれ15年くらい前のNovaの教材を見つけて、これを聞くことにした。
当時はほとんど聞くこともなかった教材だから、とってもエコな活用にとりあえず
満足し、そして教材を聴いていると、これが意外によくできた教材であることに気付いた。

聴いていてとても面白い。興味を惹くストーリーに加えて、声がとてもチャーミングな
声優が何人かいて、思わず引き込まれてしまう。

声を出して笑ってしまうようなストーリーもあって、合計で3時間くらいの教材を
もう何度聞いただろう。

英会話の教材なのでナチュラルスピードと比較すると遅いため1.5倍速で聴いている。
すると、最初は聞き取れない内容もあり繰り返し聞くモチベーションもさらに湧いた。

最近では聞くだけでなく、話す言葉に合わせて一緒に話すことを始めた。
英語の発話や発音にも効果がでることを期待してのことだけど、これはなかなかたいへん。
スピードについていない時には、頑張ってついていこうとするあまり、声が大きくなる。
人通りの少ない道を通ってはいるものの、すれ違う人は変な人だと見ているのかもしれないと
思う。

仕事で疲れた帰りには、英語を聞くのが面倒くさくなって、音楽を聴くこともある。
こんな時は、なぜか決まって中森明菜を聞く。
2か月くらい前に突如始まった明菜ブーム。

お気に入りの曲はスローモーションとサザン・ウインド。
どちらも10代のころに明菜が歌ったものではなく、20代後半か30代になってから歌った
ものがとってもいい。

これを聴いていると、気分がとってもロマンチックになって、疲れた気持ちが癒される。
そして、時々明菜に合わせて歌いもする。

英語をぶつぶつ、そして時に大きな声で話す時と、明菜の曲を歌う私、どっちも怪しいかな。
特に夜道は。


いまいちだぞ

2012-01-06 22:25:02 | 何気ない時間
ちょっとテンションが下がっているのを感じる。
元気がないわけではないんだけど、気持ちがいい感じで盛り上がらない、
そんなところにいる。

何かを求めていて、そしてそれが外からやってくることを待っている
感覚もある。

いろんなことを変えられる、その材料は自分の中にあることを信じているし
知ってさえいるのに。

過去のパターンを振り返ってみると、自ら変化をおこすことを出し惜しんで
いるのか、あるいはただ単に怠惰でさぼっているかのどちらか。

こんな時には飲みに行くに限ると思い、最近少しその様子が気になっている
同僚を誘ったものの、見事にふられた。
かといって一人で飲みに行く気にはなれず、しぶしぶ家へ直行しジムでトレー
ニング。

刺激だね。刺激。

何かの刺激が入れば動けるな。刺激、刺激。







新年初日はこんなもんかな

2012-01-05 22:14:22 | 何気ない時間
正月休みも明けて今日から仕事スタート。
今年は休みが比較的短かったこともあってか、今日は休日ぼけをは感じず、
逆に休み明けの新鮮な感覚がないことを残念に感じた。

新年初日の会社での恒例の行事、国歌を歌い、社歌を歌い、社長の年頭訓示を
聞き、三本締めには新鮮さを感じ、イベント感覚で楽しんだ。

ただ、デスクに座って一日仕事をするのはやはり長く感じる。
初日ということもあって、また昨年末にすっきりと仕事を終わらせておいたと
いうこともあって、それほど仕事に追われていないことも理由かもしれない。

「今年は仕事も頑張るぞ!」と決めていたので、その初日としては
「あれれ、こんなはずではなかったのに」とやや拍子抜けした気持ちと、
そこから自分自身を追い詰めることをしなかったことにやや後悔。
明日からは、気合いを入れて取り組もうと決意をして、早々に退社。

そして今日からジムでのトレーニングを再開。
久しぶりのジム、今年は続けることを決めている。そして仮面ライダーへの
肉体改造計画もやり遂げたいし、ジムに真面目に通うぞと決意。

休み前から始めた英語早聴き2倍速は通勤時間を利用して継続。
ただ、冬休み中に参加したドイツ語のスピーキングクラブで、ドイツ語力の
衰えを感じたので、ドイツ語もやらないと。

今年は、新しいことは一つのことを除いてやらないと決めている。
これまでやってきたことを充実させる年。

特に目立ったことのない一日だったけど、一日の終わりに自分自身を少し振り
返ってみることができてよかった。
明日からは面白いことをしよう。



震災ボランティアに行こう

2011-09-14 23:00:18 | 何気ない時間
9月29日~10月2日まで仕事は4連休です。この4連休を何に使うか考えていました。

そして、ほとんど勢いで宮城県に震災ボランティアに行くことに決めました。
8月のお盆前にも震災ボランティアに行き、もう一度戻ってこようと漠然と決めていたことが実現できます。
今回は宮城県気仙沼市唐桑というところに入り、がれき撤去や、そこでできるボランティアならなんでもとりくんでこようと思っています。前回ボランティアに参加した時は自分の持っている時間を最大限に有効に使いたいとの思いと、一方でそんなに思った通りにはいかないという現実との間で葛藤し、ストレスも感じだので、今回はもう少しリラックスして臨もうと思っています。

足元を見れば、仕事のこと、家族のこと、地域のコミュニティーのこと、そして今年力を入れて取り組んできたコーチングのプロジェクトのこと、時間を使えばいいことは多いので、「ボランティアなんかに行っているより、これらのことに時間を使えば?」という内なる声がかなり鮮明に聞こえてきます。

でも、やっぱり今年もう一度唐桑の地に足を踏み入れたいという思いが、昨日の夜、現地のボランティアセンターへの連絡、交通手段手配の手配などを勢いで済ました後に徐々に高まってきていることを感じます。本当はボアンティアは自分のためにやることではないと思うけれど、私は私のためにボランティアに向かうような気がします。もちろん、現場についたら私の持っているものを精一杯使って、明るく楽しく元気よく、ボランティアをしてくるから、まあいいでしょう。

9月12日

2009-09-13 04:15:04 | 何気ない時間
朝目覚めると9:20だった。
こんなことは珍しい。

何が珍しいかというと私は休みの日でも平日と同じように目覚めるほうだから、いつもの週末ならば6:30には起きている。昨日夕方に1週間ぶり以上でジムでトレーニングをしたから疲れたのかもしれない。そういえばジムに行く前からすでに疲れていた。だからきっといつも以上に疲れたのだろう。寝ぼけた頭でそんなことを考えていた。

次に10:00からソフトボールの練習があることを思い出し少しあわてた。でも、ソフトボールの練習は家の近くであることから朝ごはんを食べてシャワーを浴た。朝シャワーを浴びることは、たとえソフトボールの練習だからと、どちらにしろ汗をかくんだからといっても絶対にかかせない。これは私の朝の習慣。目覚めの儀式かな。

車で5分ほど走って練習場に約束の時間についた。

練習場の芝生の上に立った。芝生の上を流れる風は少しだけ冷たさをもっていて、それと同時に秋の気配も運んでいた。空を見上げた。空のほとんどは青空で、そこに申し訳なくある雲は、それでも秋の気配を伝えていた。たぶんこんな日を秋晴れの気持ちの良い一日と言うのだろうと思った。

先週の土曜日はノルウェーのオスロにいた。
オスロのこの日は雲ひとつない快晴で、9:30から始まるワークショップに参加する前に、宿泊したホテルからワークショップ会場までの道を少し遠回りしながらオスロ市内を散歩した。
オスロ中央駅から西に向かう歩行者道路を進み、途中右折してオスロ大学を通りぬけて少し北に向かった。オスロはノルウェーの首都。でもその街はヨーロッパの主要都市であるロンドン、パリ、ベルリン、マドリッドなどに比べてはるかに小さい。人口は60万人もいない。地図で見ればかなり距離がありそうに見える場所も歩いていくことができる。ロンドンやパリの地図を見て、歩いていこうと気楽に思った後で後悔するのとは逆。

街の建物はパリやウィーンを感じさせるような重厚な作りの建物が多い。私には建築様式についての知識がないので、何様式とかいう名前はわからない。いつのころの建物なのかも正確にはわからない。ただ、多分19世紀以降の建物だろうと、ノルウェーの歴史を頭の中に思い出しながら予想してみた。さすがに建物の一つ一つはパリに比べると全てが一回り以上小さい。人口の違いが影響するのだろう。

オスロ2日目のこの日、また少しオスロのことが好きになっている私を感じた。

オスロはとても優しい街だった。街そのものもそうだし、人もそう。

街はそのサイズが私にとってとても心地がいい。
私は大都市が好きではないと思う。私の住むドイツ デュッセルドルフも人口は60万人。以前住んでいたアントワープも60万人くらい。

このくらいのサイズの街には、東京やパリやロンドンのように全てがそろっているわけではない。でも必要なものは一応何でも手に入れることができる。それも都市の中をあちこち動き回らなくても、たいていの場合徒歩で歩ける範囲内で全ての用が足りる。とても便利な街。

そして東京で生活するように、周りの人の勢いに影響されて人ががんばりすぎることもないし、あまりに静かすぎる田舎の街で過ごす時のように元気をすいとられたり、充電モードになることもない。私が私らしく私のペースで過ごせるのがこんな中規模の街のように感じる。

オスロでは翌日の日曜日に国立美術館に行った。ここではムンクの数々の作品を見ることができる。ムンクと言えば『叫び』の絵しか知らなかったけれど、ここには他にも素晴らしい作品がいくつもあった。素晴らしい作品に感動をし、心が豊かになった気がした。昼の休憩時間に行ったのでゆっくりとは見られなかったけれど、行ってよかった。ムンクを紹介する本を自分自身のお土産として買った。因みに美術館の入場料はただ。物価の高さがオスロの弱点だけど、無料の美術館で少しバランスがとられた。

黄色いクマぬいぐるみ

2008-10-02 07:48:03 | 何気ない時間
黄色いクマのぬいぐるみ。

大きさは小学生の胸にすっぽりと収まるくらい。小さくもなく大きすぎることもなく、だっこをすればクマの背中のところで丁度両手を握ることができた。

名前は『クマちゃん』。とてもシンプルだ。

座っているポーズかな。
足も手も前を向いている。くまが歩くみたいに両手と両足をつかってたたせてみようとすると頭が床にくっついてしまう。頭がとても大きいクマ。

目は黒。真ん丸い目。十円玉くらいの大きさで表面が輝いている。
鼻も黒。真ん丸いボールのような鼻。素材は毛糸。

鼻は顔が少しでっぱったところについている。でっぱっているところは全体が白い色。その白いところの鼻の下に赤いベロがついている。

いつも何かの服を着ていた。夏と冬で服が変わっていたように思う。赤い毛糸であんだ、前にポケットがある服をよく着ていた。服の中がよく思い出せない。
おへそはあったのかな?

夜寝るときはいつも一緒に寝た。泊まりで旅行に行くときはいつも一緒。車での旅行も電車の旅行も。

クマ離れが始まったのはいつ頃だっただろうか、中学生のころもまだ私の近くにクマちゃんはいた。
クマ離れの決意をしたわけではなかったと思うが、次第にクマ離れしていった。犬が家にやってきたころだろうか。恋愛と関係があったかもしれない。高校生になって彼女ができたころには私の中に占めるクマちゃんの比率はかなり下がっていた。

そのころクマちゃんはたんすの上に座って私のことを見ていた。
クマちゃんの方を見ると、いつも黒い真ん丸い目で私のことを優しくみてくれているような記憶がある。

ドイツにクマちゃんはいない。日本の家にもいない。実家にもいない。
クマちゃんはもういない。

「もう古くなったから処分してていい?」と実家に帰るたびに母親に聞かれていた。「考えとく」と私は答えにならない返事をする。
ある時クマちゃんがなくなっていることに気がついた。でもどうしたのかは聞かなかった。聞けなかった。

今日から旅行にでかける。旅行の準備をしていると時々クマちゃんのことを思い出す。「忘れずに持っていかなきゃ」といつも感じていた記憶が。

紫色をしたろうそく

2008-09-28 19:30:30 | 何気ない時間
素敵な香りがするろうそくを探している。

一日の疲れやストレスを癒してくれる素敵な香りがするろうそく。
静かな時間をさらに静寂な時にいざなう光と香り。

少し大きめの光が欲しいから、芯は大きめで握りこぶしくらいのサイズがあるろうそくがいいかもしれない。光や香りとは直接関係ないけれど、ろうそうくの色にも好みがある。赤やしろではなく紫がいい。そう、紫のろうそくがいい。

香りは紫だからラベンダーを思い浮かべる。ラベンダーがあればそれも手に入れたいけれど、それ以外の香りも楽しみたい。

何の香りがいいんだろう。
爽やかな香りというよりは、少し深さを感じる香りがいい。

香りのことには詳しくないから手にとって香りを確かめて買いたい。プロバンスやコートダジュールでは素敵なろうそくを売っている店をたくさん見た。近くであればすぐにでも飛んで行きたいんだけれど、遠すぎてすぐにはいけない。

早く手に入れたい気持ちと、それを手に入れることを楽しみにして待っている気持ちがある。

欲しいものがあるのは嬉しい。

縮んでいく世界と拡がっていく世界:その2

2007-06-12 05:19:16 | 何気ない時間
 縮んでいく世界の中にいる。

 「なにかを失っている」そんな言葉が私の中から聞こえる気がする。

 なにを失っているのか?なにかを失っているようで、でも何を失っているのかがよくわからない。

 なにかを得ているのかもしれないし、なにかを得ようとしているのかもしれない。
 
 でもそのなにかがよくわからない。だから得られているのかどうかもよくわからない。

 縮んでいく世界は穏やかな世界。

 そこには夏のぎらぎらとした太陽は見えないが、明るさはある。凍りつくような冬の冷たい風はないが暑くも寒くもない空気がある。ざわざとした都会の喧騒もないかわりに全てをのみこむような静けさもない。そこにはただ穏やかな空間がある。

 ただ穏やかな空間。この空間にいて私の心は揺れている。

縮んでいく世界と拡がっていく世界:その1

2007-06-01 06:33:55 | 何気ない時間
 縮んでいく世界では毎日同じことが繰り返される。

朝目覚めるとパソコンを立ち上げてメールの確認をする。ベットに入る6時間前に確認した後に40件近くメールが入っている。

「真琴です、もし届いてたら何回もごめんなさいね!」
「実は身体だけの関係を求めるサークル活動をしているのですが
男性が圧倒的に不足しているんです。」
「貴方様は当クラブにおいて優良者であると認証されました。」

40件のメールのうち32件はこんなメール。次々とメールがダウンロードされている間にかたっぱしから『迷惑メール』に登録をする。

建物の上から現れてくる悪党を「バン」「バン」と右手にもったマウスのクリックで片っ端から撃ち抜いていく。
残りのうちの6件は登録されたところからのダイレクトメールやメーリングリストからのメール。タイトルも見ずに削除するものもあれば、少し読むものもある。

この後には友人や大切な人からのメールが残る。それを読む。直ぐに返事をすることは少ない。朝の時間にメールをかくことは苦手だ。考えがまとまらない。

メールを確認した後はきまったニュースサイトやきまったブログを読む。

それが終わるとシャワーを浴びて服を着替えて仕事に行く。

オフィスに着くと、途中で買ったコーヒーをすすりながらパソコンをたちあげる。そして朝起きてするのと同じようにオフィスでもメールの確認が始まる。ここにも30件くらいのメールがきている。捨ててもいいメールすぐに捨てながら、返事の必要なメールにフラグをたてていく。

メールを確認した後は、日本の会社のイントラに入って新しいニュースを確認する。ダウンロードサイトから決まったデーターを落してきて、こちらの会社の共有サイトに登録する。

午前中はフラグをたてたメールの処理と、いろいろ案件処理のために日本と電話のやり取りをする。

昼になるとオフィスで食事を取る。食事のあとは一人でライン川沿いの散歩にでかける。

午後になると会議や打ち合わせ、相談に来る人の対応をして、問題解決に取り組む。夕方6時を超えると、あわてて遣り残した仕事を片付け、終われば帰宅する。

仕事の後にジムに行くときもある。本を探しに行くときもある。声とリズムのトレーニングに行くこともある。一旦家に帰って直ぐに飲みに行くこともある。

毎日同じことがたんたんと繰り返されていく。
嬉しいこともある、腹がたつこともある、気力のないときもあれば、勢いのあるときもある。

一日一日はどんどん流れていく。
流れていく日々とは逆に世界が縮んでいくように感じる。

金色のフェラーリー

2007-05-31 06:45:18 | 何気ない時間
 ドイツですごいものはなに?と尋ねられると、私がまず一番にあげるのはドイツの誇る高速道路アウトバーンです。普段の通勤でも200km/hで走ることもあります。このアウトバーンで私が試してみたかったこと、その一つ目は...

200km/hでオートクルーズコントロールが設定できるのか?

オートクルーズコントロールを知らない方のために説明をしますと、それはアクセルを踏まなくても、設定した速度で一定して走れるように車が自動でアクセルの調整をしてくれる機能です。

アウトバーンの速度規制がある区間や、ドイツの隣国オランダ、ベルギーを走る時にそこでの制限速度に設定して、速度違反で捕まらないように使うことはこれまでもよくありました。また160km/hに設定してアウトバーンを走ることもよくありますが、200km/hというのはやったことがありません。

そんな高速では安全を考えて設定できないようになっているのではないかと思っていました。
これを実験できる機会がとうとうやってきました。

場所はカッセルからベルリンに向かうアウトバーン。旧東独のこの地域の道路はドイツが統一して以降に改修されたのか直線部分が長く、車線幅も広く、また休日の午前中に渋滞をさけて移動する車が多かったせいか平均的な車で160km/hくらいで走っていました。

アクセルを踏み込んでメーターが200Km/hになったところで、いよいよオートクルーズコントロールをセット。

できました。
「新しいトレビアの誕生です『私の車は200km/hでもオートクルーズコントロールがセットできる』」


アウトバーンで私が試してみたかったこと、その二つ目は...

200km/hにオートクルーズコントロールを設定してどれくらい走り続けることができるか。

普段200km/hやそれ以上で走ることはあっても、常に足はアクセルの上において、車やエンジンの調子を感じながら微妙にアクセルの踏む量を調整します。このことで200km/hで走る怖さもコントロールしています。

でも、オートクルーズコントロールで走るというのは、そのコントロールしている感覚を手放す感じなので、とても恐ろしいのです。

このことを書くと思い出すのが過去の苦い体験です。

それは私が中学校1年生の時です。当時は自転車にのって何秒目をつむって走れるか、というのがはやっていました。

その日も私は友人とどちらが長く目をつむっていられるかを競争していました。

最初は3秒くらいから始めたんだと思います。次に5秒、次に6秒と増やしていきました。

それはたぶん目をつむる時間が10秒になった時、私の友人は「6!,7!,8!,9!」と数えたのち「あかん、でけへん!」といって何度チャレンジしても目をあけてしまいました。

私は「弱虫やな、そんな弱虫でどうするんや」「みとけ」とか友人に言って、自転車をこぎ始め目をつむりました、「6!,7!」数が増えるごとに一つの数がだんだん長くなるように感じました。

「8!,9!」、気持の中ではもうあかんといっています。でも友達に偉そうに言った手前とてもやめるわけにはいきません。

「10!」と私は自分自身の恐怖の乗り切るように大声をあげました。
それと同時に「やった!」と心の中で叫びました。

そして私は目を開けました。

私の目の前に見えたのは電柱。私は見事に電柱に激突しました。


こんな過去の記憶が私のチャレンジする気持にブレーキをかけます。

でも、やってみました。

時間ははかっていませんが、距離は5kmくらい走れました。最後は前に遅い車(といっても180km/hくらいはでていると思います)が入ってきてブレーキを踏みました。

でも、こんなあほなチャレンジはあまりやらないほうがいいですね。

アウトバーンにも速度制限がある区間も多くあります。そして一説では速度制限のない区間では200km/hで走行できるように設計がされているそうです。

ときどき私が200km/hで走っていても後ろにぴたりとくっつかれることがあります。それはたとえばこんな車ですね。



アウトバーンを高速で走る人はだいたい男性みたいに思います。でも、よく考えると200km/hで走っている時はドライバーの顔を見る余裕はあまりないですね。女性もとばしているのかな。



女性がこんな車で高速で走っていたらびっくりしますね。もちろんドライバーが男性でも、とにかくこんな色の車が走っていたらびっくりします。



これは私の机の上にある999個限定生産の金色のフェラーリーのミニカーです。本物のフェラーリーに金色があるのかどうか私は知りませんし、調べる気にもなりません。

でもこれを店で見たときに、香川県の金比羅さんの黄色のお守りが思い浮かび、それに似た色のこの車をお守りがわりになるかもって思い買いました。

そのうちにこんな車に乗れるかな、乗れそうで乗れないような、絶対乗れないような...

いや、きっと乗れるでしょう。私が乗りたいと思えば。

魅力的な女性は今に生きる

2007-05-26 04:59:37 | 何気ない時間
 「子供って自分勝手でわがままでそのことに私はとても腹がたつことがある」と、ドイツ人の女性に話をした。

 その人は私の顔をしばらく見たあと私にいった。
「そうね、私もそう思うことがある。でもそれが子供の素晴らしいところだとも思わない?」

「子供は今のこの瞬間に生きてるのよ。今どう感じるか、今どれくらい満たされているかが大切なの。大人はそのことに腹が立って「これくらい我慢できなくてどうするのよ!」とか「先のことを考えなさい!」とかイライラして言ってしまうのね。でも、大人っていったいどこで生きているのかって私は考えるの。私は過去の中に生きていたり、そうでなければ将来のことを考えて、そのことに頭も気持ちもとらわれてしまっている。私は過去と将来に生きていて、今をいきていない。だから私は子供ってすごいなと思うし、大人も子供のように今に生きることができたらいいのにってよく思うの。」

私はこの話にすごく驚いた。というのはこの話をしてくれた女性は私から見るとまさに『今に生きている』という感じの人。
嬉しいことがあったら、ものすごく嬉しい顔になるだけでなく、体の全てで嬉しさが表現されている感じがある。嫌なことがあるととても辛い顔で漫画だったら後ろに暗いバックがつきそうなくらいすごく悲しんでいる。そんな、生きているっていうことをすごく感じさせる人。



そんな人でもまだ今に生きているって感じていないことに驚いた。その人はきっと今に生きようと頑張っているのだと思う。その人の普段の嬉しさや辛さの表現は、今に生きているっていうことをおおげさに表現しているのではなく、今に行きたいっていう気持が表れているんだと思う。

この女性はとても魅力的な人。

切り取られていない空

2007-05-24 04:26:36 | 何気ない時間
 「ドイツの空は大きいわね」という人がいた。

 「空の大きさは日本もドイツも変わらないと思うけど大きいってどういうことかな」と私はたずねた。

 「切り取られてない空がたくさんあるっていうかんじなの」とその人はこたえた。

 「空が切り取られる?空は本物の空で絵でもパズルでもないんだから切り取られるって感覚がよくわからないんだけど」と私は返した。

 「私にもこれがどういうことなのかよくわからないのよ、でもとにかくドイツの空は切り取られていないのよ」



 二人で空を見あげるとそこに確かに切り取られていない空があった。

 「きっと電線がないせいね」「そうだね、電線がないから空が一枚の空なんだ」

 空は一枚の空がいい。そしてこの時期のドイツは夜9時でもこの明るさだ。

 

なにかある

2007-05-23 05:32:14 | 何気ない時間
私の中になにかがある。

私自身がその正体を気付いているものもいくらかあるし、私自身が気付いているのか、気付いていないのかわからないものもそこにはある。

最初に気付くのはその場所。
ちょうど胸のあたりでその右側と左側にある。左側にあるものはとても熱くて勢いがある。

『いけいけどんどん』

熱くなって突き進む。進み出すともうまわりを振り返らずにとにかくどこか一定の方向に向かって進んでいく。コントロールがきいているんだろうか。きいていないんだろうか。恐らく自分自身ではもうコントロールはきいていないし、コントロールという言葉や機能がそこにはない。

最初はいろいろな価値判断があって、そこできめたことに突き進んでいる。それとは別に、感覚的なもので「これ!」と決めたところに突き進むこともある。そして一度進み出したらしばらくはとまらない。
それが私の胸の左側にあるもの。

私の右側にあるものは、様子を見ている。

「これでいいのかな...」「大丈夫かな...」と感じている。

自信ないという言葉はあまりぴったりとはこないが、そこには弱弱しい感覚がある。元気がないというかエネルギーレベルがよわいというか、死にそうな感じではなく、すごくそわそそわして心が小刻みに震えているかんじがして、それを弱弱しく感じている。ここではほとんどのことが自分自身で決められない気がする。

たとえ「絶対大丈夫だよ」と誰かに言われても「本当に大丈夫かな...」と感じている。その人のことを疑っているわけではないのだが、とにかく自信がないから何も確信が持てない感覚がある。

私の左側にある『いけいけどんどん』と右側にある『大丈夫かな』、どちらも私の中にあるはずなのに、一緒に表出することはない。『いけいけどんどん』がでていれば『大丈夫かな』はでない。逆もそう。『だいじょうぶかな』がでている時は『いけいけどんどん』はでてこない。

この二つがれが切り替わるときは、私はどこにもいない。『いけいけどんどん』にいた私が、あるときそこから消えてしまって、なにもない世界にうつった後、そこからしばらくして『いけいけどんどん』に戻ってくることもあれば、『大丈夫かな』にいったりする。

『いけいけどんどん』と『大丈夫かな』は私の胸の左と右、直線にたとえるとその左と右にあるもの。でもこの二つには共通するのものがある。それは、二つが同じものを見ているということ。どちら側にいても必ずこの共通するものを意識している。

意識の先にあるものはきっと私の『核』のような気がする。この『核』を『いけいけどんどん』も『大丈夫かな』も両方がみている。
その変化を感じとったときに、その『核』の変化を感じとったときに、私は何もない世界に入っていく。

『核』もまた私の体の中にある。それをみぞおちのあたりに感じる気きもしたが、いや違うそこだけではない。それはもっと大きなものだ。みぞおちのあたりに感じているのは『核』の上端で、核の本体はもっと下のほうにある。下端はおへそよりもまだ下の部分にある。

私の『核』は、みぞおちからおへその下の部分までの範囲にしっかりと存在している。

核は鉄球のように硬いものではなく、しなやかな筋肉のように柔軟で弾力性がある。しっかりとしたはりがある。あまり好きなイメージではないが、『核』は長州小力のおなかのようにはりがあって、形は球体に近いような気がする。

『核』は大きくなったり小さくなったりする。これが大きいときには大きなエネルギーを持っていて、小さいときには小さなエネルギーしかない。

そしてこのエネルギーは自分の中からうまれてくるものではない気がする。これは外と繋がっていて、外のエネルギーと作用して大きくなったり、小さくなったりしている。

大きなときには大きなエネルギー、小さなときには小さなエネルギー。

私はいつもなにかを待っている。きっと待っている。私の周囲でおきるなにかや私に向けられるなにかをいつも待っている。今気付いたことだが、私がいつも待っているなにかは、外からやってくるなにかで、外からやってきて私の『核』に作用する。それを待っている。外からの刺激は自分自身では作り出せそうで作り出せない。あくまでもそれは外にあるもの。

『核』は外からの刺激を受けてはじめて化学反応をおこす。

こうやって考えているのは、まるで私がいつもなにか外からの刺激を求めている、それがないと何もしない自分についての言い訳を考えているのではない。

今感じていること、今私のなかでおきていることを素直に感じて文章にしているだけ。

私をうごかすのは外からの刺激、私自身をいつも刺激するなにかに接していることが私のエネルギーを高めるんだ。そんなことに気がついた。

ふたりだけの時間

2007-05-22 06:45:27 | 何気ない時間
 私の名前を呼ぶどこかで聞き覚えのある声。顔を上げるとその人が私の前に立っていた。「やあ!」という声はでたものの、その次の言葉がでない。予期せぬ出来事がおき、その状況をそのまま受け入れる前に私の頭の中では「何がおきているんだろう」「何かあったんだろう」といろいろな考えをめぐらしている。今起きている状況を必死で分析しようとしている。
場所は私のオフィス、しかもここはドイツ、その人が来るのであれば私が知らないはずはないのに私は知らない。でもその人は私の前に立っている。私の頭は混乱して何がなんだかわけがわからない。

「何でここにいるの?」と聞くまでにずいぶん時間がかかったように思う。聞いてみればとても簡単なこと、私はその人が来る情報を知っていたはずなのに、それをよく理解できていなかっただけだった。

その人には以前もドイツであった。予定も何もなくただ偶然この同じビルの中で会った。そこでは挨拶をしてわかれたが、次にまたホテルのロビーでばったり会い、一緒にいた人たち6人くらいで夕食をとった。そして翌日はなぜか2人でドライブをした。

思い出してみると丁度1年前のこと。こんな偶然も珍しい。
今回は、一日の終わりに私がここにいることを思い出し、わざわざ私に会いに来てくれたこともとても嬉しい。

嬉しいと飲みに行きたくなる。

「今晩は何が食べたい?」こんな時に出る言葉は我ながらとても自然で、それでいて私がどうしたいかをしっかり伝えている。

自然な誘いには自然な答えが返ってくる。

その日予定していた筋トレのことを私はすでに忘れている。たとえ明日までに仕上げないといけない仕事があったとしてもそれも簡単に忘れてしまう。とにかく一緒に食事に行きたい、ただそれだけ。

ドイツらしい雰囲気があって、そして地元の若い人達が集まる、日本でいう居酒屋のような店にいった。ここの料理はドイツ料理でもとてもおいしい。ここで飲むビールはすぐとなりのお店で作られたアルトビールなのでもちろんまずいわけがない。

ビールが入ると話もはずむ、お店にきているお客はみんなそう。お互いの声がだんだん聞こえづらくなってきた。気がつくと店の中は立つスペースもないくらいたくさんのお客で埋め尽くされている。

大きな音でドイツ語が飛び交う中、我々だけが日本語の世界。ドイツ人に負けないくらい大きな声で話をする。話が聞かれても二人のことを知る人はきっと一人もいないし、そもそも日本語がわかるわけはないから、何を話しても心配はない。

自分達がどこにいるのかだんだんわからなくなってくる。前も横も後ろも、そこにいるのは全て日本人ではないし、その場所の雰囲気はまぎれもないドイツ。そしてここは正真正銘のドイツ。でも、どこであっても関係ない。二人はお互いが話したいことを日本語で大声で話している。

何も気にすることなく、誰を気にすることなく、二人だけの時間、今この時を楽しんだ。

久しぶりの落ち着いた時間

2007-05-02 00:05:07 | 何気ない時間
 ドイツの私が住んでいる地域は4月に入ってから雨が全くといっていいほど降っていません。4月の降水量としては何十年ぶりかの少なさらしいです。私は朝起きるとすぐにベットの横についているスイッチで電動シャッターを開けてその日の天気を確認する習慣がありますが、毎朝毎朝、空は雲一つない快晴。天気がよいのは気持いいのですが、これだけ晴れの日が続くとやはり何かがおかしい、異常気象かなと不安になってきます。そういえば今年の冬は雪もほとんど降らなかったし、3月も雨が降ったのは数えるくらいの日数でした。





 私は無駄なことは嫌いですが、シャワーを浴びている時はずっと水は出しっぱなし、嫌いな料理は食べ残し、鼻紙、トイレットペーパーは使いたい放題、アウトバーンではいつも最高速で走ってガソリンの節約は考えていないし、必要だと思って買ったものが使われずに置きっぱなしということがよくあります。
唯一最近心がけているのは無駄な待機電力を使わないためにコンセントをOn/Offスイッチ付きのものに切り替えたのと、買い物に行くときはマイバックを必ず持っていくくらいです。

 もう少し環境のことを考えて、生活態度を変えようかなと少し思い始めました。

 先週末はオランダにあるチューリップの有名な公園(Keukenhof)に行ってきました。例年なら4月の末ごろが見ごろなのですが、今年は好天の影響で見ごろはすぎている感じがしました。10年前の見ごろの時期に訪れたときにくらべて感動が薄い感じでした。





 4月初旬に一週間日本に帰りました。日本も天気の良い日が多かったのですが蒸し暑さには参りました。気温は25度くらいだったのでそんなに暑いわけではないのですが、朝からむしむしして体中がべとついてくる感じでした。湿度の低いドイツの気候に私の体が慣れたせいもあるかもしれません。7月にはまた日本に帰る予定なので、その時にはしっかり蒸し暑さ対策をしようと思いました。そういえば日本にいたときは初夏になると毎朝冷たいシャワーを浴びた後、体中にシーブリーズを塗りたくっていました。昼になれば汗をふき取り、またシーブリーズを体中に塗って、それで一日を乗り切っていたのを思い出しました。もともとむしむしには弱く、暑がりだったのかもしれません。
 
 ドイツでは5月のゴールデンウイークというのはありませんが、今日5月1日火曜日が祭日だったので、月曜日を休みにして4連休をとりました。3月、4月ととても忙しい日々が続いていたので、この休みはとてものんびりと過ごしました。
そんなか、土曜日にドイツにきてから始めたコーラスの発表会があり、ドイツ語と日本語の歌2曲づつを歌いました。メンバーは全員が同じ先生の個人レッスンを受けている人達で、個人レッスンに加えて2週間に1回全員が集まって発表会に向けたトレーニングをしてきました。今回のコーラスが上手くいったのかどうかは、私にはよくわかりません。いいところをほめてくれるひともいますし、ここをこうすればよいという指摘をいただくかたもいますし、良いところも良くないところもあったということなのでしょう。私は歌っているときに緊張はなかったのですが、余裕がありませんでした。回りのメンバーの歌を聞く余裕、個人レッスンの時に指導を受けている発声にかかわる音を前に出したり音をみるなどの余裕、そんな多くの余裕が自分にはなかったように思います。

 ドイツに着てからこのボイストレーニング&コーラスのほかにもダンスをしばらく習っていました。踊りたいと思った場面で、なんお躊躇もなく踊りたいように踊りたいと思ったからです。歌も歌いたい時に歌いたいように歌えるようになりたいと思って始めましたが、歌いながら踊れたらいいですね。今から芸能人を目指すわけではありませんが、『歌って踊れる...』になれたらいいなと思っています。

 ドイツの私の住む街にも何軒かカラオケスナックがあります。私がよくいくのが、日本のカラオケスナックと韓国のカラオケスナックです。日本のカラオケスナックの客はほぼ全てが日本人。韓国のカラオケスナックは日本人と韓国人が同じくらいで、他にも中国人、ドイツ人や他のヨーロッパの人達もきます。ボイストレーニングを習い始めてから気になることがでてきました。日本人は音程をあわせるのは上手くメロディーを上手に歌う人が多いのですが、声の迫力が著しくかけています。本人は上手く歌っているつもりだと思いますが、のどだけで音を作っているので歌がすごく浅い感じがします。対象的なのが韓国人。音は外れることもありますが、体全体で声を出している人が多いので迫力が全く違います。私が審査員だったら韓国の人をスターにします。

 体を鍛えることもドイツで続けていますが、ここ3ヶ月くらいはさぼってばっかりでした。でも夏に向けてボリュームのあるボディーを作ろうとこの週末にトレーニングを再開しました。1ヶ月くらいは週3日様子見をしながらのトレーニングを続け6月になったら体を大きくするトレーニングに移ろうと思っています。2月、4月に帰国した際に日本で通っていたジムに顔をだしたのですが、トレーニングはできませんでした。7月までにいい調子で体を作って、また日本で先生に指導をしてもらうことを楽しみにしています。

 暖かい季節になると、男性も女性も薄着の人が多くなり、その人の体型が良く見えるようになりました。一流のファッションショーにでるモデルのような人もいればXXXLのモデル/ダイエット前の写真のような人も多くいます。そんな中で関心するのが姿勢のよさです。ファッションショーのモデルはもちろんですが、ダイエットのモデルも普通の人もみな背筋がすっと伸びています。日本でしばしばみかけるような背筋の曲がった人はここではほとんどみかけることがありません。家庭の教育で姿勢のことについて強くいわれているのか、学校で頭の上に本を載せて歩く教育があるのかは聞いていませんが、これには関心します。

 ドイツに来て10ヶ月が経ち、見るもの聞くもの体感するものについての新鮮さや感動はかなり薄れてきた気がしますが、今はそれを自然なものと受け止め自分の中で消化し、理解していく段階にはいったように思います。過去にドイツで生活したときに気がついていなかったことに気付き、理解できていなかったことに真剣に向き合っている気がします。失敗も多いですし、仕事ではいろいろな対立もあります。

 時に「これでいいのかな、自分にすべきことは他にあるのではないか」という大きな不安感に襲われることもあります。」ひょっとしたら、この感覚は正しいのかもしれませんが、今は自分が置かれている環境でできることをこれまで以上に精一杯やっていこうという気持に今はなっています。
 
 これまでの私がそうであったように、チャレンジする気持を常にもって行動しているとそのアンテナに必ず引っかかってくるものがでてくること、そうなった時には私は必ずそれをつかまえられることを信じて。