チャレンジ

楽しく、自然体で生活しながら、チャレンジし、感じ続ける記録です。

金色のフェラーリー

2007-05-31 06:45:18 | 何気ない時間
 ドイツですごいものはなに?と尋ねられると、私がまず一番にあげるのはドイツの誇る高速道路アウトバーンです。普段の通勤でも200km/hで走ることもあります。このアウトバーンで私が試してみたかったこと、その一つ目は...

200km/hでオートクルーズコントロールが設定できるのか?

オートクルーズコントロールを知らない方のために説明をしますと、それはアクセルを踏まなくても、設定した速度で一定して走れるように車が自動でアクセルの調整をしてくれる機能です。

アウトバーンの速度規制がある区間や、ドイツの隣国オランダ、ベルギーを走る時にそこでの制限速度に設定して、速度違反で捕まらないように使うことはこれまでもよくありました。また160km/hに設定してアウトバーンを走ることもよくありますが、200km/hというのはやったことがありません。

そんな高速では安全を考えて設定できないようになっているのではないかと思っていました。
これを実験できる機会がとうとうやってきました。

場所はカッセルからベルリンに向かうアウトバーン。旧東独のこの地域の道路はドイツが統一して以降に改修されたのか直線部分が長く、車線幅も広く、また休日の午前中に渋滞をさけて移動する車が多かったせいか平均的な車で160km/hくらいで走っていました。

アクセルを踏み込んでメーターが200Km/hになったところで、いよいよオートクルーズコントロールをセット。

できました。
「新しいトレビアの誕生です『私の車は200km/hでもオートクルーズコントロールがセットできる』」


アウトバーンで私が試してみたかったこと、その二つ目は...

200km/hにオートクルーズコントロールを設定してどれくらい走り続けることができるか。

普段200km/hやそれ以上で走ることはあっても、常に足はアクセルの上において、車やエンジンの調子を感じながら微妙にアクセルの踏む量を調整します。このことで200km/hで走る怖さもコントロールしています。

でも、オートクルーズコントロールで走るというのは、そのコントロールしている感覚を手放す感じなので、とても恐ろしいのです。

このことを書くと思い出すのが過去の苦い体験です。

それは私が中学校1年生の時です。当時は自転車にのって何秒目をつむって走れるか、というのがはやっていました。

その日も私は友人とどちらが長く目をつむっていられるかを競争していました。

最初は3秒くらいから始めたんだと思います。次に5秒、次に6秒と増やしていきました。

それはたぶん目をつむる時間が10秒になった時、私の友人は「6!,7!,8!,9!」と数えたのち「あかん、でけへん!」といって何度チャレンジしても目をあけてしまいました。

私は「弱虫やな、そんな弱虫でどうするんや」「みとけ」とか友人に言って、自転車をこぎ始め目をつむりました、「6!,7!」数が増えるごとに一つの数がだんだん長くなるように感じました。

「8!,9!」、気持の中ではもうあかんといっています。でも友達に偉そうに言った手前とてもやめるわけにはいきません。

「10!」と私は自分自身の恐怖の乗り切るように大声をあげました。
それと同時に「やった!」と心の中で叫びました。

そして私は目を開けました。

私の目の前に見えたのは電柱。私は見事に電柱に激突しました。


こんな過去の記憶が私のチャレンジする気持にブレーキをかけます。

でも、やってみました。

時間ははかっていませんが、距離は5kmくらい走れました。最後は前に遅い車(といっても180km/hくらいはでていると思います)が入ってきてブレーキを踏みました。

でも、こんなあほなチャレンジはあまりやらないほうがいいですね。

アウトバーンにも速度制限がある区間も多くあります。そして一説では速度制限のない区間では200km/hで走行できるように設計がされているそうです。

ときどき私が200km/hで走っていても後ろにぴたりとくっつかれることがあります。それはたとえばこんな車ですね。



アウトバーンを高速で走る人はだいたい男性みたいに思います。でも、よく考えると200km/hで走っている時はドライバーの顔を見る余裕はあまりないですね。女性もとばしているのかな。



女性がこんな車で高速で走っていたらびっくりしますね。もちろんドライバーが男性でも、とにかくこんな色の車が走っていたらびっくりします。



これは私の机の上にある999個限定生産の金色のフェラーリーのミニカーです。本物のフェラーリーに金色があるのかどうか私は知りませんし、調べる気にもなりません。

でもこれを店で見たときに、香川県の金比羅さんの黄色のお守りが思い浮かび、それに似た色のこの車をお守りがわりになるかもって思い買いました。

そのうちにこんな車に乗れるかな、乗れそうで乗れないような、絶対乗れないような...

いや、きっと乗れるでしょう。私が乗りたいと思えば。

白熊に襲われる男

2007-05-30 04:57:27 | ビジネスアイデア
 ついに見た。

 白熊はおもむろに2本の足で立ち上がると、手を大きく上に振りかざした。
 そして目の前に腹ばいになって横たわる男の背中に向けてその全体重をのせた。

 白熊は男を押さえつけるように男の背中の上に完全にのりかかっている。
 
 白熊は動かない。
 
 白熊の表情は私の位置からは良く見えない。ただ、白熊の体からは満足気なエネルギーが伝わってくる。 
 
 男はわずかに右手を動かすが、それ以上の動きはない。
 男の表情もここからでは良く見えない。
 わずかに苦痛のような表情も感じられなくはないが、男の体からは恐怖のエネルギーは伝わってこない。
 男も楽しんでいるようだ。
 


 白熊はまだ若い。そしてこの白熊にはクヌートという名前がある。

 母親に見放されたクヌート。でも代わりにいつも一緒に遊んでくれる男がいる。




 ちょっとまて、ここにいるのはこいつだけではない。

 もっとたくさんの気配を感じるが、その一つの気配はただならぬものだ。

 そいつを見つけた。

 そいつはひっそりと腹ばいになって横たわっていた。
 

 起きているのか寝ているの、そいつは眼のまわりも黒いためによくわからない。

 眼の周りが黒いのは仲間になぐられたせいではない。ここには仲間はいない。クヌートのように一緒になって遊んでくれる男もいない。

 疲れているのか、たいくつなのか、それともいつもこうしているのか、5分前からこいつの前にたっている私には想像できない。

 ここがベルリンでなく日本ならば私の周りには私とおなじようにこいつの様子をじっと見つづける人がいることだろう。しかしここでは人々は一瞬立ち止まってこいつの顔を見ると、すぐに立ち去ってしまう。

 この夏の流行色である白をまとっている点は人気者のクヌートと同じだ。
 ただこいつは去年の冬の流行色の黒もまとっている。

 眼の周りが黒く、鼻も黒く、耳も黒く、体もあちこちに黒が混じっている。

 白と黒が同時に流行色になる時、きっとこいつもクヌートのように、たくさんの人に囲まれるのだろう。

 こいつも熊。熊猫という。 
 


魅力的な女性は今に生きる

2007-05-26 04:59:37 | 何気ない時間
 「子供って自分勝手でわがままでそのことに私はとても腹がたつことがある」と、ドイツ人の女性に話をした。

 その人は私の顔をしばらく見たあと私にいった。
「そうね、私もそう思うことがある。でもそれが子供の素晴らしいところだとも思わない?」

「子供は今のこの瞬間に生きてるのよ。今どう感じるか、今どれくらい満たされているかが大切なの。大人はそのことに腹が立って「これくらい我慢できなくてどうするのよ!」とか「先のことを考えなさい!」とかイライラして言ってしまうのね。でも、大人っていったいどこで生きているのかって私は考えるの。私は過去の中に生きていたり、そうでなければ将来のことを考えて、そのことに頭も気持ちもとらわれてしまっている。私は過去と将来に生きていて、今をいきていない。だから私は子供ってすごいなと思うし、大人も子供のように今に生きることができたらいいのにってよく思うの。」

私はこの話にすごく驚いた。というのはこの話をしてくれた女性は私から見るとまさに『今に生きている』という感じの人。
嬉しいことがあったら、ものすごく嬉しい顔になるだけでなく、体の全てで嬉しさが表現されている感じがある。嫌なことがあるととても辛い顔で漫画だったら後ろに暗いバックがつきそうなくらいすごく悲しんでいる。そんな、生きているっていうことをすごく感じさせる人。



そんな人でもまだ今に生きているって感じていないことに驚いた。その人はきっと今に生きようと頑張っているのだと思う。その人の普段の嬉しさや辛さの表現は、今に生きているっていうことをおおげさに表現しているのではなく、今に行きたいっていう気持が表れているんだと思う。

この女性はとても魅力的な人。

切り取られていない空

2007-05-24 04:26:36 | 何気ない時間
 「ドイツの空は大きいわね」という人がいた。

 「空の大きさは日本もドイツも変わらないと思うけど大きいってどういうことかな」と私はたずねた。

 「切り取られてない空がたくさんあるっていうかんじなの」とその人はこたえた。

 「空が切り取られる?空は本物の空で絵でもパズルでもないんだから切り取られるって感覚がよくわからないんだけど」と私は返した。

 「私にもこれがどういうことなのかよくわからないのよ、でもとにかくドイツの空は切り取られていないのよ」



 二人で空を見あげるとそこに確かに切り取られていない空があった。

 「きっと電線がないせいね」「そうだね、電線がないから空が一枚の空なんだ」

 空は一枚の空がいい。そしてこの時期のドイツは夜9時でもこの明るさだ。

 

なにかある

2007-05-23 05:32:14 | 何気ない時間
私の中になにかがある。

私自身がその正体を気付いているものもいくらかあるし、私自身が気付いているのか、気付いていないのかわからないものもそこにはある。

最初に気付くのはその場所。
ちょうど胸のあたりでその右側と左側にある。左側にあるものはとても熱くて勢いがある。

『いけいけどんどん』

熱くなって突き進む。進み出すともうまわりを振り返らずにとにかくどこか一定の方向に向かって進んでいく。コントロールがきいているんだろうか。きいていないんだろうか。恐らく自分自身ではもうコントロールはきいていないし、コントロールという言葉や機能がそこにはない。

最初はいろいろな価値判断があって、そこできめたことに突き進んでいる。それとは別に、感覚的なもので「これ!」と決めたところに突き進むこともある。そして一度進み出したらしばらくはとまらない。
それが私の胸の左側にあるもの。

私の右側にあるものは、様子を見ている。

「これでいいのかな...」「大丈夫かな...」と感じている。

自信ないという言葉はあまりぴったりとはこないが、そこには弱弱しい感覚がある。元気がないというかエネルギーレベルがよわいというか、死にそうな感じではなく、すごくそわそそわして心が小刻みに震えているかんじがして、それを弱弱しく感じている。ここではほとんどのことが自分自身で決められない気がする。

たとえ「絶対大丈夫だよ」と誰かに言われても「本当に大丈夫かな...」と感じている。その人のことを疑っているわけではないのだが、とにかく自信がないから何も確信が持てない感覚がある。

私の左側にある『いけいけどんどん』と右側にある『大丈夫かな』、どちらも私の中にあるはずなのに、一緒に表出することはない。『いけいけどんどん』がでていれば『大丈夫かな』はでない。逆もそう。『だいじょうぶかな』がでている時は『いけいけどんどん』はでてこない。

この二つがれが切り替わるときは、私はどこにもいない。『いけいけどんどん』にいた私が、あるときそこから消えてしまって、なにもない世界にうつった後、そこからしばらくして『いけいけどんどん』に戻ってくることもあれば、『大丈夫かな』にいったりする。

『いけいけどんどん』と『大丈夫かな』は私の胸の左と右、直線にたとえるとその左と右にあるもの。でもこの二つには共通するのものがある。それは、二つが同じものを見ているということ。どちら側にいても必ずこの共通するものを意識している。

意識の先にあるものはきっと私の『核』のような気がする。この『核』を『いけいけどんどん』も『大丈夫かな』も両方がみている。
その変化を感じとったときに、その『核』の変化を感じとったときに、私は何もない世界に入っていく。

『核』もまた私の体の中にある。それをみぞおちのあたりに感じる気きもしたが、いや違うそこだけではない。それはもっと大きなものだ。みぞおちのあたりに感じているのは『核』の上端で、核の本体はもっと下のほうにある。下端はおへそよりもまだ下の部分にある。

私の『核』は、みぞおちからおへその下の部分までの範囲にしっかりと存在している。

核は鉄球のように硬いものではなく、しなやかな筋肉のように柔軟で弾力性がある。しっかりとしたはりがある。あまり好きなイメージではないが、『核』は長州小力のおなかのようにはりがあって、形は球体に近いような気がする。

『核』は大きくなったり小さくなったりする。これが大きいときには大きなエネルギーを持っていて、小さいときには小さなエネルギーしかない。

そしてこのエネルギーは自分の中からうまれてくるものではない気がする。これは外と繋がっていて、外のエネルギーと作用して大きくなったり、小さくなったりしている。

大きなときには大きなエネルギー、小さなときには小さなエネルギー。

私はいつもなにかを待っている。きっと待っている。私の周囲でおきるなにかや私に向けられるなにかをいつも待っている。今気付いたことだが、私がいつも待っているなにかは、外からやってくるなにかで、外からやってきて私の『核』に作用する。それを待っている。外からの刺激は自分自身では作り出せそうで作り出せない。あくまでもそれは外にあるもの。

『核』は外からの刺激を受けてはじめて化学反応をおこす。

こうやって考えているのは、まるで私がいつもなにか外からの刺激を求めている、それがないと何もしない自分についての言い訳を考えているのではない。

今感じていること、今私のなかでおきていることを素直に感じて文章にしているだけ。

私をうごかすのは外からの刺激、私自身をいつも刺激するなにかに接していることが私のエネルギーを高めるんだ。そんなことに気がついた。

ふたりだけの時間

2007-05-22 06:45:27 | 何気ない時間
 私の名前を呼ぶどこかで聞き覚えのある声。顔を上げるとその人が私の前に立っていた。「やあ!」という声はでたものの、その次の言葉がでない。予期せぬ出来事がおき、その状況をそのまま受け入れる前に私の頭の中では「何がおきているんだろう」「何かあったんだろう」といろいろな考えをめぐらしている。今起きている状況を必死で分析しようとしている。
場所は私のオフィス、しかもここはドイツ、その人が来るのであれば私が知らないはずはないのに私は知らない。でもその人は私の前に立っている。私の頭は混乱して何がなんだかわけがわからない。

「何でここにいるの?」と聞くまでにずいぶん時間がかかったように思う。聞いてみればとても簡単なこと、私はその人が来る情報を知っていたはずなのに、それをよく理解できていなかっただけだった。

その人には以前もドイツであった。予定も何もなくただ偶然この同じビルの中で会った。そこでは挨拶をしてわかれたが、次にまたホテルのロビーでばったり会い、一緒にいた人たち6人くらいで夕食をとった。そして翌日はなぜか2人でドライブをした。

思い出してみると丁度1年前のこと。こんな偶然も珍しい。
今回は、一日の終わりに私がここにいることを思い出し、わざわざ私に会いに来てくれたこともとても嬉しい。

嬉しいと飲みに行きたくなる。

「今晩は何が食べたい?」こんな時に出る言葉は我ながらとても自然で、それでいて私がどうしたいかをしっかり伝えている。

自然な誘いには自然な答えが返ってくる。

その日予定していた筋トレのことを私はすでに忘れている。たとえ明日までに仕上げないといけない仕事があったとしてもそれも簡単に忘れてしまう。とにかく一緒に食事に行きたい、ただそれだけ。

ドイツらしい雰囲気があって、そして地元の若い人達が集まる、日本でいう居酒屋のような店にいった。ここの料理はドイツ料理でもとてもおいしい。ここで飲むビールはすぐとなりのお店で作られたアルトビールなのでもちろんまずいわけがない。

ビールが入ると話もはずむ、お店にきているお客はみんなそう。お互いの声がだんだん聞こえづらくなってきた。気がつくと店の中は立つスペースもないくらいたくさんのお客で埋め尽くされている。

大きな音でドイツ語が飛び交う中、我々だけが日本語の世界。ドイツ人に負けないくらい大きな声で話をする。話が聞かれても二人のことを知る人はきっと一人もいないし、そもそも日本語がわかるわけはないから、何を話しても心配はない。

自分達がどこにいるのかだんだんわからなくなってくる。前も横も後ろも、そこにいるのは全て日本人ではないし、その場所の雰囲気はまぎれもないドイツ。そしてここは正真正銘のドイツ。でも、どこであっても関係ない。二人はお互いが話したいことを日本語で大声で話している。

何も気にすることなく、誰を気にすることなく、二人だけの時間、今この時を楽しんだ。

幸運を運んだ招き猫

2007-05-16 06:55:55 | 身近な出来事
 さいきん少し調子が上向き傾向になってきたと感じていました。そして昨晩はそれを確信するようなことがいくつかありました。

 大きなイベントに参加し、そこでの余興としてルーレットをやった時のことです。まずは1/3の確率にかけるところからはじめたところ、何度も続けてあたるんですね。不思議なことに。
お金がかかっているわけではないので、もっと確率の低いところにかけて楽しめばいいものの、自分自身の調子や運といったものがあまりあてにできなくて、小さな勝負を繰り返していました。

 でも、不思議なことに負けないんですね。

 コインが増えて札になり、札がまた増えてくると「俺っていけるじゃん!」とだんだん思い出し、そこから確率の低い勝負をはじめました。
そうするとやっぱり負けはじめ、とうとう札が一枚になりました。そしてもうどうでもいい気持で最後の一枚を私の好きな14の上に放り投げました。

ルーレットが回ってとまった数字は...14ではありませんでした。
でも、私が投げた札は14ともう一つの数字の上に偶然のっかかっていて、そのもう一つの数字のところにボールがとまっていました。

「これはついてるぞ!」と思い、もらった札を複数の数字にまとめてかけました。
ルーレットが回りとまったところは...こんどはなんと14でした。
私は14にはかけていません。これで全てが終わりと思ったところ、歓声がわきました。

 なんと私の札が14の上におかれているのです。私が前回かけた札を取り忘れ、それが何かの拍子で14の真上にずれておかれていました。
「あなたの勝負はこれで終わり」とディーラーに言われ、私は豪華なポーカーセットをいただきました。

 こんなことがあるんですね。本当に不思議です。

これ以外にも昨日はいろんなラッキーなことがありました。
今日になって何かきっかけがあるような気がして、考えていたら出てきたのが『招き猫』でした。



 これははいとこのイラストレーターに、写真をもとにしながら私好みに書き変えてもらったイラストでした。昨日これが完成しこのイベント会場に大きなサイズで展示されていました。

きっとこの『招き猫』はいろいろな幸運をまねくんだと思います。

いろいろな偶然と辻仁成

2007-05-14 00:44:47 | 身近な出来事
 先週火曜日に辻仁成の『太陽待ち』ドイツ語版出版記念朗読会に参加しました。
ちょっとしたホールのような場所で、参加者は200人くらいいました。8割がドイツ人で残りは日本人でした。辻仁成の価値観や、『太陽待ち』の内容に関わるそこに込めた思いなどについて、インタビューアーの質問に辻仁成が答える部分と、インタビューの合間に『太陽待ち』の朗読が行われました。

 私は一番前の列に座って辻仁成とはどういう人かを知り、そして彼の持っている何かを吸収しようとしました。
辻仁成がどんな人なのかは少しわかった気がしますし、何かを吸収できたような気もします。ただ、それが何を吸収できたのかはよくわかりません。でもきっと私がそれを必要とするようになった時にそれは私のなかからでてくるのだと思います。




実は、はずかしながら私は辻仁成という名前を聞いたときに、それがだれか全くわかりませんでした。そしてインターネットで調べてみて「この人は私が会いたい人だ」と気付きました。

これはちょっとした偶然です。まず一つ目は先月パリを車で走っていた時に「そういえば中山美穂は作家と結婚してパリに住んでいるんだよな、でも誰と結婚したんだっけ、興味あるな」と思っていました。
辻仁成は中山美穂のダンナですね。(インターネットで調べてみると離婚が近いというようなうわさもあるようですが...)
因みに私は中山美穂のファンでした。あの目と声がすきです。雰囲気や空気感もとても好きでした。今でもどこかで会うようなことがあればすごく嬉しいし、どきどきするでしょうね。




 さらに二つ目は『冷静と情熱のあいだ』です。これは辻仁成の小説ですね。私は小説もよみましたし、映画も見に行きました。
そして映画のストーリーとは全く関係ないものの、4月に入ってから私自身の変化のテーマが『冷静と情熱のあいだ』だと気付いたのでした。特に私にとってはクールさがポイントで、クールな人に会いたいと思っていました。

 三つ目は小説そして村上春樹がキーワードです。2月から村上春樹の小説にはまっていて、彼の長編小説の全てとそれ以外のジャンルを含めて22冊を読みました。そして村上春樹の次によむ小説を探していました。
辻仁成の小説は村上春樹に近いテイストがあるようですね。ドイツ語の『太陽待ち』の裏には「村上春樹が好きな人は辻仁成を読むべき」という雑誌の記事が引用されて印刷されています。これからしばらくは辻仁成を読もうと思い、そのよいきっかけになりました。
朗読会の後にサイン会もあり、私はドイツ語の『太陽待ち』を買いサインをしてもらいました。ただ、ドイツ語で読むのは厳しそうなので、これは日本語を読んでから読もうと思っています。




 このような偶然がおきる時には、何かが動き出すとき、自分にとっての変化がおきる時だということを私は過去の経験から知っています。
何がおきるのか、それとも私がおこすのか、いずれにしてもワクワクしています。

ドイツ人の好きな言葉

2007-05-12 06:37:34 | 旅に出て
ドイツ人の好きな言葉が3つあると長期間ドイツに滞在している日本人から教えてもらいました。
一つ目は『健康』です。 "Das ist gut fuer Gesund."「それは健康にいいんだよ!」という言葉を私もよく耳にします。またドイツの街角で『BIO』という看板をかかげた健康食品の店をよく目にします。レストランなどでもサラダメニューはとても人気があります。たっぷりと盛られたレタス、キャベツ、白菜、人参、ジャガイモなどのサラダの上に鶏肉や豚肉などのグリルがのっている料理です。最近はドイツでも『SUSHI』ブームで『SUSHI』の看板もよく見ます。スーパーでも冷凍すしが売られています。パッと見は美味しそうにもみえます。でもよく見るとご飯粒が潰れて団子のようになっていてとても買う気にはなれません。

ドイツ人の好きな言葉二つ目は『無料』です。 "Es ist kostenfrei."「それは無料なんだ!!」という会話もよく聞きます。 適切な例ではないかもしれませんが、会社のクリスマスパーティーなどで食べ物や飲み物代を払わなくていい時には、信じられないくらい食べて飲む人が多いように思います。けちという感じではなくとにかく『無料』というのが好きなんですね。

三つ目は『散歩』です。私の家の近くにはライン川が流れているのですが、晴れた日の休日には信じられないくらい多くの人がこの川沿いを歩いています。「お祭りか、屋台でもでているのかな」と思って周りをみてみてもそんなものはありません。ただ歩いているだけなんですね。それも老若男女を問わず歩いています。会社でも昼食後に仲間と連れ立って散歩に行く人達が多くいます。以前ドイツに住んでいた時にドイツ人の友人に夕食に誘われましたが、家についてまずしたことは家族と一緒に散歩にいくことでした。
『散歩』はドイツ人の好きな言葉一つ目の『健康』、二つ目の『無料』ともとても相性がいいような感じもしますね。
5月に入ると夜9時を過ぎても外は明るく、また気候もよいことから私も食後の散歩にでるようになりました。30分くらいですが家並みや公園を目的もなく少し早足で歩きます。
とても手入れがよく行き届いた庭にさくさつきやバラの花を見ながら歩くのはとても気持がいいです。

『健康』『無料』『散歩』と聞くと「日本人と同じだね」と感じられたと思います。このことだけではなくほかにもいろいろな面でドイツ人と日本人はすごく近いところがあると感じます。
たとえば群れることが好きなところ、勤勉でまじめなところ、メンタルな部分でも恥ずかしがりやなところなどは日本人に近いものがあります。他にもいろいろあります。このせいもあってか私はドイツ人にすごく親近感を感じます。

なかなか理解できない部分ももちろんありますし、好きになれなかったり慣れない部分もありますが、それらを乗り越えて繋がっていける気がします。
10年以上前にドイツに住んでいたときにも同じように感じたようにも思いますが、今私が感じていることはその当時感じていたことよりももっと深いように思います。



半年以上も前の話になりますが、友人とドイツ南部のノイシュバンシュタイン城を訪れたとき、夕食で同じテーブルに座ったドイツ人夫婦と知り合いになりました。私の知っている多くのドイツ人と同じように、この時のドイツ人夫婦も会話がはずみだした時から、まるで大きく手を拡げて人を迎え入れるように我々に接してくれました。夫婦は翌日の計画を変更し、次の朝我々にノイシュバンシュタイン城観光の特別ルートを教えるために一緒に歩いてくれました。

久しぶりの落ち着いた時間

2007-05-02 00:05:07 | 何気ない時間
 ドイツの私が住んでいる地域は4月に入ってから雨が全くといっていいほど降っていません。4月の降水量としては何十年ぶりかの少なさらしいです。私は朝起きるとすぐにベットの横についているスイッチで電動シャッターを開けてその日の天気を確認する習慣がありますが、毎朝毎朝、空は雲一つない快晴。天気がよいのは気持いいのですが、これだけ晴れの日が続くとやはり何かがおかしい、異常気象かなと不安になってきます。そういえば今年の冬は雪もほとんど降らなかったし、3月も雨が降ったのは数えるくらいの日数でした。





 私は無駄なことは嫌いですが、シャワーを浴びている時はずっと水は出しっぱなし、嫌いな料理は食べ残し、鼻紙、トイレットペーパーは使いたい放題、アウトバーンではいつも最高速で走ってガソリンの節約は考えていないし、必要だと思って買ったものが使われずに置きっぱなしということがよくあります。
唯一最近心がけているのは無駄な待機電力を使わないためにコンセントをOn/Offスイッチ付きのものに切り替えたのと、買い物に行くときはマイバックを必ず持っていくくらいです。

 もう少し環境のことを考えて、生活態度を変えようかなと少し思い始めました。

 先週末はオランダにあるチューリップの有名な公園(Keukenhof)に行ってきました。例年なら4月の末ごろが見ごろなのですが、今年は好天の影響で見ごろはすぎている感じがしました。10年前の見ごろの時期に訪れたときにくらべて感動が薄い感じでした。





 4月初旬に一週間日本に帰りました。日本も天気の良い日が多かったのですが蒸し暑さには参りました。気温は25度くらいだったのでそんなに暑いわけではないのですが、朝からむしむしして体中がべとついてくる感じでした。湿度の低いドイツの気候に私の体が慣れたせいもあるかもしれません。7月にはまた日本に帰る予定なので、その時にはしっかり蒸し暑さ対策をしようと思いました。そういえば日本にいたときは初夏になると毎朝冷たいシャワーを浴びた後、体中にシーブリーズを塗りたくっていました。昼になれば汗をふき取り、またシーブリーズを体中に塗って、それで一日を乗り切っていたのを思い出しました。もともとむしむしには弱く、暑がりだったのかもしれません。
 
 ドイツでは5月のゴールデンウイークというのはありませんが、今日5月1日火曜日が祭日だったので、月曜日を休みにして4連休をとりました。3月、4月ととても忙しい日々が続いていたので、この休みはとてものんびりと過ごしました。
そんなか、土曜日にドイツにきてから始めたコーラスの発表会があり、ドイツ語と日本語の歌2曲づつを歌いました。メンバーは全員が同じ先生の個人レッスンを受けている人達で、個人レッスンに加えて2週間に1回全員が集まって発表会に向けたトレーニングをしてきました。今回のコーラスが上手くいったのかどうかは、私にはよくわかりません。いいところをほめてくれるひともいますし、ここをこうすればよいという指摘をいただくかたもいますし、良いところも良くないところもあったということなのでしょう。私は歌っているときに緊張はなかったのですが、余裕がありませんでした。回りのメンバーの歌を聞く余裕、個人レッスンの時に指導を受けている発声にかかわる音を前に出したり音をみるなどの余裕、そんな多くの余裕が自分にはなかったように思います。

 ドイツに着てからこのボイストレーニング&コーラスのほかにもダンスをしばらく習っていました。踊りたいと思った場面で、なんお躊躇もなく踊りたいように踊りたいと思ったからです。歌も歌いたい時に歌いたいように歌えるようになりたいと思って始めましたが、歌いながら踊れたらいいですね。今から芸能人を目指すわけではありませんが、『歌って踊れる...』になれたらいいなと思っています。

 ドイツの私の住む街にも何軒かカラオケスナックがあります。私がよくいくのが、日本のカラオケスナックと韓国のカラオケスナックです。日本のカラオケスナックの客はほぼ全てが日本人。韓国のカラオケスナックは日本人と韓国人が同じくらいで、他にも中国人、ドイツ人や他のヨーロッパの人達もきます。ボイストレーニングを習い始めてから気になることがでてきました。日本人は音程をあわせるのは上手くメロディーを上手に歌う人が多いのですが、声の迫力が著しくかけています。本人は上手く歌っているつもりだと思いますが、のどだけで音を作っているので歌がすごく浅い感じがします。対象的なのが韓国人。音は外れることもありますが、体全体で声を出している人が多いので迫力が全く違います。私が審査員だったら韓国の人をスターにします。

 体を鍛えることもドイツで続けていますが、ここ3ヶ月くらいはさぼってばっかりでした。でも夏に向けてボリュームのあるボディーを作ろうとこの週末にトレーニングを再開しました。1ヶ月くらいは週3日様子見をしながらのトレーニングを続け6月になったら体を大きくするトレーニングに移ろうと思っています。2月、4月に帰国した際に日本で通っていたジムに顔をだしたのですが、トレーニングはできませんでした。7月までにいい調子で体を作って、また日本で先生に指導をしてもらうことを楽しみにしています。

 暖かい季節になると、男性も女性も薄着の人が多くなり、その人の体型が良く見えるようになりました。一流のファッションショーにでるモデルのような人もいればXXXLのモデル/ダイエット前の写真のような人も多くいます。そんな中で関心するのが姿勢のよさです。ファッションショーのモデルはもちろんですが、ダイエットのモデルも普通の人もみな背筋がすっと伸びています。日本でしばしばみかけるような背筋の曲がった人はここではほとんどみかけることがありません。家庭の教育で姿勢のことについて強くいわれているのか、学校で頭の上に本を載せて歩く教育があるのかは聞いていませんが、これには関心します。

 ドイツに来て10ヶ月が経ち、見るもの聞くもの体感するものについての新鮮さや感動はかなり薄れてきた気がしますが、今はそれを自然なものと受け止め自分の中で消化し、理解していく段階にはいったように思います。過去にドイツで生活したときに気がついていなかったことに気付き、理解できていなかったことに真剣に向き合っている気がします。失敗も多いですし、仕事ではいろいろな対立もあります。

 時に「これでいいのかな、自分にすべきことは他にあるのではないか」という大きな不安感に襲われることもあります。」ひょっとしたら、この感覚は正しいのかもしれませんが、今は自分が置かれている環境でできることをこれまで以上に精一杯やっていこうという気持に今はなっています。
 
 これまでの私がそうであったように、チャレンジする気持を常にもって行動しているとそのアンテナに必ず引っかかってくるものがでてくること、そうなった時には私は必ずそれをつかまえられることを信じて。